第55話 本当の動機

 前を行く祐輝が突然足を止め、唇の前に人差し指を立てて振り返ったのは、ホームへの階段を下りている時だった。

 数段上にいた玲奈と洋介はとっさに顔を見合わせたものの、すぐにそのわけを悟る──声が聞こえてきたのだ。

「……お前、ほんとは俺のこと好きでもなんでもないだろ」

 拓海の声だ。ということは話しかけている相手は──…。

「そんなことないわよ。拓海は……私の大事な幼馴染なんだから」

 やはり、答えたのは美咲だった。今度は祐輝も加えて三人で顔を見合わせた。これはかなりプライベートな会話を盗み聞きしてしまっているのではないだろうか。

「……じゃあ聞き方変えるけど。今は俺に恋愛感情はない。だろ?」

 語尾は上がっているものの、尋ねているときの口調ではない気がする。そう、しいて言うなら──「確認」のニュアンスだ。

「……そうね。今はないかもね」

 美咲はワンテンポ遅れはしたものの、さらりと言った。

(──え?)

 玲奈は思わず自分の耳を疑う。さっきまで美咲は、どこからどう見ても拓海に片想いする女の子だった。叶わぬ恋を断ち切ろうと相手にぶつかっていく女の子だった。

 それなのに今、その張本人が「拓海に対して恋愛感情は抱いていない」と認めたのだ。玲奈の脳裏にまた、「女はみな女優」の文字が浮かぶ。

「じゃあなんで、あんなこと言ったんだ……」

 拓海の声に困惑が混じった。もっともな疑問だと思う。

 でもどうやら拓海は、美咲に恋愛的な意味で好かれているわけではないと最初からわかっていたようなのだ。それなのに美咲は恋心をぶつけてきた──拓海でなくても驚き混乱するだろう。

(……え、ちょっと待ってよ)

 それなら拓海は、美咲の告白や自分への言葉が全て嘘だと気づいていながらあの対応をしたということになる。玲奈はいつかに廊下で拓海を呼び止めた時のことを思い出した。あの時も拓海は、こちらの嘘にさらりと話を合わせたのだった。

「さあ? 特に理由なんてないけど」

 美咲の気のない返事が聞こえてくる。でも玲奈はとっさに嘘だ、と思った。意味もなくあんなやり取りをするわけがない。

 きっと拓海もそう思っているのだろう。二人の間に沈黙が落ちる。


 こちらに気づいて黙ったわけではないはずだけれど、玲奈は今のうちに改札階に戻ろうかと考えた。内容が気にならないと言えば嘘になる。けれど盗み聞きというのは、あまり気分のいいものではない。

 ところがすぐそばで聞き耳を立てる一年男子二人に立ち去るという選択肢はないらしい。どうしようかと逡巡しているうちに、拓海が再び口を開いた。

「……今頃になって、香苗が嫌がらせされてたって話を聞いたんだよ」

 香苗というのはきっと、拓海の中学時代の元カノのことだろう。これを聞いてしまっては、玲奈でさえももうこの場を離れるわけにはいかなかった。

「ちょっと待って。それ私じゃないわよ」

 美咲が驚いたように言う。

(──あ、そうなんだ……)

 考えてみれば、必ずしも前回と今回が同じ人物による嫌がらせとは限らないのだ。

 麻衣子だって、誰が黒幕なのかはわからなかったと言っていた。それはつまり、件のグループの中にすらそれだけ「候補」がたくさんいたということなのかもしれない。

 直接かかわったわけでも、そばで見ていたわけでもない三年前の事件に関しては、実際それほど考えてはいなかったのだと、玲奈は今更ながら気づく。

「わかってる。何年幼馴染やってると思ってんだよ」

 拓海は穏やかに言った。なんと重みのある言葉だろう。もし美咲と同じ立場に立つことがあったとしても、玲奈にはそんなふうに言ってくれる人はいない。

「お前は仮に好きな男に彼女ができたところで、そいつに嫌がらせなんてしないだろ。むしろ『最後に選ばれるのは私よ』みたいな顔して余裕ぶっこいてるタイプ」

 続けて飛び出した言葉に、思わず吹き出しそうになってしまった。でも正直、そんな美咲の姿は想像に難くない。

「だからこそ、今回のは特に美咲が仕組んだとは思えないんだよ」

 拓海は特に力を込めるわけでもなく静かに言った。実際、拓海のその考えは正しいのだ──もちろん、さっきの祐輝の指摘が正しいとするなら、だけれど。

「私じゃなかったら、誰の仕業だっていうの?」

 そう言う美咲の声は明るかった。朔也をかばっているというよりは、なんとなくどこか楽しんでいるかのような印象を受ける。

「……他に関わってるのは、安達しかいない」

 対照的に、拓海は苦い声で言った。もしかしたら拓海と朔也は、ある程度付き合いのある仲だったのだろうか。

「そんなのわからないわよ? 私と朔也が実行犯だっただけで、自分の手は汚さない主義の陰のリーダーがいたっておかしくないでしょ?」

 その瞬間、玲奈がさっき抱いた疑惑──美咲はこの会話を楽しんでるんじゃないか──は確信に変わった。

「もし本当にそうなら、美咲は絶対に今そんなことは言わない」

 拓海の声は相変わらず苦い。

「ふふっ、変なところで鋭いわね」

 美咲はそう言って笑った。美咲と朔也が主犯であることは確かだということだろうか。

「でも美咲しかいないんだよ。俺に対してこんなことできるのは」

 拓海はそう言ってため息をついた。どういうことだろう──こんなことができるのは美咲しかいない、というのは。玲奈は思わず耳を澄ませる。

「拓海って……時々賢いのかばかなのか本当にわかんなくなるわ」

 美咲が再び笑った。

「私が仕組んだとは思えないのに、私にしかできないって矛盾してるでしょ。結局私なの? 私じゃないの?」

 美咲がどうしたいのか、玲奈にはもうさっぱり見当がつかなかった。

 少なくともあの場では、美咲は自分が朔也を利用してことを謀ったのだと言っていた。けれど拓海とのこの会話を聞いている限り、美咲が朔也をかばっているとは思えないのだ。


 しばらく経っても、拓海は答えなかった。相反する考えの間で答えが出せないのかもしれない。

「……あいつ……安達のことは好き、なのか?」

 拓海は話の矛先を変えた。何か考えがあってのことなのだろうか。それとも、もうこの話は終わりということなのか。

「……どうかしらね。でも、決してこちらを振り向いてはくれない人を追うよりも、私を一番に思ってくれる人といる方が幸せなんじゃないかって、思ったのは確かね」

 美咲は特に感情を込めるでもなく言った。誰と誰のことを言っているのかは明らかだ。

「告白されたときね、言われたのよ。『松岡が好きなのはわかってる。今はそれでもいいから付き合ってくれないか』って」

 なんとなく、それは想像できる気がする。朔也はいかにも、そういう一途さの持ち主という感じだった。

「拓海のことが好きなんて、一体いつの話をしてるんだろうって思った。でもね、だからこそ信じられるって思ったの。私の気持ちがずっと変わってないと思い込めるのは、サク自身の気持ちがずっと変わってないってことだから。人は自分を基準にものを考える生き物でしょ?」

 美咲の言うことは正しい──それが人間なのだ。自分の知っているようにしか世界をとらえられないし、自分の見たいようにしか物事を見られない。

「でも私があまりに変わらなかったから──当然だけどね。私は片想いなんてとっくに卒業してたんだから。サクは焦って今回の計画を持ち掛けてきたってわけ。わかる?」

 そう言って美咲はかすかに笑った。

「サクは私の拓海への片想いを応援するように見せかけて、本当は私が拓海に嫌われるようにってあの計画を考え出したのよ。たぶんどこかの段階で自分から『実は、美咲の指示で俺がやったんだ』って、あんたに告げ口に行くつもりだった」

 祐輝の考えは正しかったのだ。もちろんそれだって、美咲が本当のことを言っていると仮定すれば、だけれど。でも、今ここで美咲が嘘をつく必要があるとも思えない。

「その前に玲奈が安達にたどり着いたってことか」

 突然自分の名前が飛び出して、玲奈はドキッとしてしまった。けれどひるんでいる場合ではない。一言たりとも聞き逃すわけにはいかなかった。

「そういうことね。さすが、拓海を凌ぐ秀才ってだけあると思うわ」

 褒められているわけではないのはわかる。知らなかったとはいえ、玲奈は結果として朔也の期待通りに動いてしまったということなのだから。

「じゃあ美咲──お前の目的は何だったんだ? なんで安達の話に乗った?」

 なんとなく、拓海の声から悲壮な響きが感じられる。考えてみれば、祐輝に突然呼び出されわけもわからず連れてこられたうえに、当事者の一人とはいえ修羅場に巻き込まれたたのだ。当然かもしれない。

「理由なんてないけど? ちょっと悪ノリしちゃっただけ。ただの暇つぶし」

「美咲」

 美咲が本気で答えていないとわかるのだろう。拓海はたしなめるようにその名を呼んだ。

 二人の間に沈黙が落ちる。

 しばらくして、美咲が小さくため息をついた。

「……拓海のためよ。好きな人に振り向いてもらえない気持ちは、よくわかってるから……」

 実感のこもった声だった。でもふと引っかかる。それってつまり……。

「ちょっとしたきっかけがあればすぐ上手くいくと思ったわ。それこそ、困ってるときに助けてくれたりなんかしたらすぐ、ね。だからサクの計画に協力すれば、拓海がかわいい彼女にオトコを見せられるような場面をつくってあげられるって思ったの」

 やっぱりそうなのだ。少なくとも美咲という、拓海に近い人間からは「関係がうまくいっていない」と思われていたのだ。それも、拓海の想いの方が一方通行である、と。

「美咲……お前、いったい何を……」

 拓海の困惑が、玲奈には手に取るようにわかった。拓海が玲奈のことをどう思っていたかはわからない。でも第三者が手を出したくなるほどの、そこまでの危機的な状況ではなかったはずだ。

「現に、絆は深まったでしょ? あんなふうに助けてもらって何も思わない女子なんていないわ」

 あんなふうに、ということは美咲もどこかから見ていたのだろう。いや、美咲はB組──つまりA組の隣の教室がホームルームなのだから、一部始終を知っていてもおかしくはない。

 それに、美咲が言っているのは本当のことだった。第三者である琴音や彩佳だって、「グッとくる」と評していたくらいなのだから。

「そんなの……自分が悪役になってまでやることか?」

 途方に暮れたような拓海の声に、玲奈は思わず同情してしまう。板挟み状態なのだ──守るべき彼女を辛い目に遭わせたのは自分の幼馴染で、その動機が自分のためだったというのだから。

「何度も言ってるでしょ。あんたは私の大事な幼馴染なの。幸せになってほしいって思ってるの。私は佐々木さんとは何の関係もないし、嫌われたって辛くもなんともないんだから。拓海の恋が上手くいく方が大事」

 そう言った美咲の声には、どこか晴れ晴れとした響きがあった。胸につかえていたものを吐き出せてすっきりしたのかもしれない。

 が、反対に玲奈は少し気分が落ち込むのを感じた。嫌われたって辛くもなんともない──これは美咲の言うように「関係がない」からなのだろう。でも暗に「嫌われたところで恐れるに足りない、気にするに値しない」と言われたような気がした。

「美咲──」

「──まさかそこでお礼言ったりなんてしないですよね? 松岡先輩」

 突然割り込んできた祐輝の声に、玲奈と洋介はそろってぎょっとする。いつのまにか祐輝は階段を下り、拓海と美咲のそばへと移動していたのだ。

 玲奈はとっさに洋介の腕をつかむ。

「私たち、ここにいない方がいいと思う!」

 小声でささやくと、洋介はすぐに察してうなずいた。極力静かに階段を駆け下り、拓海たちがいるのとは反対側のホームを目指す。ちょうど階段を挟んで向こう側とこちら側に分かれた格好だ。ここなら向こうの声は聴こえるし、こちらが声を上げなければ存在を悟られることもない。

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