第37話 見えているもの

 こんな傷、痛くも痒くもない。


 恐らく、おれとパレットのステータスは拮抗している。

 もし攻撃力と防御力の較差が大きければ、きっといまごろ生きてはいない。実際、あのラムと呼ばれた男は『雷の槍』が発動した瞬間、衝撃による内圧で目玉が吹き飛んでいた。きっと即死だろう。


 裏を返せば、パレットは勝てる相手なんだ。

 こんな場所で休んでいる場合ではない。早く戻らなければ。


 足を踏み出す。腹から大量の血液が零れ落ちる。大丈夫、中身は腹にまだ収まっている。死にはしない。


 ここは、フィズの教会か。


 おれが突っ込んだせいで倒壊していたが、周囲に転がる石造りの建材から判断する。パレットと戦った広場からそう離れてはいない。


「待て」


 外套で頭をすっぽり覆った小柄な人物が、おれの目の前に立った。


「その傷でよく生きているな……。だが、止まれ。動くたびにHPを失っている。無理をすれば本当に死ぬぞ」


 平淡な言葉だった。


 周囲では炎が踊り、激しく火の粉が舞っている。

 大勢の人が死んだ。盗賊団はまだ撤退していない。

 逼迫した状況であるはずなのに、まるで興味を示していないかのように抑揚を感じない声音だった。


 おれはその小さい肩に手を置く。

 押し退けて前に進もうとした。

 

「心配は要らない。おれはまだ戦える」


「戦って、どうする? 見ていたぞ。お前ではあの男には勝てない」


 その冷静さが、他人事のような物言いが、おれの癇に障った。

 思わず声を荒げてしまう。 


「退け! おれがパレットを倒すんだ!」


「落ち着け」


「早くしないと、フィズが、カフェが……アルゴンキンが……!」


 叫んだ拍子に、腹から血が吹き出た。


 HPが100を切る。

 激痛とともに目眩に襲われ、おれはその場に膝をつく。図らずも前の前の人物に寄りかかるような姿勢になった。


「死んだぞ」


 その人物は、突き放すように告げた。


 そしておれの頭を両腕で包み、胸へと抱き寄せた。

 柔らかい感触とともに、知った匂いを感じた。昔から触れていたわけではないのに、なぜか懐かしさを感じる、あの子の匂い。


「この目で見た。全員死んだ。間違いない」


 すっと頭の熱が下がる。


 知っていた。理解していた。

 だが、実感がなかった。宣告されて初めて思い知る。

 三人が死んだ。いや、他の村人もだ。盗賊団に殺された。もう帰ってはこない。二度と言葉を交わすことはない。


 突きつけられた現実を激昂で押し返そうとし、できなかった。

 

 あれだけ腹の中で渦巻いていた感情が、嘘のように溶けていく。

 残ったものは、喪失感だ。怒りという上澄みが消え、奥底に沈んでいた悲しみや憂いがじわじわとおれの体を侵していく。


「お前にはなにが見えている」


 ユウちゃんだ。


 おれを抱き締める人物は、ユウちゃんだった。


 なにも見えていない。

 絶望を恐れ、荒ぶる憤激に身を任せて目を背けていた。

 フィズやカフェ、アルゴンキンの死を確認することが怖かった。だからパレットに発憤の矛先を向け、動揺を言い訳に思考を後回しにしていた。


 そのせいで、おれはこの子を心配することさえできていなかった。


「よく見ろ。残ったものだけを見ろ」


 ユウちゃんは淡々と続ける。


「死者は返ってこない。なにも思わないし、なにも感じない。お前が仇を討とうが、死者に届くことはない。だから、残ったもののためになにができるかを考えろ」


 温かった。


 炎の熱でも、身を焦がす激情でもない。

 ユウちゃんの体温がおれに伝わってくる。

 静まり返った湖畔のように冷然とした言葉の中に、水面に浮かぶ一つの灯火を思わせる温かさを感じた。ちっぽけで不器用な、この子の優しさだ。


「おれを見ろ。まだお前の手の中に残っているぞ」


 おれは、ユウちゃんの外套を握り締めた。

 母親に泣きすがる子供のようだが、体裁を取り繕う余裕はなかった。


「ごめん……」


 声の震えも止めることはできなかった。


「ちょっと、泣いていいかな」


 ユウちゃんは、いつものように無愛想な調子で答えた。


「勝手にしろ。どうせおれにはなにも見えていない」



 ◆



 この日、ダルモア村は落ちた。


 盗賊団による捜索は執拗なものではなかった。

 おれのことは殺したと考えたのだろう。

 また、長居すれば彼らも呑まれかねないほど、炎と煙は勢いを増していた。

 そのためか、これだけの惨劇を生んだにも関わらず連中の撤退はあっさりとしていて、息を潜めていたおれたちが発見されることもなかった。


 そして村から脱出する直前、ユウちゃんが教えてくれた。


 フィズが息を引き取る直前、おれを呼んでいたらしい。

 迷わず彼女のもとに向かった。崩れ落ちた家もまだ燃え尽きていなかった。


 動かなくなったフィズの手を握り、またちょっとだけ泣いた。


 瓦礫の中に、カフェの死体も見つけた。

 自然と、彼を友として嘆じることができた。そのことにすこしほっとした。


 日が落ちた。


 実をいうと村には生き残りがいた。

 一部のワインを飲まなかった者たちを中心に、二十名あまりの村人が教会の地下室に逃げ込んでいたようだ。

 不幸中の幸いだが、失った命の数を考えると素直に喜ぶことはできない。


 四十近い死者が出た。


 守ることができなかった。


 村は鎮火しつつあったが、まだ夜陰を押し返すほどの火は残っていた。

 おれは崩れた石壁の外から、その光景を眺めている。


 花が枯れてしまった。


 もちろん、探せば燃え残りくらいあるだろう。

 それに石壁の外の花畑までは火の手が回っていない。大部分を『花まつり』の装飾用に収穫してしまったとはいえ、すべての花が枯渇したわけでない。


 そうではなく、象徴的な意味としての花を失ってしまった。


 平和を願ったおれの母親の意思は、途絶えてしまった。


 昨日までの安穏な日々が嘘みたいだ。

 ユウちゃんのおかげで癇癪を抑えることはできたが、だからといって平静を取り戻せたわけではない。これから失ったものと残ったものを数え、現実と対峙する作業が待っている。


 これから先、おれにはなにができるのだろうか。

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