第33話 ソラとカフェ
「『炎の槍』!」
フィズの掌の中に、身の丈ほどの炎の槍が発現した。
おれは堪らず剣を抜く。
フィズに刃を向けたくはないが、話が通じる状態でははない。
完全にパニックに陥っている。一体、外でなにが起きたというんだ。
「落ち着け、フィズ!」
「うるさい! あなたが……あなたがソラを、村のみんなを……わたしのワインに毒を……!」
嗚咽を堪え、フィズは叫ぶ。
未遂の犯行に対する物言いではない。まるで、取り返しのつかない悪事を働いた者を難詰するかのような口振りだった。
だが、おれはなにもしていない。寸前で踏み止まった。
毒を盛ろうとした意思を責められるのであれば甘んじて受け入れるが、まだ実害は出ていないはずだ。
「おいおい、まさか……」
おれの背を嫌な汗が伝う。
樽の中身はかさが減っていた。フィズが一杯目を配ったからだ。
実際にワインを移し替えた鍋を抱え、村人たちのゴブレットに注いで回る彼女の姿をおれは目撃している。
おれはその隙を見計らって家に忍び込んだのだから。
仮に、その時点ですでに毒が混入していたとしたすれば。
誰の仕業かなんて、想像は用意だった。
男の狂ったような破顔が脳裏に浮かぶ。最初からおれのことなど信用していなかったのか、あるいは二重の策のつもりか。
「いいか、フィズ。その毒はおそらくパレットが……」
「ソラを返して!」
振り絞った彼女の叱正が、おれの思考を鈍らせた。
フィズが『炎の槍』を振りかぶる。
横なぎに払う気だ。あの槍は伸びる。この部屋のすべてが間合いだ。
反応は間に合った。
「降り頻る憂いの糸。後ろ髪を濡らす音。待ち人は、見えなくなった」
手早く詠唱を終え、剣を正面にかざす。
「『沛雨の檻』」
おれの眼前に水の壁が現れた。
炎に強い耐性を持つ、防御用の魔法だ。だが、衝撃を相殺できるわけではない。あくまでも熱を防ぐだけだ。
おれは振るわれた『炎の槍』を水の壁で受け止めた。
これが悪手だった。
例えば同系統の魔法である『水の槍』などを洗濯すべきだった。
攻撃を受けるのではなく弾くべきだった。
だが、もしその余波がフィズへと跳ね返ってしまった時、錯乱しているいまの状態で彼女が対応できるとは思えなかった。
自らの魔法とはいえ、無防備に食らえば大惨事に繋がる。
だからおれは、炎を正面から受けようとした。
高熱の炎が水の壁に触れ、大量の水蒸気とともに爆散する。
おれの体は後方に吹き飛ばされ、ワイン樽を粉々に砕いた。全身に毒入りワインが降りかかるが知ったことではない。
「ぐっ……!」
フィズはどこだ。蒸気で見えない。
判断を誤った理由は、彼女の一言だ。
ソラを返せと、そう言われた。
例えば、もし立場が逆であればと考える。
ソラが毒入りの瓶を持っていたとしたら。
彼女はこれほどの敵意を彼に迷わず向けることができただろうか。
毒入りのワインを飲んだのがおれだとしたら。
彼女はこれほどの悲哀と絶望に溺れてくれていたのだろうか。
おれは動揺していた。
反射的に、突き出すようにして剣を構える。
それは戦いの中で培った習慣で、追撃に備えた警戒だ。
フィズが真正面から肉薄してくるなんて考えてもいなかった。
「あっ」
ずぶり、と肉を貫く手応えを得た。
たまたま鋒を置いたところに、たまたまフィズの体があった。
障壁が機能していない。それほどまでに彼女の術式は乱れていた。
白刃は呆気なく柔肌を裂き、肉を掻き、血管を貫いた。
フィズは動かなくなった。
頭が真っ白に染まる。
なにが起きた。なんでこうなった。ぜんぶおれのせいか。
一度は村を裏切ろうとしたくせに。
震えが止まらない。
おれは、なんてことを。
その時、家の戸口に新たな闖入者が現れた。
長い薄墨の髪の、少女みたいな顔した男の子。
ユウだ。
息を切らせ、驚いた様子でおれとフィズを見ている。
なにを考えているのだろう。同じ余所者のくせに、おれと違って自分に厳しく、融通が効かずクソ真面目なユウは、この光景を見てなにを思うのだろうか。
「お前……」
その右目に、赤い妙な紋様が浮かんでいた。
ユウはおれを見つめ、次いでフィズに視線を移し、痛々しそうに目を細めた。
瞳がなにかを映し出していた。
「ユウちゃん!」
聞き覚えのある声がした。
ユウに続き、ソラが家の中に駆け込んでくる。部屋の中の惨状を認め、愕然と目を見開く。
おれはよかった、と思った。
停止していた感情が一息に蘇った。
謝りたいと思ったし、言い訳もしたい。恐怖も、諦念も感じた。
だが、それらの雑多な情動を塗り潰すかのように、おれの胸中を大きな安堵が占めた。
フィズは、ソラが死んだかのような言葉を発していた。だから、てっきり毒入りのワインを飲み干し、重篤な状態にあるか命を落としたものだと思っていた。
でもどうやらフィズの勘違いだったらしい。
ソラは生きている。
こいつが無事でよかった。
そう、自分が思えたことに、おれは安堵した。
◆
村は目を覆いたくなるような光景だった。
無事な人間がほとんどいない。
服毒から発症まですこしの時間を要するのだろう。
だから異変をすぐに察することができず、結果的に村の人口の八割近い人間がワインを口にしてしまったようだ。
おれとソラはフィズの家に向かっていた。
ワインを仕込む役割は彼女が担っていた。樽の保管場所も家の中だ。
道中、彼女に限って、とソラは呟いた。
善良なフィズが、村人を害するはずがないと。
おれはなにも答えなかった。まずは自分の目で確かめてからだ。
フィズの家が視界に入った直後に『レファレンス』が反応した。
《アクティブスキル発動:ヒートクラフトLV5『炎の槍』》
《アクティブスキル発動:ドロップクラフトLV6『沛雨の檻』》
魔法の行使を視認したわけではない。
ただ、いつかカフェが言っていた、魔力の鳴動とやらを感知したのかもしれない。
事実、一拍遅れて火薬が爆ぜたかのような衝撃音がした。
おれは迷わず、家の中に飛び込んだ。
そして最悪の惨状を目にした。
なぜ、カフェの剣がフィズを貫いている。
「お前……」
おれは喪心するくしゃくしゃ頭の男にカーソルを合わせた。
事実だけで推察するならば、カフェがワインを毒を盛った当人で、その犯行を知ったフィズの息の根を止めた。そんな筋書きが妥当だ。
しかし、悪意を以って人を殺めた人間がそんな表情をするだろうか。
自分でもなにが起きたのかまるで理解できていないように見える。
フィズはぴくりとも動かない。
おれは彼女にカーソルを合わせ、ステータスを確認し、そして瞳を細めた。
もう手遅れだ。
「ユウちゃん!」
遅れて現れたソラが、背後で立ち止まる気配を感じた。
おれは振り返る勇気がなかった。
こいつがいまどんな顔をしているかなんて、考えたくもない。
室内は薄らと白煙が漂い、砕けたワイン樽がそこらに散らばっていた。
ということは、床を濡らす赤黒い液体がワインか。
カーソルを定める。
《毒入りワイン》
間違いない。
村人たちはこのワインを飲んで倒れたんだ。
おれは、木片に混ざって転がる複数の小袋の存在に気づいた。
《ローレンスパイスの小袋》
その中の一つが、ワインに含まれる毒物と同じ名称だった。
あれが毒の正体で間違いなさそうだ。
中身が見えないと『レファレンス』は反応しないはずだが、どうやら袋を含めて一つの物であると認識してくれたらしい。
フィズが教えてくれた。
粗悪なワインは、香辛料やら甘味やらで風味を上書きして提供するそうだ。
おれが試飲したワインはまだ未完成であると聞かされた。
あの後、フィズがワインに手を加えたのはいつだ?
昨日の夜か、今日の朝か。いずれにせよ味を改良しようと投入したスパイス袋の中の一つに、件のローレンスパイスが混入していたらしい。
「あれが原因だな」
おれは赤く染まった小袋を指し示した。
ソラが声を震わせ、言った。
「え、あれは……ワイン用のスパイス袋だろ。あれは、フィズがトムから……」
あの胡散臭い行商人の顔が思い浮かぶ。
フィズはトムから『花まつり』に必要な食材や調味料を大量に仕入れていたのだ。
偶然か、故意か。
フィズは知っていたのか。
スパイス袋というからには、きっと中身は種子だ。
外観での判別が難しい。注文したものとは異なる植物の種が入っていたとしても、そう簡単に気づかないかもしれない。
彼女は味の確認はしなかったのか?
種子が乾燥した状態であれば毒素の浸出にも時間がかかるだろうから、幸か不幸か、味見の段階ではワインが有害な液体までに至っていなかった可能性がある。
おれは冷静に得た情報を精査していた。
「カフェ、教えてくれ」
一方、動揺に陥るソラがゆっくりとカフェに歩み寄った。
拳を力いっぱい握り締めている。
ほんとすこし刺激してやれば、理性で押さえつけている激情が爆発しそうだ。
「なにがあったんだ」
カフェは笑った。
いまにも泣き出しそうで、痛々しく、軽薄な彼にちっとも似合わない顔だった。
「悪いな」
ソラがなにかを言おうとした。
おれは壁に視線を移した。
家の外だ。『レファレンス』も警告を発した。
《アクティブスキル発動:ショッククラフトLV5『雷の槍』》
「ソラ!」
自分でも、こんな大きな声が出るとは思ってもいなかった。
完全な死角。
壁から鋭く伸びた雷の奔流が、カフェの首を背後から貫き、その正面に立っていたソラの顔面に突き刺さった。
あとはわからない。
雷が爆散したように見えた。
室内からの衝撃に押され、泥と植物で固めた壁が吹き飛ぶ。おれの体もなにかに叩きつけられる。剣に貫かれたまま、フィズが宙を舞う様子が見えた。
意識を失う直前、不快な笑い声が聞こえた気がした。
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