第31話 毒
この世に生まれ落ちた時からひとりだった。
ヒトが胎生のある哺乳類である以上、親はどこかに存在したのだろう。だが、どれだけ記憶の糸を手繰り寄せても、両親の顔も、声も、その体温さえも思い出すことができない。
だから、ひとりと同義だと思っている。
貧困と紛争に苦しむ国だった。孤児もたくさんいた。あの国では薄幸であることがアイデンティティにはなり得ない。悲劇に対し、可哀想だと差し伸べる手が圧倒的に足りていなかったのだ。
哀れんですらもらえない、多数に混ざった一つの個。
それがおれだった。
あの国の子供たちは、いつも腹を空かしていた。
残飯だって限りがある。だから金を稼がなくてはいけない。
幸い、仕事はあった。
だから働けば食い繋ぐだけの報酬を得ることはできた。しかし、子供にとってはどれも過酷な内容だった。
当たり前の道理だといまでも思っている。
どれだけ単純な作業でも、大人の方が効率も精度も高い。だから子供には、大人が嫌がるような仕事しか回ってこない。
スキルも能力もない子供とは、錆びた刃物と同じだ。
用途が限られ、刃が欠けても気にされない。
道具としてでさえ認識してもらえない。
いずれ死ぬ。そう思った。
その他大勢ではダメなのだ。道具には価値がなければ、使い潰される。代替えの利かない存在であると、大人に貢献し、示さなければ。
あいにくとおれは、価値と呼べるほどの才覚には恵まれていなかった。
苦労した。食えない日々が続いた。
生きるためのスキルを貪欲に欲し続けた。
さっさと死んでしまえば楽だったのに、とは思う。
だが本能か、生に向かって粛々と歩み続けることはやめなかった。
それは、いまも……。
◆
おれはダルモア村の外、花畑の中にいた。
石壁を登り、村を抜け出したのだ。
やぐらの上に立つ見張りの存在は知っていたが、死角なんていくらでも存在する。たいした苦労もせずにここまで移動できた。
おれは廃屋の壁に背を預け、膝を抱えていた。手にはアイスホップイヤーの串焼きがある。フィズに押しつけられた。美味いから絶対に食え、と。
あの村では、肉を焼くことでさえ贅沢に値するそうだ。
脂が落ちて縮むから、という理屈らしい。おれも生まれてこの方、清貧な食生活を送ってきた自負はあったが、そんなおれが見てもこの串焼きは『塩味の焼けた肉』としか思わない。ご馳走には値しない。
「……なんの用だ?」
顔も上げず、おれは言った。
「驚いた。どうやって抜け出したの?」
ソラだ。
「普通に歩いた」
「普通にって……。ほら、みんな心配してるよ。帰ろう?」
促され、おれはソラを見上げた。木製のゴブレットを持っている。
見張りの任を終えたのなら、みんなと一緒に飲み食いしていればいいのに。わざわざ『花まつり』を放ってまでおれを探しにきたのだろうか。
「……賑やかな場所が苦手なんだ。すこし疲れた」
立ち上がり、おれは尻についた花びらを払った。
「なにか言われた?」
ソラは困ったように笑っていた。
おれの表情を見て取り、なにかを感じたらしい。
「なぜそう思う」
「顔に書いてある」
おれは思わず自分の頬をさわった。常に仏頂面でなにを考えているかわからない、とよく言われたものだが。
すこし迷ったが、観念することにした。
些末なことであると伝わるように、なるべく素っ気ない口調を心がけた。
「そのままでいいと。そう言われた」
フィズに言われた言葉だ。もちろん悪意がないことは理解しているが、どうにも居心地の悪さを感じ、隙を見て逃げ出してしまった。
「適当でいけ、とも言われたな」
おれはソラから視線を逸らした。
「お前が望むから、従ってはいた。だが、やはり落ち着かない。本当におれはこのままでいいのだろうか?」
焦燥も迷いも、まだおれの裡に根強く残っている。ソラが悲しむからという理由で、強引に蓋をしていただけだ。
初期目標は変わっていない。元の世界に帰る。きっと時間がかかる。だからこの世界に順応しなくてはならない。
だが、立ち塞がった壁は想像以上にぶ厚く、高かった。
小細工というの名の、魔物にどうにか一矢を報いる方法は編み出した。しかし、肝心のスキルや魔法の習得は一歩も前進していない。
まだおれはこの世界において、おれでなくてはという価値をなに一つ示すことができていない。
焦るに決まっている。無茶もすべきだ。
なのに、気にするな。そのままでいい。危ないことはするなと言う。
「出た。ほんとユウちゃんは頑固だよね」
ソラが深い息を吐いた。
その顔から笑みが消えていることに、おれは気づかなかった。
「損失? 負担、だっけ? おれや村のみんなの親切心を疑ってるわけだ。いまは笑ってるけど、いつか迷惑に思うに違いないって」
「そんなつもりはない。おれはただお前たちの役に立ちたいだけだ」
「だから、ゆっくりでいいって言ったじゃん。なんでそんなに焦るの?」
「それは、価値を示さなければ……」
「おれがきみを見捨てるって言いたいのか?」
びく、とおれの肩が震えた。
自分でも不思議な反応だった。なぜ怯えたのかはわからない。けれど、ソラを怒らせてしまった。普段からは想像できないほどの平淡な声だった。
よくない。取り繕わなければ、と焦った。
「違う。お前たちが、お前が善人であることは知っている。……わかっている。そう、理解はしているんだ。だが、不安で堪らない。おれは、なにをすれば……」
自分でも不思議だった。
言葉が止まらない。
ソラに誤解はされなくないと思った。
まるで親に叱られ、必死に弁解する子供のようだ。
「ユウちゃん……?」
ソラが怪訝そうな声を発する。滑稽だとわかってはいたが、止まらない。おれはソラの服を強く引っ張った。
「お前になにがわかる……。なにをしても上手くいかない。前に進もうにも無数の壁が邪魔をする。……いつまで続くんだ。本当におれは、帰ることができるのか……?」
「もちろんだよ。おれも手伝うから、心配なんて……」
「おれが異世界から来た人間でもか」
ソラが瞠目する。
言ってしまった。思わず口をついて出た。
ソラに怒ってほしくないという理由で紡いだはずの弁解が、いつの間にか八つ当たりに近い糾弾と化していた。
自分が情けない。ソラはなにも悪くないのに。でも止まらない。
「スキルも、魔法も、魔物も! このファンタジーは世界はおれの知る世界ではない! お前、地球を知っているか? アメリカは? フランスは? ニホンという国を聞いたことはあるか? おれは、お前たちの知らない世界に帰ろうとしているんだ。そんな絵本から別の絵本へ移動するような酔狂な方法が、この世界にあるとでも言うのか!」
叫ぶように、おれは感情を吐き出した。
支離滅裂で、なにを主張したいのかきっと欠片も伝わっていない。本当に、泣き喚くただの子供みたいだ。
「それに、帰ったところで、おれはもう……」
忘れてはいない。おれは一度死んだ。
元の世界におれの居場所はない。
すべての葛藤を、ソラが悲しむからという都合のいい建前で後回しにしていた。こいつの指示を素直に受け入れていたのは、きっとその方が楽だったからだ。だって余計なことを考えずに済む。そうに決まっている。
なんて卑怯な人間なんだ。
目を逸らしていた分、脆さはより明確に浮かび上がった。おれはもう、なにをしたいのか、なにをすべきか、どうすればいいのかさえわからなくなっていた。
無意識のうちに、おれはソラの胸板に額を押し当てていた。彼が持っていたゴブレットが落ちる。足を赤い液体が濡らす。
ソラはなにも言わなかった。言葉に迷っている。
その時、視界の中で赤いカーソルが現れた。
おれの中に秘める『レファレンス』の起動条件の一つは、対象に照準器のような形のカーソルを合わせること。そのカーソルは焦点を結んだ先に出現する。抽象的な表現ではあるが、見ようすれば現れるのだ。
そして、まだ訓練が足りない証拠か、意思に反してカーソルが視界に過ぎることが間々あった。つまり『レファレンス』が暴発した。
この時、カーソルは足元に広がる液体を捉えていた。
色から察するに、ワインだ。フィズが用意したものだろうか。
《毒入りワイン》
いつもの『レファレンス』の淡白な声が、死神の囁きのように聞こえた。
《毒入りワイン:ワインメルロの果実の絞り汁を発酵させたものに、数種類のスパイスとヌガーで香り甘味を追加したグルートワイン。ローレルスパイスの毒素が含まれている。HPに致命的なダメージを与え、追加でDOTダメージを発生させる》
先ほどの問答も忘れ、おれは勢いよく顔を上げた。ソラが驚いている。
「お前、このワインを飲んだか?」
「い、いや……。ユウちゃん探してたからタイミング見失っちゃって。落とす前に飲んでおけばよかった。フィズに悪いことしたな」
「ローレルスパイスとはなんだ?」
「え?」
聞かなくてもわかっている。すでに『レファレンス』が答えている。
《ローレルスパイス:北ハイランド領全域に自生する常緑植物の低木。早春に黄緑色の花を咲かせる。花、果実のみならず全草に強い毒性を持ち、樹皮に触れるだけで皮膚が爛れる。特に乾燥させた種子は毒薬として用いられ、服用すると呼吸器・循環系・中枢神経系に甚大な損害を与える》
「お前たちは、こんなものをワインに入れて飲むのか?」
「ちょ、ちょっと待ってユウちゃん。そんなの飲んだら死んじゃうよ。一体なにを……」
ふと、ソラが言葉を区切った。
おれの瞳を凝視し、訝しげに眉を歪めている。
「ユウちゃん。その目、どうしたの? なにか、赤い変な模様が……」
ソラの疑問を最後まで聞くことは叶わなかった。
悲鳴が聞こえた。村からだ。
おれは反射的に声の方向へ駆け出した。
自分の悩みを再び明日に置いて。
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