第8話 今夜はご馳走

「飲んでみろ」


 おれはそう言って、ソラに水筒(『レファレンス』によると《エンゲルシュゴートの膀胱で作られた水筒》らしい)を手渡した。中には煮沸した川の水が入っている。


「本当だ、美味しい」


「硬水はそのまま飲むと不味いからな」


 ソラと出会って三日目。


 いまは夕暮れ時で、ちょうど野営の準備を終えたところだった。

 ただし野営といってもテントも寝袋もない。必要な準備といえば一晩を乗り切るだけの薪を集めることだけだ。


 ソラは能天気に笑っている。


「やっぱりユウちゃんのスキルはすごいね」


「すごくはない」


 おれは顔をしかめた。


 これはスキルではない。ただの知識だ。

 カルシウムイオンやマグネシウムイオンを多く含んだ水を沸騰させると、炭酸カルシウムが沈殿して口当たりが柔らかくなる。理屈はさておき、硬水が湧く地域の人間であれば経験則として知っているはずだ。


 おれの知る世界では、の話だが。


 服飾事情に武器の品質、医学や科学の知識、そしてソラの会話の端々から伺える習慣。それらを総合してわかったことがある。


 この世界はあらゆる水準において、こちらの世界よりも劣っている。

 その代わり、魔法やスキルという不可思議が台頭している。


 言葉は通じるし、数字や単位も共通だ。

 ただ、そのほかのすべてが違う。


 現代において、深海などを除けば人類未踏の地なんてほとんど残っていないと聞く。だから、魔法や魔物などのコモンセンスや生態系が噂にもならず繁栄するなんて地球上に残っているはずがない。


 すると、導き出される結論は二つだ。


 おれの頭が狂っているか、ここが異世界であるか。


「……とんだファンタジーだ」


「ユウちゃん?」


 ソラが心配そうに眉をひそめた。


「なんでもない。できたぞ、飯だ」


 おれはそう言って木製の器を突き出した。

 鍋も食器も、ソラの荷物に入っていたものだ。


《薬草スープ:わずかにHPを回復させる効果がある》


 スープにレティクルを合わせてみると、意外にも『レファレンス』が反応した。こんな貧相な料理にもヘルプ機能は働くらしい。


 薬草だなんて大層なものではなかった。

 そこらへんの植物を片っ端から『レファレンス』で調べて、毒物ではないと判別できたものを適当に茹でただけだ。味付けも塩と胡椒のみ。なにも食わないよりはマシ、程度のカロリーしかない。


 できれば魔物でもなんでもいいから肉を確保したかった。


 だが、獣を仕留めようにも道具がない。ソラの身体能力であれば目の前に躍り出たシカやイノシシくらい剣で仕留めることはできそうだが、そもそも音や匂いで警戒され、目視できる距離まで獲物が近寄ってくれない。村を探すために移動を続けているせいで罠を仕掛けることもできない。


「ありがとう」


 ソラは文句も言わず、美味そうにスープを飲んでいた。

 その横顔に赤いレティクルを合わせ、おれはこっそりと『レファレンス』を起動させる。


《ソラ・シーブリーズ》

《Lv:18》

《HP:856/1080 MP:490/639》


 オルゴイホルホイを撃退した後、ソラのHPは800を切っていた。

 体力は回復しつつある、と考えて構わないのだろうか。とはいえ、心情としては草のスープなどではなくもう少しまともなものを食わせてやりたいと思う。


「ユウちゃんはきっと、料理のスキルも充実してるんだろうね」


ソラなりの褒め言葉だったのだろうが、おれは別の意味で顔をしかめた。


「知らん。……その、スキルというのはなんだ」


「え?」


 この三日間、何度もスキルという言葉を聞いた。


 たとえば『レファレンス』は、おれがなにか作業を始めるたびに『アドオンスキル』が発動したと親切にも教えてくれる。前にも言ったから今回は黙っておこう、みたいな気遣いは一度もなかった。おかげさまでノイローゼになりそうだ。


 もちろん単語の意味はわかる。


 スキルとは、一定の習熟と経験を要する技術的な能力だ。

 だから、肉の解体やナイフによる工作などはたしかにスキルに該当する。

 ここまではいい。大袈裟だな、と思うくらいだ。


 しかし、いくらスキルがあっても剣が炎をまとうはずがない。


「おれは……なんだ。その、スキルについても教養がない」


 おれは目を合わせずに言った。後半は尻窄みになった。

 なぜこんなにも後ろめたい気分にならないといけないんだ。


 トラストン王国を知らない、と伝えた時のソラの反応を思い出す。

 驚きと不審の入り混じった表情だった。 

 おれの無知がこれ以上に露呈すると、きっと出生や故郷についてしつこく追求されてしまう。異世界から迷い込んだなんて与太話はしたくはない。自分でも夢か一種の精神疾患だと思いたいくらいだ。


 本音を言えば、この世界に深入りすることなく帰りたい。


 でも、その方法がわからなかった。

 地図を開き、進むべき方向を決めるはずなのに、その地図に書き込まれた情報量が圧倒的に足りていないような状態だ。


 この世界にちゃんと向き合えば、もっと見えてくるものがあるかもしれない。

 

 だから思い切ってソラに伝えてみたというのに。


「スキルを知らないって……ユウちゃん、本当にどこで生まれたの?」


 こいつは憐れむような目でおれを見ていた。


 そうだな。おれだって、一桁の足し算ができない成人男性を見れば同じような表情をするかもしれない。


 つまり、バカにされているのだ。腹が立ってきた。


「いった! なんで殴るの!」


「うるさい」


 ぱちぱちと、二人が囲んだ焚き火の中で音が弾ける。


 火起こしはソラが担当した。

 当たり前の話だ。呪文を唱えるだけで炎が生まれるのであれば、誰が好んで掌の皮がつるつるになるまで棒を擦るものか。


 おれは焚き火を眺め、ソラとの先日の会話を思い返す。


『なぜおれに火を起こさせた』


『だってユウちゃんができるって言うし』


『お前だったらもっと楽にできたのだろう。なぜ黙っていた』


『いやぁ、一生懸命やってるとこが可愛くて』


『……』


『いった! なんで殴るの!』


『いいから早く火を出せ』


 ソラは実に簡単そうに火を起こす。


 ちょっと呟けば、掌の上に炎が現出する。

 火力が強いから薪の厳選はしなくてもいい。火打ち石だってもちろん必要がない。

 おれにとってはガソリンに点火するくらいの裏技に見えるが、きっとこの世界においては珍しくもなんともない光景なのだ。


 気づけば、おれは借り物のナイフを意味もなく弄んでいた。


「この国では、スキルや魔法、魔物が当たり前なのだろう」


「まぁ、そうだけど。でも魔法が使えない人だっていっぱいいるよ? 村で普通に過ごしていれば魔物に襲われることなんて滅多にないし……」


「その普通に過ごす、が難しいんだ」


 ソラはきょとんと目を丸くした。


 おれは顎の下で指を組み、思考を整理していく。


 短期的な目標は、現状把握と水や食料の確保による生存だった。

 不充分ながら、一応はクリアできたと考えてもいいだろう。

 では次のステップだ。


 最終目標が元の世界に帰ることだとする。


 シンプルな表現だが、困難を極めるに違いない。

 航空券が売っているわけでもないだろうし、そもそも物理的な移動でどうにかなる話でもない気がする。誰に助けを乞えばいいのか、なんの情報を求めればいいのか、すべてが不明瞭だ。


 きっと時間がかかる。


 では、中期的な目標は?


 いつまでも森で自給自足を続けるわけにもいかない。

 ソラの提案に従い、まずはダルモア村を目指す。

 そしてあわよくば村を拠点とし、この世界で長期を生き抜くための知識と技能を得るべきだ。


 ソラの言う『普通に過ごす』がわからなかった。


 ダルモア村に滞在するためには、食い扶持を稼がなければならない。

 でも、おれはまだ十四歳だ。

 働こうと思えば働ける年齢なのだろうが、物を売ったり、なにかを作ったり、畑を耕したりなどの経験がない。他人とのコミュニケーションも苦手だし、そもそも向いてすらいないだろう。


 このままでは長期的な目標を達成する前に、おれはのたれ死んでしまう。


 自分にできることを探さなければ。


「教えてくれ。この世界のことを」


 おれはソラの碧眼を真っ直ぐに見据えていた。

 必死に懇願したつもりだ。彼に断られると、途端に道が閉ざされる。

 

 こちらの事象はなにも知らないだろうに、想いが伝わったのかソラは神妙そうな表情を浮かべた。


「ユウちゃん……」


「そろそろ指摘するが、おれの性別はわかっただろう。ちゃん付けはやめろ」


「いや、だって見た目まんま女の子じゃん。それにほら、レッサーゴブリンの肉を食った時なんか涙目になってて、反応も完璧に女の子だった痛い痛い痛い! ユウちゃん、それナイフ! 刺さっているから! 痛いってば!」


 おれは逃走するソラを全力で追いかけた。





 ふと、木々の隙間から十五ヤードほど先に横たわる樹木が見えた。


 完全に日は落ちていたが、夜目は利く方だ。

 そこそこ太い。折れた原因は知らない。ただ何日も雨風に晒された痕跡があった。


 おれは足を止め、ぽつりと呟いた。


「そうか。その手があったか」


「どうしたの?」


 先ほどまで逃げ惑っていたソラが訝しげに首を傾げた。


 質問には答えず、おれはその倒木に近寄った。


 ナイフを突き立てる。完全に朽ちてはいない。

 すこし苦労して、幹の一部を剥ぎ取った。

 中から顔を覗かせたものを見た『レファレンス』が淡々と告げる。


《ロングホーンガジェットの幼体:インセクタ科ホーンガジェット属。ホーンガジェットの多くが生木に卵を植え付けるが、この種は枯れた植物の組織を餌とし、主にチェナッツの木を住処とする。その多くがやがて成長すると自らが掘り進めたトンネル内で蛹となる》


 幼体、というか幼虫だ。


 甲虫の幼虫と聞けば思い浮かぶ教科書通りの姿。

 真っ黒な顔に、白い体。それがうねうねと、小さいのが二匹、大きいのが一匹。


 おれは誇らしげに振り返って、ソラに告げた。


「喜べ、虫だ。今夜はご馳走だぞ」


「なにを喜ぶの?」


「待っていろ、すぐ焼いてやる」


「ごめんね、怒ってるんだよね。お願いだから怒ってるって言って」


「バカを言うな。虫はいいぞ。栄養価が非常に高い」


「おれが女の子って言ったから、その仕返しにそんなものを食べさせるふりをしてるんだよね。まさか本気で……ねぇ、なんでナイフで枝を削ってるの? なんで塩を振ってるの? ねぇユウちゃん聞いてる?」


 この晩、ソラのHPはぐんぐん回復した。

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