第3話 ソラ
その青年は恥ずかしそうに茂みの奥に消え、しばらくすると戻ってきた。
今度はきちんと下を履いていた。
「ごめん、実はちょっと用を足していて……」
「うん◯か」
「そうだけど言い方」
草陰で用を足していると、なにやら激しい水音が聞こえた。
見ると、異形の生物に人が襲われている。一刻を争う事態だと考え、下着を履く時間も惜しんで茂みから飛び出した。そのままレッサーゴブリンに駆け寄り一閃。
そういうことらしい。拭いたかどうかは聞かないでおいた。
《ソラ・シーブリーズ 》
青年にレティクルを合わせると、頭の中で『レファレンス』の声が響いた。
彼の名はソラというようだ。
名乗られなくても名前がわかる。便利なようで気味が悪い。
そして予想していた通り、この『レファレンス』の声は相手には届いていないようだ。
ソラの年齢は十代後半といったところか。
短めの金髪と碧眼。欧州系の顔立ちだ。身長もこちらより頭一つは高く、相応の体格をしている。爽やかな笑顔の好青年といった印象だった。
そして、腰には剣が下げられていた。
歴史学に明るくはなく、剣だの鎧だのにも興味がない。
だから造詣が深いわけではないのだが、なんとなく馬に乗って戦っていた時代の武器のように見える。デザインに現代っぽさがないのだ。
ソラの服装にも違和感を抱いた。
ブーツやベルトなど締まっている部分は締まっているが、ズボンもシャツは全体的にたわんいた。生地も妙にごわごわしている。
なんというか、時代遅れだ。
ここはよほど田舎の土地なのだろうか。
「大丈夫? 立てるか?」
ソラが心配そうな声を出した。
やや訛りを感じるが、言葉は通じる。
覆い被さっていたレッサーゴブリンの死体を押し退け、よろよろと立ち上がった。まだ背中が少し痛い。服が血と水と煤でひどいことになっている。
「問題ない」
そう答えてから、言葉を付け加えた。
「助かった。ありがとう」
「気にしないで。それより怪我はない?」
「平気だ」
ソラがこちらを覗き込む。
「きみは? すごい格好だけど、いったいどうしたんだ?」
まぁ、気にはなるだろう。
自分でも服がボロボロだった理由はわからない。暖炉掃除をした後みたいに真っ黒になっていた。
川瀬から岸に上がり、雑巾みたいに服の裾を絞った。
びちゃびちゃと水が砂利に滴る。
「わからない。起きたらここにいた」
ソラの質問には正直に答えておいた。
「起きたらって……まさか、拐われたとか?」
「さぁな、覚えていない。それよりここはどこだ?」
「北ハイランド領のダルモア村の近くだよ。村からそんなに離れてないはずだ」
「……その、北ハイランド領とは、どのあたりにあるんだ?」
「トラストン王国だよ。北ハイランド領はスコット地方にあって、そのスコット地方はエンゲルシュ島の北側のことをいうんだよ。このあたりに詳しくないの?」
なにを言っているんだこいつは、という顔をソラにされた。
こっちのセリフだ。
なにを言っているんだお前は。
アジアだとかヨーロッパだとか、せめてどの大州に位置するかがわかればと思っていたのだが。
溜め息を吐く。これではさっぱりだ。
ふと、レティクルを地面に合わせてみた。
地名について、『レファレンス』からなにか得られるものがあるかもしれないと考えたのだ。こんな不気味な機能に頼ってもいいのかと迷いはあったが、背に腹は変えられない。
《土。少し湿っている》
淡々とした声で『レファレンス』は答えた。
頼るんじゃなかった。
「……まいったな」
腕を組み、呟く。
知らない花、知らない樹、そして知らない生物。
気候や風土の違いから、どこか遠い国なのだろうと推察はできるのだが……。
ぶるっ。
体が震えた。
いったん目先のことを考えることにする。
まずは体を温めたい。気温は十五度くらいだろうが、川の水温はもっと低かった。全身ずぶ濡れの状態だとさすがに寒い。
体温の低下は体力の消耗だ。
この現状から解放される見通しも立っておらず、座したままで事態が好転するとも思えない。とにかく動く必要がある。
となれば、体力は温存しておきたい。
びちゃびちゃの服の裾に手をかけた。
「でも、大事にいたらなくてなによりだよ。あのままだと危なかった」
ソラは朗らかに笑っていた。人のよさそうな笑顔だ。
「そうだな。殺されかけた」
「え? あー……違うんだ。知らない? レッサーゴブリンはたしかに人を殺して服や装備を奪う習性があるけど、あれはたぶん、その、発情してたんだと思う。そういう時期だし」
「発情?」
「そう。たまにあるんだよ。きみくらいの女の子が襲われるっていう事件が」
ぴく、と服を脱ごうとする手が止まった。
「どうしたの?」
ソラが不思議そうに問う。
「……いや」
まぁいい。見ればわかる。
「火を起こせるか? 体を温めたい」
「火? ああ、実は火打ち石とかを落としちゃったんだけど、火なら……って、ちょっと! ストップ!」
ソラが目を見開き、慌て始めた。
気にせず服を脱ぎ捨てる。水を吸った布は重く、放り投げるとべしゃと重い音がした。上半身が外気に晒される。
下も脱ぐ。
「待って! ダメだって! 女の子が初対面の男の前で裸になるなんて……!」
ソラは両手で顔を覆い、指の隙間からこちらを窺っていた。慌てているのに嬉しそうという器用な反応だった。
「だってほら、おれたちお互いの名前も知らないし……!」
「ユウだ」
「そうか、ユウちゃん! はじめまして、おれはソラ! さて自己紹介が済んだことだしまずは服を着て……えっ」
ソラが固まった。
おれの股間を凝視して、ぽつりと呟く。
「なんでちん◯ついてるの?」
これが、おれとソラの珍妙な出会いだった。
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