第2話 ゴブリン

 背中を強く打った。呻き声が出た。


「がっ……!」


 緑色をした異形の生物に肩を押され、川に突き飛ばされたからだ。

 川底の石に背をぶつけた衝撃で、肺から空気が残らず漏れた。水が音を立てて跳ね上がる。


 痛い。冷たい。くそ、コミュニケーションは失敗か。


 幸い、川はとても浅かった。

 咳き込みたい欲求を堪え、すぐに体を起こそうとする。


 襲われた理由はわからないが、呑気に寝っ転がっている場合ではないと本能が理解していた。


 そもそも、なんだこいつは。

 サルにしては毛がない。ヒトか? 肌が緑色なのはなぜだ?

 友好的でないことは伝わっている。

 ではなにがしたい?


 起き上がるよりも早く、が腹の上に跨ってきた。

 振り払えない。体格は同じはずなのに、想像以上に力が強い。やはりヒトではなくサルなのか。


 の牙の隙間から、獣の唸り声のような低い音が漏れている。

 その緑色の顔面に、赤いレティクルが重なった。


《レッサーゴブリン》


 例の声――『レファレンス』だ。

 腹立たしいほど落ち着いた声音だった。


――――――――――――――――――――

《レッサーゴブリン》

《LV:3》

《HP:150/156 MP:3/3》

《攻撃力:32 防御力:23》

《魔法力:13 敏捷力:27》

――――――――――――――――――――


 その時、視界の隅でが開いた。

 ウィンドウとは我ながら頓狂な表現だとは思うが、それ以外に例えようがなかった。四角い枠の中に、なにを意味するかも判然としないアルファベットと数字が並んでいる。


「なんだ……?」


 LVとは? HPは? MPは?

 レッサーゴブリンとはこいつの名前か? それとも生物としての名称か?


《レッサーゴブリン:ホミニア科ゴブリン属。危険度D。ゴブリンの中でも弱い種族。緑色の肌が特徴。雑食。トラストン王国に広く分布する。知能が低く、ヒトの真似をして服の代わりに布をまとう。まれに武器を手にした個体が目撃される》


 抱いた疑問に対して『レファレンス』が答えた。


 ゴブリン? 聞いたことがない生物だ。サルの亜種だろうか。


 悠長に考察している余裕はなかった。

 このレッサーゴブリンとやらの目的はさっぱりだが、牙を剥いて涎を垂らすその顔は、まるで生肉を目の前にした肉食獣の様相だ。

 これはダメだ。無抵抗のままだと殺される。


 反射的に手が動いた。川底の丸い石を掴み、レッサーゴブリンの側頭部を思いっきり殴りつける。


「くたばれっ……!」


 鈍い音がした。効いたか?


 しかしレッサーゴブリンはけろりとしていた。


――――――――――――――――――――

《HP:149/156》

――――――――――――――――――――


 ウィンドウ内の数字が変化した。


 さっきまでは150/156だった。

 どういう理屈かは知らないが、この数字は眼前の生物と連動している。もし仮にHPがバイタルサインのような生命の徴候を意味するのであれば、数字を0まで減らせば無力化できるのかもしれない。


 石で殴るとHPが1減った

 つまり、あと149回ほど殴れば撲殺できるのか。


「できるか!」


 理不尽さへの腹立ちが口をついて出た。


 重い石を149回もフルスイングできる自信がない。

 そもそも、もっと体重のあるシカやウシが相手であっても、鈍器で頭蓋を10回か20回くらい叩けば死にそうなものだが。


 レッサーゴブリンは牙が並んだ口を大きく開けた。


 それはそうだ。無抵抗のままでいるはずがない。


 肩を掴まれる。痛い。顔が近寄ってくる。臭い。

 首を噛む気だ。

 暴れるが、振り払えない。せめてなにか刃物でも持っていれば一矢報いることができたかもしれないのに。


「……くそ」


 思わず悪態が零れた。


「そのまま顔を上げるな!」


 男の鋭い声がした。


 同時にレッサーゴブリンの首から上が跳ね飛んだ。

 数拍遅れ、すこし離れた位置で水音がした。

 見ると、髪の毛のない緑色の頭が川の浅い場所に転がっている。

 残された体は糸の切れた操り人形のように弛緩し、そして崩れ落ちた。首の切断面から真っ赤な血があふれ出ている。


 思わずレッサーゴブリンの頭にレティクルを合わせた。


――――――――――――――――――――

《HP:0/189》

――――――――――――――――――――


 ウィンドウに表示された数字は、ゴブリンの死を示していた。

 そして自分は助かった。

 心臓がばくばくと脈打っている。まだ命を拾った実感がない。


 見上げると、青年がいた。


 レッサーゴブリンの首を切り落としたのであろう剣、それも時代遅れだと言わざるを得ない、まるで中世の騎士を彷彿とさせる意匠の両手剣を、彼は優雅な挙措で鞘に仕舞った。


 青年はなにも言わなかった。

 凛々しく、真剣な眼差しでこちらを捉えている。ふと、その瞳に安堵の色がよぎった。間に合った、とでも言いたげに。


 まるで姫君を助けた騎士のごとく、毅然とし、精悍な立ち姿だった。


 そして青年は下半身が丸出しだった。

 だから言ってやった。


「ちん○が見えているぞ」

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