少女(?)転生

白井あひる

第1章 この世界

第1話 異世界転生

 目が覚めた。


 ……。


 思考がゆっくりと回り始める。目覚めが悪い。まだ頭が起きていない。

 すこし喉が乾いた。牛乳が飲みたい。そもそもいまは何時だ。


 時計は……どこだ。おかしいな。


 目を瞑ったまま、もそもそと手を伸ばす。

 いつもは外した腕時計を枕元に……枕がない。布団もない。というか、ベッドがない。そんなことあるか?


 体が気だるい。

 閉じた瞼でも、周囲が明るいことだけはなんとなくわかった。

 電気が点いているのか?


 のそりと体を起こして、目を開く。

 壁はなかった。天井もなかった。

 頭上には澄んだ青空が広がっていた。

 足元は真っ白なシーツではなく、土と草と花だった。

 そよそよと心地のいい風が吹いていた。


 ……なぜだ?


 立ち上がる。足が絡れ、転びかける。

 

 ここはどこだ? 見たことがない景色だ。

 眠りに落ちる前……いや、もしくは意識を失う前の記憶がない。なにをしていた? なぜ自分は土の上で横たわっていた?


 わけもわからず、目の前の長閑な光景を眺める。


 森だった。


 温帯の地域によく見られるような森。

 木や草の種は雑多で、人の手が入っているようには思えない。

 密林のように木々が密集しているわけでもなく、日の光が枝葉の隙間から絶妙な加減で降り注いでいた。


 足元の緑の中にアクセントとして散る、色とりどりの花々が目に優しい。耳をすませば小川のせせらぎまで聴こえた。


「……ここは?」


 きっと知らない場所だ。


 周囲を見渡し、木々の植生になんとなく違和感を抱く。

 ブナのような品種が多い。少なくとも、自分が見知った生活圏ではあまり馴染みのない木だと思う。まるでヨーロッパにでも迷い込んでしまったかのようだ。

 だとすれば、随分の遠くの国まで運ばれてきたことになるが。


 その時、視界の中心にのようなものが映った。


「!」


 とっさに片目を掌で覆う。赤色は消えた。


 手を外し、何度か瞬いてみる。特に異変はない。

 目から出血でもしているのだろうか。痛くはないのだが……。

 自分の姿を確認したい。鏡が欲しい。


 ちろちろと水の音が聞こえた。そうだ、川が近くにあるはずだ。


 音に向かって歩き出す。


 全身の倦怠感がひどい。剥き出しになった樹の根に躓きそうになった。

 やがて足場が土から砂利へと変わり、小さな川にたどり着いた。

 水面を覗き込むと、ゆらゆらと揺れる自分の姿が映る。


 胸元まで伸びた薄墨色の髪と短い眉。ぶすっとした表情をしている。いつも通りの自分だ。


 顔や手、衣服のいたるところが煤で真っ黒になっていた。

 元の色がわからないほどに変色したパーカーは大きく破れ、へそが丸出しになっている。爆発事故にでも巻き込まれたみたいだ。


 瞳に怪我もない。


 気のせいか、と安堵した次の瞬間、川面に映る自分の顔と重なる位置にまたも赤い斑点が現れた。


 なんだこれは。


 手で覆うような真似はしなかった。今度は消えなかった。

 出血などではない。視界に鎮座する赤い斑点は、正確には半透明の赤い三角形を四つ組み合わせた形状をしていた。


 さらに驚くべき事態が起こった。


《ユウ・ヒミナ》


 自分の名前だ。誰かに呼ばれた。


「……誰だ?」


《『レファレンス』》


 抑揚のない男の声だった。電子機器を通して発声したような、駅や空港などの構内放送を彷彿とさせる声だ。


 ――『レファレンス』。それが名か?


 振り向く。目を凝らして周囲を見渡す。人影は見当たらない。


「どこにいる?」


 尋ねてみるが、反応はない。 


 返事は期待できないだろうと思って口を開いた。

 男の声はのではなくのだから。

 耳元で囁かれるよりも、もっと近い距離。まるで頭蓋骨の中に住み着いた妖精が語りかけてきたかのようだった。


 さすがに動揺する。

 おかしくなったのは目か? 頭か?


 何度も瞬き、あたりを見回しているうち、視界に浮かぶ赤い異物の法則性がなんとなくわかってきた。


 その形状は双眼鏡などに搭載された照準用のレティクルに似ていたが、動き方はパソコンのマウスポインタを思わせた。

 ぼんやりと目を見開いているだけでは視界に変化はない。なにか物を注視しようとすると、焦点の先に赤いレティクルが出現する。さらにもうすこし、視線に力を入れ続ければ『レファレンス』が口を開く。


 たとえば、そこの小さく黄色い花。


《ダンドリオンの花:季節を問わず、黄色い舌状花を長い期間にわたって咲かせる。単為生殖。冠毛によって種子を飛ばす。この冠毛は数が集まれば子供を持ち上げるほどの浮力を有する。花や葉、茎、根のすべてが食用になる。トラストン王国原産であるが、他国にも広く分布する》


 たとえば、あちらの白っぽい樹。


《シロノキ:紙状に剥がれる白い樹皮と、まっすぐに伸びる幹が特徴の高木。幹の太さは50〜100センチ。高さは15〜30メートルに達する。明るい場所を好み、成長が早い。樹液には肌の保湿を促進する効果があり、化粧品として利用される。トラストン王国に広く分布する 》


 たとえば、目の前に流れる小川。


《エンゲルシュ島、スコット地方の森に流れる小さな川。硬水。生物が生息できる環境》


 このように頭の中で『レファレンス』が滔々と語る。


「……」


 頭がくらくらしてきた。


 一度、落ち着こう。よく考えろ。

 これは夢か? 幻覚か?


 この現象はまるで、パソコンでいうところのヘルプ機能だ。


 マウスポインタをアイコンに合わせてクリックするかの如く、視界に浮かぶレティクルを物体アイコンに合わせて注視すれば、『レファレンス』が当該物の解説を述べる。そのヘルプ機能がなぜか人体に搭載されている。


 差し迫った危険こそ感じないが、明らかに異常だった。

 寝起きの頭をじわじわと焦りが侵食する。

 普通ではない事態に直面している気がした。


 周囲の花や木に片っ端からレティクルを合わせたが、どれもこれも聞いたことのない名称ばかりだった。


 自分が見知った植物と比べて外観に大きな違和感があるわけではない。

 たとえば、ブナだと思っていた樹木は、ヘルプ機能いわく『ソバノキ』という名らしい。たしかに葉の形がちょっと違うな、程度の差異はある。


 世界は広い。知らない固有種だってたくさん存在するだろう。

 そう考えたいのだが、どうにも落ち着かない気分になる。

 先ほどから『レファレンス』は『トラストン王国』という単語を何度も口にしていた。そんな国、地球上に存在しただろうか。


 その時だった。


「誰だ!」


 背後の音に振り向く。

 人影。いや、人の形をしたなにかが茂みから飛び出してきた。


 異形の生物だ。思わず目を剥いた。の体毛のない肌は全身が緑色だったからだ。


 老人のように皺が深く刻まれた顔、老人を思わせる鉤鼻、老人でもたぶんないであろう尖った耳、老人には絶対にあってはいけない鋭い牙と爪。絵本に出てくる魔女の毛をすべて引き抜き、緑色の塗料を頭からぶっかけるとこんな感じになるかもしれない。


 その生物は小柄な自分とたいして変わらない体格で、辛うじて裸ではなく、ボロボロになった衣類の残骸らしきものをまとっていた。


 そして、とある一点が視界に入る。

 なるほど。魔女と例えたもののこいつはオスだな。


 はヒトだとは思えなかったが、その一方で、肌を緑色にペイントした奇形の人間に見えなくもなかった。


 だから意思の疎通を期待し、声をかけることにした。


「ちん○が見えているぞ」

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