僕の記憶(あるいは誰かの記憶)

千川

僕の記憶(あるいは誰かの記憶)

 これは昔話なんだけど、といっても僕が大学生の頃の話だからせいぜい5年くらい昔の話になるかな。たいした話じゃないんだ。馬鹿みたいに笑える話ではないから、君好みの話ではないかもしれないね。だけど、まあ退屈しのぎにはなると思うよ。

 僕は当時、つまり大学生の時だな。身に覚えのない記憶を思い出すことが時々あったんだ。知らない街を散歩している記憶とか、薄暗いクラブハウスでひたすらバドワイザーを飲み続けている記憶とか、見たことも聞いたこともないスポーツの大会で優勝した時の思い出とか、全然身に覚えのない記憶を映画のワンシーンみたい思い出すことがあったんだ。厳密には僕自身の記憶ではないから、思い出しているというより。思い浮かんだという表現がいいかな。いや、違うな。通り過ぎたっていうのが一番近いかな。知らない誰かの記憶がふっと僕の頭を通り過ぎていくことが時々あったんだよ。

 といってもそれが本当に誰かの記憶かどうかなんて確かめようがないし、僕の妄想かもしれないけどね。 

 でもね、誰かの記憶に違いないって思うだけの根拠はあるんだ。すごく主観的な話になるんだけど、誰かの記憶が頭を通り過ぎたとき、「懐かしい」って思うんだ。誰だって昔の事を思い出したら懐かしいって思うだろう? 反対に、初めて見た景色なんかには懐かしいなんて思わないだろう? でもその誰かの記憶を見るときは決まって懐かしいって思うわけさ。だからきっとそれは誰かの記憶なんじゃないかって。

 そんなわけで、大学生の頃、頻繁に誰かの記憶が頭ん中を通り過ぎた。今じゃ、まったく見なくなったけどね。

 見るタイミングは、やることもなくてぼんやりしているときが多かったな。たとえば、大学の講義をさぼって部屋でくだんないバラエティ番組を観ているときとか、カップ麺を食べるためにお湯を淹れて待っているときとか。

 ぼんやりしていると、ふと誰かの記憶をそのまま体験している僕がいるんだ。そのときの僕っていうのはあくまでも主観としての僕であって僕自身ではないんだ。つまり、誰かの記憶を体験しているとき、僕は誰かの記憶を体験しているって感覚はなくて、その誰かに乗り移ってそのままその人の記憶を体験しているんだ。たとえば僕はジェットコースターみたいな乗り物が大っ嫌いなんだけど、あるときジェットコースターが好きなどこかの誰かさんの記憶を体験したことがあった。そのときは狂ったみたいに遊園地にあるジェットコースターに何度も乗っていた。その時、僕はジェットコースターを楽しいと感じていたし、ものすごい高揚感があった。つまり、そのとき僕は僕自身としてではなくて、彼自身としてその記憶を体験したわけさ。だから、記憶が通り過ぎて、正気に戻ったら急に吐き気がこみ上げてきて、20分くらいトイレに籠もっていたよ。おかげで、昼食に作ったカップ麺は二日酔いの翌日のむくんだ顔みたいに膨張して、胃液の臭くて酸っぱい味と混ざって食べられたものじゃなかったね。

 でさ、このことを大学の友達に話してみたんだけど、だれもまともに取り合ってくれなくて、中には僕が薬物中毒なんじゃないかって疑うやつまでいたよ。そのときは薄情なやつらだって思ったけど、今になって思うとそれが正常な反応だよなって思うようになった。僕だって友達が「最近、誰かの記憶を見ることがある」なんて言ってきたら、きっと悪い冗談だって思うか頭がおかしくなったって疑うに違いないからね。

 それでさ、僕が見た他人の記憶の中でもとびっきり記憶に残っているやつがあるんだ。別にたいした記憶じゃなかったんだよ。むしろ僕が観た記憶の中じゃ平凡なものだったよ。でもね、その記憶が通り過ぎたあと、泣いちゃうくらい悲しくなってさ。全く迷惑極まりないよ。きっとその記憶の持ち主は僕に似た性格とか生い立ちをしていたんじゃないかな。経験的に自分とかけ離れた人の記憶はなんだが薄ぼんやりしているんだよな。僕は目があんまり良くないんだけど、眼鏡やコンタクトレンズを外して世界を見ているような感じって言えばいいかな。わりと物それ自体ははっきりと見えたんだけど、それが何なのかを上手く理解できない感じ。心の眼鏡なんていったらダサいけど、心の眼鏡を外した状態で物を認識する感じなわけだ。自分と遠い人物、たとえば、女の子だったり、年寄りだったりすると、僕と共通点が少ないから上手くその人の記憶を理解できないんだ。

 それで、例の彼の記憶。ちょっと困ってしまうくらいクリアだったんだよ。それこそ、これは自分の記憶なんじゃないかって疑ってしまうほどにね。太宰治の作品が好きな人はみんな「どうして太宰治は僕のことを書いているんだろう」って思うらしいね。太宰治の作品が好きな人はそれくらい太宰治に共感するらしい。僕の頭に浮かんできた彼は、太宰治ファンにとっての太宰治みたいなもので、きっと僕は彼に過剰に共感してしまったわけだ。それくらい僕にとって、名前も知らないし顔も知らない彼の記憶は特別だったわけだ。


 その記憶を見たのは、大学2年生の夏休みだった。僕はサークルに入っていなくて、暇な夏休みを過ごしていた。仲の良い学部の友達はみんな地方から来た奴らだったから、地元に帰ってて、まあ、僕も地方出身だけど、実家に帰るだけのお金がなくってね。その頃はまだアルバイトもしていなかったからお金に余裕がなかったんだ。だから独り寂しい夏休みを満喫していたよ。まあ、それはそれで楽しかったんだけどね。なんというか、僕は夏が好きなんだな。突き抜けるような青空。入道雲。クーラーの効いた涼しい図書館。蝉の鳴き声に夕暮れ。祭り囃子と焼きそばの匂い。なんでもかんでもセンチメンタルになっちゃうんだよ。夏になるとね。

 その記憶を見たのは、そんな夏休みのある一日だった。いつも通り、午前中はくだんないワイドショーを観て過ごして、お腹が空いたら格安スーパーで買ったうどんとカット野菜で焼きうどんを作る。そんでベランダで煙草を1本吸って落ち着く。当時はキャスターって煙草を吸っていたんだ。今じゃなくなった銘柄だけどね。バニラみたいな甘い香りがして、大人に成りきれていないまさに大学2年生が吸う煙草だね。

 一服したらインスタントコーヒーを淹れて、ソファに座って読書の時間さ。僕はこれでも結構な読書家でね、食費とか光熱費とか生活するのに必要なお金以外はほとんど本を買うことに使っていたんだ。僕のポリシーとして絶版本みたいな中々手に入んない本以外は新品の本を買うことにしていたんだ。どんなにお金がなくったってね。別に潔癖症な性格ってわけではなくて、素晴らしい作品を世に出してくれた作者に対する敬意っていうやつだ。中古本や図書館を否定しているわけじゃないんだ。それはそれで社会的な役割があるんだからね。まあ、だからこれは僕のこだわりというか性格的な問題というか、とにかく主観的な話さ。それで、その日もコーヒーを飲みながら本を読んでいた。

 僕は旅行して目のくらむような景色を眺めたり、流行りのミュージシャンのライブに行くよりも、部屋で静かに本を読むのが好きなんだ。こんな知性を感じさせない喋り方だから意外に思われることが多いんだけどね。

 その時読んでいた本はディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』って小説だった。知っているかい? これは名作だよ。もうタイトルから意味深で心惹かれるだろ。ハヤカワ文庫から出ているんだけど、本の装丁がまた最高にかっこよくってさ、人生で初めてジャケ買いしちゃった小説さ。読んだらこれがたまんなく面白いんだ。

 どんな高級料理を食べるよりも、どんな高級ホテルに泊まるよりも、静かに独りで大好きな本を好きなだけ読めるってのは贅沢なことさ。僕にとってはね。

 僕はときどき、本を読んでいると眠たくなってしまってね、とくに昼ご飯を食べた後なんかは特に、本を読みながらうたた寝しちゃうことがあるんだよ。不思議なことにね、うたた寝した状態でも僕は本を読むことができるんだ。といっても本当に本を読んでいる訳じゃなくて、自分の頭の中で勝手に話を想像して本を読んじゃうんだな。読書好きの人なら分かってくれるんじゃないかな。うたた寝しながら物語をねつ造しながら進んでいくんだ。そしてそれが意外と本に実際に書いてある内容よりも面白い時があるんだよ。しかもその文章というか、そのストーリーというか、そういうのにすごいリアリティがあるんだよ。きっと自分の頭が作り出した物語だから、自分の好みの物語を作ってくれてるんだな。それであんまりにも調子よく物語が進んでいくから、僕は途中から他人の記憶を観ていることに気がつかなかったんだ。

 僕は知らないベッドの上でうたた寝していた。隣には女の子が寝ている。ショートカットで、肌は小麦色に焼けていて、ほっぺたにはそばかすがあった。猫みたいな女の子だった。歳は僕とそう変わらない。僕と変わらないっていうのは、当時の僕と年齢が近いってことね。たぶん20歳くらいだったと思う。もしかしたらもっと年上の人だったかもしれないし年下の子だったかも知れないけど。

 その子は、僕に顔を向けて気持ちよさそうに眠っていた。ベッドの上で一緒になって寝ていたから、その子はきっと僕と恋人関係だったんじゃないかな。僕っていうのは、つまりは彼だ。この記憶の持ち主である彼のことさ。彼はきっと幸せ者に違いないよ。僕はその記憶を見ているとき、とっても幸せな気持ちになったんだからね。なんというか、身体じゃなくて、心から幸せって感じる。きっと彼はその子のことをとても信頼していたんじゃないかな。それで、それと同じくらいその子も彼のことを信頼していたんだと思う。そう直観的に思うくらい、その幸福は確信的なものだった。僕はいくら女の子と寝てもそんなことを思うことはこれっぽっちもなかった。ことが終わった途端に煙草が吸いたいなんて思うような人間だからさ。愛とか恋とかそういうのって、実感がわかないものだったんだ。でもその記憶を見たとき、人のことを好きになるってこういうことなんだなって分かった気がしたんだ。どこか心が浮つくような、それでいてどこまでも穏やかな気分だった。ずっとその子の顔を眺めていたいって思ったんだ。

 そんなことを思っていると、女の子の目がうっすらと開いたんだ。そして僕の顔を見て、小さく笑って、「おはよう」って言ったんだ。泣けちゃうくらい幸せな瞬間だった。僕も「おはよう」って言い返した。だけど、僕の声はきっとその子には届いていなかったんだな。だってさ、僕が「おはよう」って言ったら、そこにその子はいなくなっちゃったんだから。いなくなったというか、そもそも元からいなかったというのが正しいか。僕の部屋で頭に浮かんだ他人の記憶だったんだから。

僕の「おはよう」は狭い1Kの部屋に静かに響いた訳だ。右手の人差し指を栞代わりに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の文語本に挟んでいた。そのページでは、アンドロイドと人間を識別するチューリングテストみたいなことをやっていた。だからなんだって話だけどね。


 その時、僕はなんだか寂しくなっちゃったんだな。心臓を握りしめられたみたいになって、息苦しくなった。雲みたいに優しくて消えちゃいそうな表情で笑ったあの子はどこにもいなくて、それでその優しい表情すら僕に向けられたものではなくて、でも記憶を観たときは間違いなく僕を見つめていて、そんな事を考えてたら胸が苦しくなったってわけさ。

 それからしばらくは呆けちゃってさ。何にも考えられなくなったんだ。本を読んでも文字を追うだけで内容なんてこれっぽちも頭に入らないし、コーヒーもすっかり冷めちゃってた。それくらい僕にとってその記憶は衝撃的だったのさ。

 普段だったら、他人の記憶が通り過ぎると、この記憶の持ち主はこんな体験をしたのかって距離を置いて考えることができるんだけど、その時ばかりは違ったね。全然知らない記憶なのに、僕の記憶としか思えなかった。僕の体験としか思えなくなったんだ。名前すら知らないその子のことを本気で好きになったわけだ。笑えるだろう?

 ドラマとか漫画のキャラクターを本気で好きになっちゃうような奴らは頭の弱い

 どうしようもない奴らだと思っていたけど、僕も人のことを馬鹿に出来る立場じゃなくなったわけだ。だって本当に存在するかどうかすら怪しい女の子を好きになったんだからね。

 小説を読んでいても、テレビを観ていても、買い物をしていても、何をしていてもその子の事を考えちゃうわけだ。もうどうしようもなくってね。もしその子に会うことが出来れば、当然振られるだろうけど、告白することだってできるんだ。いや、間違いなく告白しただろうね。でもその子はどこに住んでいるかも本当に存在する人なのかも全くわかんないわけだろう。告白できっこないじゃないか。だから気持ちの昂りをどうすることもできなかったんだ。もう、自分でも訳がわかんなくなっちゃってさ、どうすればこの苦しみから解放されるかって考えてた。好きで好きでたまらないのにどうすることもできないんだ。もうこれって苦しみ以外の何物でもないだろう。そんな調子で2週間ばかり恋煩いになってたわけだ。

 恋煩いってのは一種の風邪みたいな物で、時間が経てば自然と治るもんだ。僕も2週間ばかりで恋煩いをすっかり治した。完治すると不思議な物でどうしてあんなに苦しんでいたのかさっぱり分からなくなる。確かに可愛い子だったけれど、四六時中頭から離れなくなるほどの子って訳でもない。わかんないね人の心って。きっとその記憶を観たときは、記憶の持ち主に同化しすぎちゃっていたんだと思う。だから彼の感情を自分の感情と勘違いしてしまった。僕が熱中していたんじゃなくて、彼が熱中していたんだと思う。


 そんなことを経験したもんだからさ、ときどき思うことがあるんだ。「いま僕が体験しているこの人間は本当に僕なんだろか?」ってね。

 人の記憶を体験しているときは、それが他人の記憶だなんてちっとも思わないんだから、今こうやって話している僕が本当に僕自身なのかって疑ってしまう。

 できれば君と会話している今日は、僕の記憶であってほしいな。

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僕の記憶(あるいは誰かの記憶) 千川 @toki109

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