第10章 後編

 無言の車から降り、富樫と私は見知らぬマンションに入っていく。


「このマンションの406号室だ」


 車の中で一言も発さなかった富樫が口を開ける。


「とりあえず、中に入って話す」


 いつもは饒舌な富樫が、淡々と必要なことしか話さない。


 私は頷かず、彼の背後についていく。彼も私が頷くかどうかなんて関係ないのだろう。二人の視線が合わさることはない。夜は闇に包まれ、ただ暗かった。


 私はエレベーターに乗り4階に向かい、406号とプレートが貼られた部屋まで来る。


 富樫が扉を開けて、目線で私を入るように促す。


 一回だけ、富樫に注意を向けて、私は玄関に入る。私は彼を完全に信用しているわけではない。今だって、急に襲ってくるかもしれない。銃だって持っている。この部屋で私に対して何だってできる。いろいろな考えが浮かびながらも、私は富樫の指図どおりに靴を脱ぎ、部屋に上がる。


 扉がゆっくり閉まる。それだけで、急に体温が低下したような感覚に陥る。


「座れよ」


 何もない部屋だ。あるのはベッドとパソコンぐらいだった。窓からは、分厚い雲に覆われた空と、遠くほの暗いビル群が見える。


 私は適当な場所に座る。部屋は暗いままで、電気は点けない。そのほうが互いにとっていいのだろうと結論づける。

 富樫は私が座るのを見て、窓側に椅子を持っていき、大きく息をつきながら腰を下ろす。


「どうして、青井さんを撃って、僕を生かした」


「何がだ」


「どうして、青井さんを殺そうとして、僕を殺さなかったんだ」


 富樫は無表情だ。私は富樫を睨みつける。


「僕はお前が何者で、何をしようとしているかは分からない。だけど、明らかに普通じゃないことをしようとしているのは分かる。銃まで持って、わけの分からない人体実験の地下施設まであって、意味の分からないことを喋って……」


 富樫に対して、疑念をぶちまける。


「僕はお前たちが隠しているものに迫った。それなのに、どうして僕を殺さなかったんだ」


「友達だから、という答えが欲しいか」


「ちゃかすなよ」


「お前は俺たちと同じ立場、そして有用な存在だからな。なんせ『世界』に好かれている」


「まともに答えろよ。僕は冗談を聞きたいわけじゃない」


「冗談なんか言ってないさ。お前は本当に『世界』に好かれている、祝福されているんだからな」


 富樫の話の意味が全く分からない。


「それに、お前は俺について大きな勘違いをしている。まあ、一から説明していってやるよ。面白い馬鹿げた話をな」


 富樫が大きなため息をつく。


「まずは御伽話おとぎばなしにでも耳を傾けるように聞いてくれ」


「……」


平行パラレル世界ワールドという言葉は聞いたことがあるか? 自分たちの今いる世界、この世界のほかに、同じ時間軸上の別世界があるという発想だ。世界はいくつものケースを持っている。例えば、Aという道とBという道があったとする。俺は考えた末、Aという道を選択する。そこで、Bという道に行くことはなくなる。そして、俺はAの道を通って次の分岐点に行く」


「……」


「だが、ここでこのように考えられないだろうか。もしBの道に行っていたらどうなっていただろうか、と」


 本当に、空想を描いた話だ。


「もしBの道に行っていたら現在というものはどうなっていたのではないか、と」


「……」


「率直に言えば、世界には様々な選択肢が存在して『世界』を形成していく。だが、選ばなかったほうの世界も存在し、現在の『世界』とは別の世界である『平行世界』となる、ということだ」


 完全に、常軌を逸脱した話だ。


「世界はいくつもの選択を繰り返す。一瞬にして、世界は『答え』を選び取り、膨大な数の平行世界が生まれ、その世界は続いていく。今、俺たちがいる『世界』も『平行世界』のとある世界の一つなんだ」


「何を言っているんだ」


「理解しなくていい。俺は事実を伝えているだけだ。直接、お前の頭に入れ込め」


「そんなこと信じられるかよ。しかも、お前の話の何が、お前の立場や僕のおかれた状態と関係あるっていうんだよ」


「焦るな。順番に説明してやっているだろう」


 大袈裟にため息をつき、目を細める富樫。


「多次元宇宙論。あれは、荒唐無稽に空間と時間とを捻じ曲げて作った理論だ。時間軸なんて因果律に縛られた覆すことのできない自然定理だって言うのにな」


 何を言っているのか、私には理解できない。何が言いたいのか、私には把握できない。


「俺の言っているのはそんな話じゃない。平行世界はちゃんと、規則を持って存在する。さっき、俺は選択によって世界は作られ、選択の数だけ『平行世界』が作られるといったな。だが、それも厳密には違う。際限なく、無数の『平行世界』が作られるのではない。もし選択のたびに作られるとしたら、『世界』というものは広がり続けて、膨張し破綻するだろう。今、俺たちがいる『世界』が一瞬にして無数に広がり続けること、それには無理がある。『平行世界』の定義が崩れる一つの要因にもなる」


「……」


「無数のものがさらに無数のものを作り上げるなんてことは不可能だ。それなら『世界』は一つと考え、選択はその内部で行われ、因果律の処理により選択しなかった答えは消去される。この考えのほうがより簡素で理論的だ。感覚的にも分かるだろう」


 私には肯定することも否定することもできない。


「まあ、その辺りは解らなくてもいいさ。だがな、結論から言えば平行世界は確かに存在する。ただ『世界の流れ』がそれを気づきにくくさせているだけだ」


 富樫が少し考え込む。私は次の言葉を待つ。


「AとBという選択肢。Aを選べば、Aの世界へ。Bを選べば、Bの世界へ。それぞれ世界は分岐していく。同じ時間軸の上で、この世界は展開されていく。だが、それは選択のたびに際限なく広がっていくものではない。一つの『世界の流れ』というものがこの世にはある」


「……」


「川を想像してみろ。川は常に同じ方向にしか流れない。これが『世界の流れ』だ。そして、選択とは『川の石ころ』のようなもので『水』は出来事だとしよう。お前が石ころだとする。この石ころはお茶目で、自分の意志で動くことができる。右に動くか、左に動くか。その選択によって、世界は二分する。もちろん、上に動いたり、下に動いたりしても構わない。思いつく選択肢の数だけ、平行世界は作られる」


「……」


「しかし、『世界の流れ』とはもう、ほぼ決まっている。一つの石ころが、右に動こうが左に動こうが、最終的に『水』が行き着く先は同じだ。ただ、石ころの選択した場所にだけ『仮の平行世界』が作られる。極端に言えば、石ころがどのように動こうが、最終的な結果は変わらないということだ」


「なんだよ、それ。まるで僕の動きが無駄みたいじゃないか。決まりきっていることなら、意味がないじゃないか。それに、選択し得るだけ平行世界が展開されるなら、さっき言った無数の世界が展開されていることになって、世界だか理論だかしらないけど破綻しておかしなことになるじゃないか」


 富樫は少し考えてから、私に返答する。


「お前に二つ言いたいことがある。勘違いして欲しくないのだが、一つは俺が言う結果とは『世界』の結果だ。『石ころ』のお前の結果ではない。だから、お前の周りの水流はお前の動き次第でいくらでも変えられるということだ。お前の目に見える結果はいくらでも創造できる。言い換えれば、お前にとっての平行世界である『仮の平行世界』はいくつも展開されるが、それは『世界』の場合に換算すれば些細なもので、大きな目で捉えた『世界』での結果には関与しないということだ。世界の構成要素の一部である人間が『仮の平行世界』を幾つも作ったところで、世界は破綻などしない」


「……」


「それともう一つ。前のことを受けてだが『平行世界』は収束するということだ。これは『最終的に水が行き着く先は同じ』ということを繰り返し説明することになる。石ころが動き、水の動きが少し変化しても、また水の流れは同じところに流れていく。右に動いたとき、左に動いたとき、上や下に動いたとき、それぞれの結果がある。動いた石ころの場所では水流は変化するかもしれないが、その水流は大きな『世界の流れ』というものにまた収束される。何事もなかったかのように、時間は進んで水は流れていく。お前がどのような選択をしようと、結果は変わらないということだ。これは宇宙や世界はアカシックレコードなどのプログラムで動くというプログラム理論からも似たように展開できるがな」


 空想にもほどがある。富樫の頭がおかしくなったとしか考えられない。しかし、否定する材料も私には持ち合わせていなかった。信じられない話ではなくて、信じたくない話という理由で、私の頭は拒否反応を示す。


「だが、ここで例外というか、大きなポイントがある。もし小さな石ころが一斉に動き、流れをも変え得る力を持ってしまったら、もし川の本流を変えるような大きな出来事が起こった場合どうなるのか。このときにだ、世界は分割され『平行世界』が作られるというわけだ。小さな一つの石の意志では世界は変えられないが、石ころが一斉に動いたりすることや、大きな岩や多量の雨など、川の流れを変えるような物事に起因し、最終的な『結果』が変わることがある。元の『世界』は現在ある『結果』に流れようとするが、イレギュラーな部分の流れは、元の流れに沿わず別の『結果』へと流れ込む。それが『平行世界』と呼ばれるものになっていくんだ」


「イレギュラーって何のことだ?」


「イレギュラーな出来事とは、何であるのかは分からない。カンブリアの超盛衰や恐竜種の絶滅などの地球規模レベルのものかもしれない。宇宙のビックバンなどの超規模のものかもしれない。誰にも確実な説明はできない。だが、現実に存在する『平行世界』を認識するにはこれらの論解が一般的である上に、理論的で的を射ていると俺自身は思う」


「そんなの勝手に誂えた論法じゃないか。言わせてもらえば、そもそも前提からおかしい。川の流れとか例えをうまく使っているから誤魔化しやすいけど、そんなの推論をうまく誂えて事実に見せかけようとしているだけじゃないか」


「川の流れを例えに使ったのは、あくまでも分かりやすく原理を説明できると考えたからだ。それにな、お前が言っていることは『人はどうして生きているのか』ちゃんとした説明をしろと強要するようなものだ。そんなもの、哲学や科学や宗教などである程度のことは言えるが『真実』は言えないだろう。『真実』は言えないが『人が生きている』というのは事実だ。それを哲学や科学、宗教などいろいろな手段で説明していようとする。俺はただそれと同じように、お前が理解しやすいように例えを使って平行世界の在り方を弁証しようとしただけだ」


「それならだ、平行世界があるということが事実という前提がいるじゃないか!」


「分からないやつだな。信じようが信じまいが平行世界はある」


 互いに睥睨へいげいしあう。


「取り敢えずは平行世界の定義と実状を理解してくれれば構わない。さて、ここからが本題だ」


 そう言って、富樫は首を軽く回す。


「俺たちの住む世界。その世界が今、別の世界から干渉を受けている」


「侵略戦争でもされているのか」


「そんな馬鹿げた真似は、今はしないし、たぶんできないさ」


 富樫は私の皮肉を軽く受け流し、窓を眺める。


「やつらは、こちらの世界で人体実験してるのさ」


「人体、実験……」


 地下施設での、べとついたいやな記憶が甦ってくる。


「もう一つの世界である第七世界、これが俺たちの世界の第六世界に干渉している世界だ。第七世界は俺たちの世界よりも科学的に進んだ世界だ。だが、核兵器戦争、飢餓、人的自然災害、超科学の氾濫(はんらん)などで人類の種は弱くなり滅亡の一途を辿っているらしい。そこで、こちらの健全な人類を使って実験をし、とある計画を遂行しようとしている」


「とある計画……」


「第七世界は、こちらの人類をもてあそんで得たデータを基に、第七世界オリジナルの完全な人類を復活させようとしている」


「完全な人類だと?」


「障害がなく、知能があり、体力のある普通の人間だ。こちらの世界ではどこにでもいる普通の人間。それが完全な人類だ。向こうの世界の人間は様々な要因によって、人類の種自体が衰弱している。精神的にも、肉体的にも、だ」


 富樫の声が抑揚を無くす。


「第七世界の衰弱した人間たちを使ってでは完全な人類は復活できない。そこで、平行世界を往来できる機械を発明して、こちらの世界の人間を実験などに使用して、その結果を基に第七世界オリジナルの完全な人類を復活させようとしている」


「……」


「最初はこちらの世界の人間を拉致らちするだけだった。だが世界は矛盾を嫌う。向こうの世界に行った人間は、第七世界に馴染めずことごとく消滅していった」


「どうして、そんなことになるんだ」


「世の中には様々な自然の規則があるだろう。子供でも習うような時間の規則や物体の法則。具体的には、因果律や統一場理論における相互作用群などが挙げられる。言うなれば、世界というものはある規則を基盤にして創造されていく。だから、言葉上の矛盾というものは存在するが、世界の自然規則には矛盾など、存在してはならない。それが平行世界間移動の問題点になる。とある世界Aに、別の世界Bの人間を連れて行く。すると、そこで矛盾が生じる。Aの世界にはBの世界の人間は存在しない。なのに、Aの世界にはBの世界の人間が存在しているということになる。これは自然の規則を完全に破っている」


「……」


「Aの世界において、Bの世界の人間は絶対に存在しない。当たり前だろう、別の世界から来ているのだからな。Bの世界の人間はAの世界を包括するすべての規則を破って存在している。そして、世界は矛盾を消すために、ありとあらゆる方法でその矛盾を消していく」


「じゃあ、平行世界には近づけないじゃないか」


「第七世界がどうやって世界の矛盾を突破したのかは知らん。だが、一つだけ俺が確認したものがある」


 そう言って、富樫はパソコンラックに近づく。彼は引き出しに手をかけて銀色に光る何かを取り出した。


「これが一つの手段だ」


 富樫の手に銀色に輝く物体が載せられている。それは千里さんが持っていたもの、薬のシートだった。


「潜りも長い間やっていると、妙な信頼関係ができてね。細々と情報が聞けて、様々な物が入手できるのさ。これは世界との矛盾を打ち消す薬らしい。どうやってこんなもので、自然の規則を凌駕りょうができるのかは知らん。全く、向こうの世界はとんだ科学の進歩した世界だよ」


 やつれた富樫の顔が笑みに歪む。


「平行世界を移動できる機械、世界間矛盾に対応する薬、それらを開発して第七世界の人間たちは第六世界いう楽園パラダイスに侵入してきた。それから、さっきも言ったように、第六世界の地下施設で人体実験を重ねて、それを基に第七世界の完全な人類を甦らせようとしている。第七世界の奴らはそれを『イデア計画』と呼称している」


 そして、富樫は聞きたくない事実を私に告げる。


「お前と一緒にいた千里絵梨は、エンパシストと呼ばれる人間の心理作用が読める超能力者であり、『イデア計画』の一端を担う被検体の一人だ」


「……」


「千里は第七世界の奴らにエンパスの能力を買われた。千里は人間の精神構造や心理分析を行うために機器を脳内に埋め込まれ、千里が読んだ人間の心理が機器によってデータ化される。それを用いて完全な人類の精神構造部、心理作用部の設計図を作り上げる。千里は人間の精神構造、心理作用を調べるために利用された人間だ」


「……」


「第七世界の奴らは被検体に人体実験することを隠し、逆に『望みを叶える』という餌で能動的行動を促した」


「望みを叶えるという餌?」


「エンパスやリーディング能力は、普通の人間からしたら便利な能力に見えるかもしれない。しかし、その能力の殆どは操作性欠如のため、生物や物質の心理が勝手に頭へと流れ込んでくる。その流入は精神面に、非常に多大な負担をかける。隔離や加療などをせず放っておけば、すぐに廃人になるだろう。そんな能力者が望むことなんて決まっている。エンパスやリーディング能力の消去だ」


「……」


「能力からの解放という望みを上手く利用して『イデア計画』を担わせる。きっと奴らは、計画が終われば機械か薬剤かで能力の解放措置をして、自由にしてやるとでも言っているのだろう。本当は人体実験に使用して、脳を切り刻むのにな。第七世界の奴らは都合よく事実を偽って、被検体を騙して行動させているんだ」


 私は無意識に、奥歯を噛み締める。


「俺は第七世界の計画を破壊するために、地下施設に潜り込んでいた。第七世界の人間にもこの計画に異議を唱えている者たちがいて、そいつらが反乱を企てている。俺はそれに便乗している反乱者の一人というわけさ。クーデターは明日の深夜に行われる。打ち合わせのために、現場に行ったのが災いしてHPAACの諜報員に見つかってしまったがな」



 富樫が話を終えてから、私たちは黙ったまま目を合わせなかった。富樫はパソコンを起動させ、ディスプレイを凝視していた。私は床に座ったまま頭を抱えて、目を伏せていた。


「木原、お前は世界に好かれているといったな」


 唐突な富樫の声に、体が過敏に反応する。


「世の中にはワールドディアと呼ばれる人間がいるそうだ。世界に好かれた人間、世界にいなくてはいけない人間。そいつは矛盾した平行世界に強く反応する」


「僕がそれだというのか? 僕は特別な能力を持っているわけじゃない」


「別に、特別な能力があるとか立場にいるとかじゃないさ。抽象的だが、世界に強く繋がっていればいい。故に、世界の秩序を狂わせる出来事には非常に強く反応する。平行世界の干渉とか、な」


「……」


「もし、平行世界の人間がお前に被害を与えたりしたら、ひとたまりもないだろう。世界に強く繋がった人物は、世界の規則の具現者だ。そんな奴を矛盾する者が消し去ったとしたら、どうなるかぐらい分かるだろう。様々な方法で、世界は矛盾する者を潰していく」


「……」


「平行世界に対峙できる力。お前には、その力が強い。被検体との結果でも明白だったらしい。お前がワールドディアであると判明したのは実験が終盤に差し掛かったときだそうだが」


「千里さんを被検体だなんて呼ぶのはやめろ」


 富樫を睨む。彼も私を見つめ返す。


「そうだな、悪かった」


 私の言葉で、富樫は話を途中で切り上げる。


「千里は失踪してから日が浅い。まだ生きてるはずだ」


 それだけ告げて、彼は視線を逸らせる。私は膝を抱えて部屋の寒さに耐える。このままだと、体も心も闇に融けていきそうだった。私は自分を保つために強く目をつむった。





 気づけば、浅い眠りに落ちていたようだ。目覚めたとき、こびり付いたような頭痛を感じる


「寒い……」


 この部屋は暖房が効いていない。急に身震いがして、両腕で体を抱き寄せる。


 ふと、富樫の様子を窺う。彼はパソコンのキーボードに突っ伏して、寝息を立てていた。何かの作業をしていたらしく、ディスプレイは起動したままだ。


 何となく立ち上がる。そして、無意識にパソコンのディスプレイを見たときだった。


 パソコンのディスプレイには細かい数字でデータが羅列している。その横に見覚えのある女性の写真が映っている。


 写真の女性は、富樫の奥さんだった。


「何見てんだよ……」


 富樫が目を開けて、話しかけてくる。


「別に……」


「俺も疲れていたのかな。こんな写真を開いたままで、寝ちまうなんてさ」


 富樫は長時間パソコンの前で作業をしていたためか、目が充血していた。


「麗奈もな、被検体だった」


「えっ……」


「千里と同じエンパス能力を持っていて、惚れた俺に実験で近づいたんだそうだ」


 私は言葉を失う。


「彼女は第七世界とやらに上手いように騙され、いいように利用させられて、さんざん脳からデータを取られた挙句、人体実験されて殺されたよ」


 突然の事実に、何も考えられなくなる。


「麗奈がいなくなったのは、お前たちとの研修を受け終わってすぐだった。それから俺は、狂った探偵みたいに謎を暴いていって、この第七世界に行き着いた」


「……」


「木原。俺はな、第七世界のやつらが憎い。俺を散々騙して恋愛ごっこのデータを記録して報告していた麗奈が憎い」


 愛情が裏返るとき、憎悪に変わる。そんな言葉が、思い浮かぶ。


「だけどな。ここまで裏切られても、俺はまだ信じているんだ。麗奈が俺のことを愛してくれていたってことを……。俺にはすべてが演技だなんて考えることはできない」


「富樫……」


「彼女はもういない。そして、俺ができることは勝手に人の人生に介入しやがった野郎どもに銃口を向けることだけだ。俺と麗奈の人生を狂わせた野郎どもに制裁を加えてやるんだ」


「……」


「お前はどうして青井を撃ったかと言ったな」


「ああ」


「青井はHPAACと呼ばれる人身売買などによる超能力者の殺害団体の一員だ。超能力者の遺伝子は、変異を起こし人類の未来を弱くするという消極的優生学を信じ切っている狂団体。その団体は利害の合致から第七世界の奴らと結託している。第七世界の奴らは、超能力者、特にエンパス、リーディング能力の保持者が人体実験に必要だった。HPAACにとって、超能力者は資金源であり、同時に殺害すべき不必要な存在だ。そこで、利害が一致してHPAACは第七世界に超能力者を捕獲して譲渡していた。言葉どおりHPAACは第七世界と人身売買をしているんだ」


「……」


「青井は知らなかったようだが、麗奈もHPAACに売られたんだ。俺はHPAACの奴らも許すことはできない。だから、青井のことも許すことができない。騙してた青井を、俺はすぐにでも撃ちたかった。でも、俺は青井の最後の言葉を聞くまで、撃つことができなかった」


「……」


「木原。本当は、俺は青井を撃ちたくなかった。だけど、やっぱり撃たずにはいられなかったんだ」


 今までの青井さんとの出来事が、頭の中を駆け巡る。富樫と青井さんの楽しげな会話を、冷酷にも頭が思い出させる。富樫のジレンマに、胸が締め付けられる。

 感情の高まった、富樫の低い声。彼はディスプレイに視線を向けたままだ。


 少しの沈黙の後、富樫は自分に言い聞かせるようにディスプレイに呟いた。


「こんなこと全部終わらせてやる。待ってろ麗奈。今、行くからな。」


 パソコンに映った写真から、返事はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る