第6章 後編

 食堂のおばちゃんからA定食を受け取り、空いている席を探す。


 窓側の席を見つけて、素早く腰掛ける。情けないあくびを噛み殺し、黙々と昼ごはんを平らげていく。


 結局、昨日は夢見が悪くて、よく眠れなかった。所詮しょせん夢だと自分に言い聞かせても、何故か居心地の悪さが拭い去れない。そんな漠然とした不安感を、現実の千里さんを思い出して打ち消す。私は完全に、彼女に溺れているようだ。


「あの、すみません」


 突然、背後から声をかけられる。


「えっと、木原さんですか」


 若い女性が消え入るような声で質問してくる。会社の制服を着ているから、同じ会社の人だろう。


「はい、そうですが」


「あの、千里さん、今日はどうしたんですか」


 いきなりの質問に少し驚く。


「えっと、毎回一緒に食べているわけではなくて、ほとんど一人で食事をしています」


「いえ、今日は千里さん、会社に来ていないんです」


「千里さんが会社に来てないの?」


「今まで無断欠勤なんてしたことなかったのですが、今日は電話もなく休んでいるようで、こちらから電話をかけても出てくれないんです」


 それで、時々一緒にごはんを食べている私のところに来たのか。やっと女性が何を聞きたいのか分かる。


「僕も千里さんが欠勤している理由は分からない。お役に立てず申し訳ないです」


「あっ、はい。ありがとうございました」


 軽くお辞儀をして、去っていく女性。その後ろ姿を目で追いながら、私は胸に引っ掛かるものを感じた。



 会社が終わってから、千里さんが住んでいるマンションに来た。


 10階建てのマンションを見上げる。この辺りには大きな建物はなく、大きなマンションは周辺の民家を威圧するようにそびえ立っていた。私は寒さに急かされ、エントランスに入る。


 エレベーターのボタンを押す。到着を告げるベルが無人のロビーに響き、エレベーターの扉が開く。鉄のおりいざなわれるように、私は歩みを進める。



 千里さんの部屋はエレベーターから見て一番奥だった。私の固い足音が、廊下に響く。


 千里さんの部屋までやってくる。扉はしっかり閉じられていて、彼女の部屋と私のいる廊下をさえぎっているように感じた。


 チャイムを押してみる。しかし、返事はない。もう一度、チャイムを押してみる。やはり、返事はない。どうしようかと思い、無意識にドアノブに手をかけたときだった。


 鍵が開いている。ということは、千里さんは部屋の中にいるのか。

 ゆっくりとノブを回してドアを開ける。小さな鉄の悲鳴が上がる。

 チェインはかかっておらず、ドアの隙間から様子を覗く。電気は点いておらず、誰もいないようだった。


「千里さん?」


 小さな声で名前を呼ぶ。しかし、返事は返ってこない。体はドアノブを握り締めたままだ。


 私はどうしたらいいのか。部屋に入って千里さんが帰ってくるのを待つべきなのか。それとも部屋には上がらず帰るべきなのか。


 部屋から微かだが、音が聞こえる。電子音のような途切れ途切れの音。

 玄関の明かりを点ける。足元には、靴が行儀よく揃えてある。


 私は鍵を閉めて、部屋に入ることにした。


 千里さんの部屋は左側がキッチンやお風呂などの水回りが配置してあり、右側に8畳ほどの部屋がある典型的な1Kの間取りだった。


 右側の部屋に入り、明かりを点ける。

 部屋は散らかっている様子もなくいつもどおりで、誰もいない。部屋の中央に、折りたたみテーブルがある。このテーブルは食事をするときだけ出しているようで、普段はベッドの下に折りたたんでしまっているはずだ。そのテーブルの上には、ノートパソコンが置かれてあった。

 パソコンは甲高かんだかい電子音を鳴らしながら、処理作業を行っているようだ。


 テーブルにあるパソコンは、会社から支給されているノートパソコンではない。ディスプレイには、画面焼けを防ぐためスクリーンセーバーが起動していた。


 千里さんはこんなパソコンを持っていたのか。疑問に感じながら、傍にあったマウスでスクリーンセーバーを解除する。

 すると画面には、ダウンロードかインストールを実行しているのか「24パーセントで完了」と表示されていた。どんな処理をしているのか、詳しく見ようとしたとき、パソコンの異常な部分に気が付いた。


 キーボードの文字配列がおかしい。キーボードに手を添えて、暗記している文字配列をそらんじる。


 キーボード上段、Q、W、E、R、T、Y、U、I、O、P

 キーボード中段、A、S、D、F、G、H、J、K、L

 キーボード下段、Z、X、C、V、B、N、M。


 目の前にあるノートパソコンのキーボードは違う文字配列だ。

 キーボード上段、F、W、R、L、I、O、U、Y、Q

 キーボード中段、C、S、T、N、A、E、H、D、G

 キーボード下段、X、B、M、V、Z、J、P、K


 こんな並び方をしたキーボードなんて見たことがない。


 突然、備え付けのクローゼットから、激しい機械音が鳴り始める。耳障りな音に驚かされ、心臓の脈拍が跳ね上がる。


 機械音は十秒ほどで止まっただろうか。音が止まったのを確認して、クローゼットの扉を開ける。クローゼットの中は意外にも広く、タンスとデスクトップ型のパソコンが置いてあった。パソコンのモニターに電源は入っていないようだが、本体は起動中らしく低くうねるような音を発している。そして、そのパソコンにはたくさんのケーブルが繋がれており、そのうち一本がFAX機に接続されていた。


 一人暮らしの家にFAX機があるなんて珍しい。仕事の関係で使うにしても、会社にあるFAX機で事足りるのではないか。そんなことを思いながら、FAXから出てきた紙を手に取る。


「なんだ、これ」


 送信されてきた紙には、バーコードのような線が縦に走っており、不気味なボーダーが書かれていた。それも紙一面に、余すところなく描かれている。

 そして、さらに不思議なことに気付く。FAX機が異様に小さく、どこにも用紙を入れるスペースがなかった。


 もう千里さんが帰ってくるまで大人しくしておこう。彼女に聞けば、何か分かるだろう。そう思って収納スペースから出ようとしたとき、不注意でケーブルに足を取られてしまう。ケーブルが蛇のようにのた打ち回って、パソコンから外れる。


「やってしまった」


 頭を掻き、ケーブルをパソコンに付け直そうとしゃがみ込む。その時、パソコンと壁との間に銀色に光るものがあった。長方形でアルミはくとプラスチックでコーティングされた物体。嫌な既視感を覚えながら、銀色に光るものを拾い上げる。


 それはカプセルタイプの薬が入った錠剤シートだった。薬はアルミ箔とプラスチックシートに守られ、孵化ふかする前の卵のように見える。


 このシートは会社にある千里さんのゴミ箱で見たものと同じだった。アルミ箔には薬品名や製造番号などは一切書かれていない。

 錠剤シートを手に持ったまま、視線を少し奥に向けると、有名なデパートの紙袋が壁に寄り添うように置かれてあった。


 どこにでもある紙袋だ。でも、その中身が何故か気になる。もう一人の自分が、私を突き動かしているように感じる。

 紙袋の中を覗いてみる。そこに銀色のジュラルミンケースが入っていた。ジュラルミンケースを取り出す。思ったより重みはなく、容易たやすく持ち上げることができる。


 中身を確認するべく、私はケースの留め具に手をかける。膝を折って、慎重にケースを開ける。


「嘘だろ」


 自分の視界を疑う。ジュラルミンケースの中には、乱雑に放り込まれているおびただしい数の薬剤シートがあった。


 シートを一つ手に取ってみると、乳白色をした丸い錠剤が入っていた。アルミ箔を確認してみたが、何も書かれていなかった。

 もう一つシートを手に取ってみる。今後は青く三角形のかたちをした錠剤だ。アルミ箔を見てみるが、何も表記していない。

 幾つかシートを確認したが、すべての錠剤シートには何も表記されていなかった。


 ふらつきながら、クローゼットから出てくる。もう千里さんが帰ってくるまで、何も見たくない。そう思っていたのに、ノートパソコンが視界に入ってくる。ダウンロードかインストールが完了したようで、画面には緑一色の背景にアイコンがいくつか並んでいるのが見えた。


 ふと、画面下のタスクバーを見ると、文書作成ソフトが起動しているのが分かった。思わず、ソフトのアイコンをクリックする。そこには、日記のようなものが書かれていた。


 私はスクロールして、最初の文章まで戻ってみる。そこには誰かに宛てた手紙のようなものが書かれていた。下書きと題されており、脈絡ない文が唐突に始まっている。



 先生に質問されたことを、時系列にまとめてみます。

 エンパスの能力ですが、最初のころは、心の声があまり聞こえずに、なんとか普通に暮らしていけました。なるべく自分に対してネガティブな感情を抱かせないように、誰にでも優しくして、人から嫌われないように、怯えながら生活をしていました。

 ですが、能力が強くなっていくにつれて、人の心の深部が見え始めました。人の醜い心です。今になれば分かりますが、心にも上辺の感情というものがあって、さらに奥底には本人さえ気付かない心の闇があります。心の闇が読めるようになったとき、私の精神は狂いだしました。

 今まで親しかった人たちは狂った私を恐れ始めました。家族、友達、何もかもが崩れ去りました。大切な人たちの心を読んで、私はさらに狂っていく。それは救いようのない悪循環でした。もう手が付けられる状態ではなく、強制的に大きな病院に入院しました。

 病院はとても静かでした。何の音も聞こえず、まるで音を忘れているような空間でした。ここなら私は生きていけられると思いました。

 しかし、人の声を全く聞かない生活にも、心は少しずつ蝕まれていきました。最初は人の声を懐かしく思うだけでしたが、年数が経つにつれて、人の声が恋しくなっていきました。人の声に対する欲求は次第に抗しがたいものになっていき、今度は静けさが心を蝕み始めたのです。人の声が聞きたい、誰かと話したい、私の思いを打ち明けたい。でも、また醜い心を読むのが怖い。

 そんな葛藤の中で、もがき苦しみました。そして同時に、自分という存在は孤独なのだと気付きました。

 おかしいですよね、こんな状態にならないと気づかないなんて。人の心が読めると気付いた時点で孤独だと気付かないといけなかったのに。

 もがき苦しんで、限界を感じたときでした。先生の同僚だった山口先生が不思議な薬を持ってきました。見た目は何の変哲もないカプセルの錠剤でした。私は言われるがままにその薬を飲みました。それから、しばらく経って山口先生が、ゆっくりと頭の装置をはずしました。

 先生は私に心を読むように言いました。しかし、全く心が読めませんでした。戸惑っていると、先生からもらった薬はエンパスの能力をコントロールするもので、これで君は普通に生活することできる、と言いました。

 しかし、先生は薬をあげる代わりにやってもらいたいことがある、それに協力してくれるならこの薬を与えようと言いました。

 選択の余地はありませんでした。この薬に頼る以外に、生きることはできません。山口先生はそれを知りながら、確実に承諾を得る駆け引きを持ち出してきたのでしょう。

 やってもらいたいこととは、ある計画に協力することでした。その計画とは人の心を読む能力を活かして、人間の恋愛を脳科学的に調べるというものでした。人間が恋愛の感情を抱く時、どのような精神状態になるのか、相手の心理状態をエンパス能力によって読み取り、埋め込み型の機械に分析、記録させることが課せられた任務でした。

 一体、何のためにこんなことを調べるのかは私にも教えてくれませんでした。そして、私はその計画に参加し、特殊な機械を頭に埋め込まれました。その機械と薬とによって、人の心を意識的に読むことができるようになりました。


「木原君、何をしているんですか」


 突然の声に驚いて振り返る。背後に、千里さんが立っていた。


「勝手に人が書いたものを見るなんて、よくありませんよ」


 彼女は笑っていた。


「私って大雑把おおざっぱだから、パソコンも消さずに外出していたみたい」


 座っていた私は、返事ができずに彼女をただ見上げている。


「薬も見たのですか」


 千里さんがクローゼットに近づく。そこには、開けっ放しのジェラルミンケースが出たままになっていた。それを見て、しまったと思う。


「こうやって見ると、私の飲んでいる薬ってカラフルですね。説明してあげましょうか。白い薬が抗癲癇こうてんかん薬。青いのが睡眠導入剤。黄色のカプセルが精神安定剤。そして、残りの薬はこの世界では開発されていません」


 最後に、千里さんはおかしなことを言った。


「その薬は私の中に入っている機械の……」


 彼女が言葉を続けようとしたとき、急に千里さんの表情が苦しそうに歪んだ。


「千里さん!」


 慌てて立ち上がり、千里さんに近寄る。


「来ないで!」


 千里さんが制止したと同時に、黒服を着た何者かが部屋に入ってくる。フードを被っており、顔が見えない。私が呆気に取られていると、黒服の人物は素早い動きで、私に覆いかぶさるようにぶつかってきた。

 腕に鋭い痛みを感じる。何かを刺されたようだった。何か声を上げようとした瞬間、視界がぶれる。続いて激しい眩暈めまいに襲われる。

 言葉にならなずうめく。視界は回り続ける。まるで世界がミキサーにかけられているようだ。

 体が傾いていくのを感じる。徐々に消えていく意識の中、最後に聴いたのは自分が床に倒れこむ音だった。





 意識が戻ってくるのを感じる。しかし、目は開くことができす、自分がどうなっているか分からない。


 微かに、声が聞こえてくる。聞こえにくいのは、私の聴覚が麻痺しているからなのか。


 ぼんやりと、千里さんの声が聞こえる。誰かと話しているようだ。目が見えないまま私は起き上がろうとするが、体が全く動かない。ただあるのは、胡乱うろんな意識だけだった。


「意識が少し覚醒したようです。はい、日記は最初しか読まれていません」


 彼女の言葉に、黒服の人物と思われる声が返事をしたようだ。ただ、声が小さすぎて何を話しているか分からない。それから、少し言い争うような口調が続く。


「さっきは自棄やけになってしまい、変なことを言ってごめんなさい」


 黒服の人物と話し終わったのか、千里さんの声が鮮明に聞こえた。私は夢の中から語りかけるように、彼女に返事をする。


 謝るのは僕のほうだ。千里さんの知られたくないものを見た僕が悪い。本当にごめん。


「木原君はやっぱり優しいですね」


 千里さんの言葉に、彼女の笑顔が想像できた。


「木原君、そろそろお別れをしなくてはなりません」


 突然の言葉に、何も考えられなくなる。時間が止まったようだった。

 しばらく沈黙が続き、千里さんが意を決したように話し始める。


「私は特異な体質なのです。感応者、エンパシスト、言い方はいろいろありますが、簡単に言うと人の心が読めるのです。それを利用して、ある計画の実験に加担させられたのです」


 人の心が読めるなんて信じられるか。


「そうですよね、信じられませんよね。でも、私にはどんなに嫌でも、人の心が勝手に読めたのです」


 そこで、私は口を動かしていないことに気付いた。これは、心の中を読み取られているのだろうか。

 彼女は少し黙った後、小さな声で心の内を明かした。


「人の心なんて恐ろしく醜悪なもので、悲しみや怒り、焦燥、欲望などが渦巻いているのです。それが直接、私の心に流入するのです。口先では優しさ、労わり、愛情や慈しみを表していても、心の奥底では醜い感情が渦巻いているのです」


 私は何を話したらいいか分からなくなる。


「木原君と出会ったのは意図されたものではなく、ただの偶然でした。木原君が私の対象者に選ばれたのも偶然です。ただ言えることは、男性なら誰でもよかったのです。私は人の心を読み対象者である男性が好むような女性、理想の女性を演じればいいのですから」


 何故そんなことをするのか。


「計画の趣旨は詳しく教えてもらっていませんが、私に課せられた任務は、対象者が恋愛の感情を抱く時にどのような精神状態になるのか、対象者の思いや感情などを頭の機器とエンパス能力によって分析、記録することでした。ただ、それも終わりました。研究をしている組織に、任務終了を告げられたのです。私はこの組織と計画に深く関与してませんから、何故かは分かりません。そして、先ほど言ったように、私はここから去らなくてはなりません」


 どこに行くんだ。


「分かりません。ただ、この場所にはいられません」


 行かないでくれ。


「あなたは、あなたの作った幻想に恋をしていただけです」


 僕はただ、君といたいんだ。


「私はあなたの思っているような人間ではありません。ただ任務のために、恋愛の演技をしていただけです」


 違う。千里さんの笑顔や仕草、優しさや労り、すべて演技のはずがない。


「それはあなたが認めたくないだけです。あなたの思い込みと、私の真実は違う」


 違う。思い込みなんかじゃない。


「私は自分のために人の気持ちを考え、優しい自分を演じていただけです。それは私が生きるための防御策だったんです。誰かが私のことを嫌ったり憎んだりしたとき、それは私の心に流れ込んできて、精神に大きな負担をかけます」


 そこで、彼女は何かを思い出すように、言葉を止める。


「……だから、私は決して人に嫌われないように、相手の望む自分、優しい自分を作り上げなくてはならなかった。私は他人のために優しくしていたのではありません。すべて自分自身のためです。そして、都合のいいことに、あなたは思いやりのある優しい女性を好んでいた。私の防御策が別の面でも役に立ちました。あなたの理想の女性は、とても演じやすかった」


 千里さんが意地悪に笑う。


「ほら、私はあなたの考えているような優しい人間ではないんです。ただ自分可愛さに利己に突き動かされて、偽善的に思いやりがある振りをしていたのです」


 違う。たとえ利己的だとしてもいいじゃないか。たとえ偽善だっていいじゃないか。きっと、自分自身を守る方法はそれだけじゃないはずだ。相手を傷つけたり苦しめたりして自分自身を守る方法もあったはずだ。


 それにもかかわらず、千里さんは相手のことを考えて、優しい気持ちで接するように心がけた。それは千里さんに本当の思いやりがあったからだ。思いやりのない人間は、千里さんのような行動は絶対にできない。


「あなたはとても優しいのですね。でもね、木原君。優しさも時には、柔らかいとげになることを知っていて下さい」


 どうして、そんな悲しいことを言うんだ。


「もう時間がきてしまいました。そろそろ行かなくてなりません」


 待ってくれ。


「さようなら、です。最後に自分勝手なことを言わせてください。病院にいたときに、ずっと憧れていた生活ができました。社会人になって、友達ができて、みんなと騒いで…。それから、演技だとしても、木原君と一緒に過ごすことができて楽しかった」


 待ってくれ。


「木原君、ありがとう。さようなら」





「もう懺悔ざんげは終わりなのか」


 黒服を着た者の声だろうか、見知らぬ男の声が聞こえる。


「はい、もう十分です」


「では薬を飲ませる。これでワールドディアである彼の記憶は消えるだろう」


 ガラスの冷たさを唇に感じる。どろりとした液体が口から流し込まれていく。


「ワールドディアに気づかれてしまった以上、このような処置をしなくてはならないのだ。君が気に病むことはない。それに形だけでも彼に贖罪(しょくざい)することができたではないか」


「はい」


「最後の儀式が君を待っている。そこで自由を約束されるだろう」


 小さくなっていく男の声。いや、声だけではない。千里さんの気配も、私の自我も、何もかもが収束し空疎くうそになっていく。全身麻酔をかけられたように、私が消えていく。





 まぶたが一気に開く。頭が急に覚醒する。


 私はベッドから跳ね起きた。ふらつく足で立ち上がり、あたりを見渡す。彼女の部屋の中はいつもとかわらない。壁掛け時計を見ると、6時を指していた。カーテンの隙間に視線を向けたが、冬の暗さのため午前なのか午後なのか判断できない。一体、自分はどれだけ意識を失っていたのか。


 呼吸が荒い。腹部が不快感を訴えかけてくる。


 液体を飲まされたときに記憶を消すと聞こえたが、私は今まで起きたことをはっきりと思い出せた。


 千里さんの姿を探す。しかし、彼女は見当たらない。手を口元にあてがい、嘔吐おうとするのを堪える。


 しばらくすると吐き気は収まったが、これからどうしたらいいか分からなくなる。崩れ落ちそうな体を再びベッドに沈めて、私は霞んだ目で天井をにらんだ。

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