第6章 前編

 私が最初に見たのは、見知らぬ天井だった。


 急いで、寝惚ねぼけた頭を覚醒するように促す。体を起こして、辺りを見渡す。どうやら、私はベッドにいるらしい。


 突然、針で刺されたような頭痛がした。ズキズキと頭全体に痛みが広がっていく。


 ここは千里さんの部屋だ。小さな唸り声を上げて、昨日の出来事と現在の状況を確認する。

 昨日は千里さんの家にお呼ばれして、彼女と一緒に食事をした。おいしい赤ワインがあるとかで、千里さんが焼いたステーキを食べながらワインをがぶ飲みした記憶がある。


「がぶ飲みして、どうなったんだ」


 終電があるとかないとか、帰宅のことについて話していたような気がする。そんなことを考えていたのが最後の記憶だった。

 そこから導き出される答えは、不覚にも千里さんの家に泊まったということだ。

 寝ぼけていた頭が反転したように働き始める。


「しまった」


 ぼそっと呟き、私は頭痛をこらえながらベッドからゆっくりと降りる。


 ベッドを見ると、黄色いチェックのシーツに暖かそうな布団が納まっていた。ここで私は寝てしまったのか。女の子の部屋で酔っ払ってそのまま寝てしまうなんて、恐ろしいほどの愚行に呆れてしまう。


「うーん」


 失礼ながら、部屋を見渡す。物が結構あるのに小綺麗に片付けられている部屋。朝の冷たく清々しい光が窓から差し込んでいる。そんな別世界を眺めていると、ドアの開く音が聞こえた。


「ただいま~」


 千里さんの間延びした声が、玄関から聞こえる。


「木原君、おはようございます」


 私が部屋の中でたたずんでいることに気付き、千里さんが太陽のような微笑を照らす。


「お、おはようございます」


 私は少し目線を下げて挨拶する。


「昨日はよく眠れましたか」


 彼女は何か買ってきたらしく、ビニール袋を玄関の上がりに置く。


「はい、大変良く寝させていただきました」


 恥ずかしくて萎縮してしまう。


「それはよかったです。枕が合わないんじゃないかと心配してたんですよ。オーダーメイド品なので」


 茶色いブーツを外しながら千里さんは、布団は寒くありませんでしたかなど寝心地について質問してくる。


「大変よい寝心地でございました」


「では、木原君も起きましたし、朝食にしましょうか」



 朝食を終えて、自分のマンションに帰る支度をする。


 今日は日曜日なので会社は休みだった。なので、このまま千里さんの家にいたかった。しかし、来週は資格の試験があり、あいにくテキストは家に置いたままだった。今日は勉強をさぼることは許されない。


 帰り支度を整え、私は玄関で靴を履く。


「それじゃあ、帰るね」


「はい、しっかりと目を開けて帰ってください」


「そんなに寝ぼけまなこになっているかなぁ」


「少し眠そうですよ」


 千里さんは小さく笑う。私は指で目をこすった。


「よし、帰ります!」


 自分を奮い立たせて軽くお辞儀をし、彼女に背を向けて扉のノブに手をかけた。

 そのとき、千里さんが私の背中を軽く叩いた。どうしたのだろうと思い、彼女のほうに振り返る。


 千里さんと視線が交錯する。彼女の体が近づいてくる。そして、そのまま顔を近づけて私たちは唇を重ね合わせた。


 突然のことに驚きながらも、唇の感触を味わう。重たいカバンを持っているため、抱き寄せることはできない。千里さんも私の体に手を触れることなく、少し背伸びしている格好だった。

 口づけを終えた後、千里さんは小さく吐息を漏らす。


「木原君」


 彼女が真剣な眼差しで見つめてくる。


「昨日は寝ちゃって、残念でした」


 そう言って、千里さんは目を細めて微笑む。

 彼女の言葉に、思わず私は狼狽ろうばいする。


「どうしたんですか」


 千里さんが不思議そうに覗き込む。彼女は私の反応を見て、楽しんでいるのだろうか。

 どんな言葉を返したらいいのか分からず、私はその場を取り繕って千里さんの家を後にした。



 資格の勉強は何とか区切りがついた。


 朝からパソコンで模擬試験を繰り返し受講したため、目が疲れきっており、遠くを見るとピントが合いにくくなっている。パソコンの時計を見ると、すでに6時30分になっていた。


 もうそろそろ晩御飯を作らなくてはならない。私は椅子からゆっくりと立ち上がり、小さなキッチンに向かった。


 冷凍保存していたご飯を解凍し、冷蔵庫にあった野菜で野菜炒めを作る。味はまあまあだったが、お腹が減っていたのか短時間で食べ終える。食器を流しに置いて、ぼんやりとテレビのニュース番組を見る。


 日常は僅かな変化を付加してループしている。ニュース番組を見ていると、そんなことを考えてしまう。ニュース番組の内容は日によって違うのだが、事柄だけを見ていると同じことを繰り返しているように思えてくる。昨日も、一週間前も、一ヶ月前も、一年前も同じことがあったような気がする。


 ニュースを見ていても何も得ることがなさそうだったので、チャンネルを変えてみる。何回かチャンネルを変えた時だった。人や科学の超常現象を扱うテレビ番組が放映されていた。そのテレビ番組を見ながら、私は2週間前のできごとを思い出した。



「お邪魔しますね」


 千里さんの声が玄関から響く。


「狭い部屋ですが、どうぞどうぞ」


 私が先に家に入り、寒い部屋を暖めるため、エアコンのスイッチを入れる。


「取り敢えず、奥の部屋で座っていてくれるかな。料理の材料はもう買ってあるので、僕が作るね」


「えっ、いいのですか」


「千里さんの家に呼ばれたときに、千里さんが料理を作ってくれたから、今回はそのお返しで僕が作るよ」


「それではお言葉に甘えますね」


 分かりましたと、奥の部屋に向かう千里さん。


 私が料理を始めようとしたとき、千里さんが話しかけてきた。


「お部屋って住んでる人を表すって言われていますが、この部屋も木原君とそっくりですね」


「うーん、そうなのかな」


 はいとうなずきながら、彼女はくるりと部屋を見渡す。


「お部屋は住んでる人の生活観や嗜好が色濃く表れていると思うんですよ。ほら、木原君はギターを弾いてるでしょ。ですから、当たり前だけどギターが大切に置かれているし、パソコンも得意そうだから、パソコンも扱いやすい場所に置いている」


 そう言いながら、千里さんは興味深げにギターの弦を爪弾く。女の子らしい考え方だなと、こっそりと思う。


「それに、お部屋が綺麗なのや汚いのも、その人の心情を表しているように思います。心にゆとりがなかったら、お部屋って自然に散らかっていきますよね」


「ははは、そうかも」


 千里さんが来るというので掃除して綺麗になっているが、いつもの部屋は無残に散らかっていた。しかも箪笥たんすやクローゼットの中までは整理しきれず、今もぐちゃぐちゃの状態だった。千里さんの話したことは、たぶん的を射ていると思う。


 簡単な料理を作り終え、取り留めない会話をしながら食事を平らげていく。千里さんの口に合うかどうか気兼ねしながらの食事だったので、あまり味は感じなかったが、ぎりぎり及第点としておく。


 テレビはニュース番組から、バラエティー番組に変わっていた。


『今夜、ロシアからの超能力者が来日! 驚きの透視能力を3人の専門家の前で、公開実験する!』


 最近では珍しい超常現象番組がテレビに映し出される。

 千里さんは超常現象などの似非えせ科学番組は好きではないだろうと、千里さんの表情を盗み見る。しかし、彼女は意外にも真剣な眼差しでテレビを見ていた。何故か、チャンネルを変えるか聞きそびれ、そのまま番組が進行する。


 内容はロシアから来た少女が、金属の箱の中にある紙に書かれた文字を当てるというものだった。超能力を信じない科学者たちが、そのトリックを暴こうとして躍起になり、科学体系を用いた理論からケチをつけている。


「木原君は超能力って信じますか」


 ふと、千里さんがテレビを見つめながら尋ねてくる。


「なんとも言えないかな。個人的には、今は不思議な現象でもこれからの科学の発展で、解明される現象もたくさんあるように思う」


「どちらかというと信じているのですね」


「今の答え方だと信じる方になるのかな」


 千里さんはテレビをぼんやりと見ながら頷く。


「この女の子は透視能力ですが、もし人の心が読めたらって思うことがありますか」


「そんな想像は子供のときによくしたかな。テレパスだっけ」


「厳密に言うと、人の心が読めて相手にも自分の考えたことを送れるのが、テレパスですね。人の心が読めるだけの能力は、エンパスと呼ばれています。テレパスの方がエンパスよりも高度な能力なんです」


「へ~、そうなんだ。エンパスなんて言葉、初めて聞いたかな」


「エンパスは感応能力とも呼ばれています。エンパス能力の保持者はエンパシスト、感応者などと言われてます」


「千里さん、超能力に詳しいんだね。意外だった」


 私の言葉に、彼女は口をつぐむ。


 テレビは透視能力者の実験が終わり、UFOの解明と銘打めいうったテロップが流れている。


「他の番組にしましょうか」


「そうだね」


 リモコンを使ってチャンネルを変えていき、超能力番組の話題は終わった。



 2週間前の回想から戻ってくる。超常現象を扱った番組は、飽きもせずに亡霊特集を組んでいる。


「さて、風呂に入るか」


 勉強で頭は疲れきっていた。温かいお湯に浸かりリフレッシュしたい。湯沸かし器を操作して浴槽にお湯を張る。バスタオルを箪笥から引っ張り出し、浴槽に急ぐ。


 お風呂から出て、テレビをつける。あまりにもテレビの中の世界が平和すぎて、眠気を催す。布団に入り、テレビと電気を消す。部屋は暗くなり、冬の冷たさが足元からにじり寄って来る。私は体を少し丸めて、夢の世界に落ちていった。

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