第7章 前編

 千里さんがいなくなって半月ほど経った。


 千里さんは姿を消す直前に会社を退職していた。彼女が住んでいたマンションも、私がもう一度訪問した時には、すでに引っ越しが終わっていた。

 私は千里さんを探すために、できる限りのことをやっているところだった。

 

 まずは、千里さんの実家から連絡できないかと思い、会社に保管されている人事データを調べることにした。


 データを調べるには、人事部の職員しかアクセスできない部署内限定ドライブにアクセスする必要がある。そのため、部署外の私にはアクセス権限がなかった。


 しかし、部署内限定ドライブにアクセスするもう一つの方法があった。それはあまり知られていなかったが、社内ITインフラの開発を行うパソコンからは、様々な部署内限定ドライブにアクセスできた。


 私は経理部でのシステム担当の一人だったため、そのことに気付き、社内グループウェアと会計ソフトとの連携業務に携わっていることを利用して、他の担当者の目を盗み、人事部の部署内限定ドライブにアクセスした。


 フォルダやファイルの名前から、職員の個人情報が記載されたファイルをいくつかコピーして、全部署がアクセスできる共有ドライブに一時的に保管した。それから、すぐに経理部に戻り、自分の個人用パソコンで共有ドライブにアクセスして、目当てのファイルを個人用パソコンのドライブ内に移動させる。


 ファイルにはパスワードがかかっていたので、パスワード解析ソフトのある自宅のパソコンまで持って帰らなくてはならない。USBメモリの使用は禁止になっていたが、周りに気付かれないようにUSBメモリにファイルを移す。


 自宅に帰ってからは、昔に遊びで使っていたパスワード解析ソフトを利用して、すべてのファイルの中身を確認した。その中の一つに千里さんの履歴書を写したデータがあり、緊急連絡先として両親の名前や実家の住所と電話番号を手に入れることができた。


 まずは実家に電話をかけてみたが、現在使用されていないとアナウンスが流れ、不通だった。残された個人情報は両親の名前と住所だけだ。私は休日を使って、千里さんの実家に向かうことを決めた。



 新幹線と電車を乗り継いて、千里さんの地元にやってくる。

 休日の昼間、誰もいない駅に降り立つ。野ざらしのホームは小さく、辺りを見渡しても近くには樹木や畑しかない。遠方に視線を向けてみても、ロードサイドの店舗が数件見えるだけだった。


 古い駅舎を出て、幹線道路に沿って歩く。数台の車が通り過ぎたが、すれ違う人はいない。吹きすさぶ北風がコートをはためかせて、露出した肌から体温を奪っていく。


「ここだと思うけど……」


 知らない道を歩き続け、住宅地の一画に到着する。一戸建ての住居が整然と並んでいるが、古い家が多く、どこかもの悲しさが漂っている。休日の昼だというのに、人の気配も感じられなかった。


 携帯電話を取り出して、地図アプリを開く。目的地の住居を示す赤いピンが立った場所を目指して、寒空の下を歩き続ける。


 千里さんの実家と思われる住宅に到着する。どこにでもあるような普通の一戸建てだ。表札には「南雲」と書かれており、すでに千里さんの家族は引っ越した後だと分かった。


 少し周りを気にしながら、家の玄関まで進む。特に変わったところはなさそうだ。

 敷地の外からは庭木が邪魔をして見えなかったが、玄関の横には大きな窓があった。カーテンで閉じられていないため、くすんだ窓ガラス越しに住居の中を見ることができた。しかし、家具が一切なく、別の住人も引っ越したようだった。


 窓に手をかける。当然だが、鍵は閉まっていて、中に入ることはできない。家の外周を回ってみたが特段おかしなところはなく、どこの出入口も鍵がかかっていた。

 これ以上の詮索は、不審者扱いされてしまう。玄関に戻り、道路に出ようとした時だった。


「そちらの家に、何か御用ですか」


 近所の住人だろうか、眼鏡をかけた女性が話しかけてくる。


「えっと、あの……」


 人が来ることを想定していなかったため、上手い返事ができない。女性は怪訝けげんな表情で、こちらを見つめてくる。


 ここまで来て、何も見つからないのは悔しかった。せめて、この場所に千里さんが住んでいたことぐらいは確認してもよいだろう。


「この家に、千里絵梨という方は住んでいませんでしたか」


「チサト、エリ……、千里ちゃんのことですか?」


 女性は千里さんを知っているようだった。


「はい、実は彼女を探していて、ここまで来たんです」


「失礼ですが、千里ちゃんとはどういった関係でしょうか」


 なんと言えばいいのか、答えに窮する。無難な言い方はないだろうか。


「えっと、会社の同僚です。言いづらいのですが、彼女が連絡なく欠勤しているので、実家まで伺いました」


 本当はすでに退職しているのだが、話がややこしくなりそうなので、欠勤していることにする。


「千里ちゃん、働いているんですか」


 女性は少しおかしなことを言った。大学を卒業すれば、ほとんどの学生が社会人になるだろう。その言葉が、ひっかかる。


「千里さんについて、何か知っていることがあれば、教えてもらいたいのですが」


 女性は私を確認するように、じっと見てくる。怪しいものでないか、判断しているのだろう。何でもよいので、彼女との関係について話した方がよさそうだった。


「申し遅れましたが、木原と申します、千里さんと同じ会社に勤務していまして、同期入社です。半年間一緒に研修をして、今は別々の部署で働いていますが、彼女が急にいなくなったので、心配してここまでやってきました。何か少しでも手掛かりがあれば、教えてもらえると助かります」


 女性は目線を外し、考える顔つきになる。私もこれ以上話すことがなく、相手の反応を待つ。枯れ葉の舞う音が、静かさを際立たせる。


「ここでは人目があるかもしれないので、場所を変えませんか」


 女性が提案してくる。


「ありがとうございます。私はどこでも構いません」


「それでは、ここから歩いて5分ほどのところに、ファミレスがあります。そこに30分後でもよいでしょうか」


「分かりました。それでは、先に行っています」


 女性は買い物袋をぶら下げていたので、いったん家に戻るのだろう。私は女性にファミレスの名前と詳しい場所を聞き、急ぎ足で向かった。





 到着して30分を過ぎたころ、先ほど会った女性がファミレスにやってくる。


「あの、席を変えてもいいですか」


 私は入り口付近に座っていたが、ここでは話しにくいようだ。ウェイトレスに場所を変わることを告げて、奥の席に移動する。


「すみません、気が利かなくて」


 とりあえず、謝っておく。


「いえ……」


 女性は手短に返事する。


「改めまして、木原と申します。お忙しいところお時間をいただき、ありがとうございます」


 この場にふさわしいか分からないが、ビジネス用の挨拶で相手の様子を窺う。


 女性は黒縁の眼鏡をかけており、少しぽっちゃりしていた。年齢は私と同い年ぐらいだろうか。服装はラフな感じで、化粧もしていないようだった。


「千里ちゃん、いつからいないんですか」


 女性は警戒しているのか、名前を名乗らない。私はとりあえず、相手の質問に答える。


「2月に入ってからです。家にも帰っていなくて、連絡も取れません。何か連絡が取れる方法があれば、教えてもらいたいです」


「私も千里ちゃんの連絡先は知りません」


「他に、彼女のことを知っていそうな人はいませんか」


「分かりません」


「そうですか」


 女性の返答は、あっさりとしている。とりあえず話をつなぐため、実家の状況を聞いてみる。


「実家について、何か知っていることはありませんか」


「千里ちゃんの両親も、かなり前に引っ越したと聞きました。今は空き家になっているはずです」


 それからいくつか質問してみたが、何も手掛かりはなさそうだった。


 私は、女性がどうして見知らぬ私の頼みを聞いたのか、疑問に思い始めた。千里さんの実家の前で話していたときに、私の頼みを断る機会はあったはずだ。

 もう尋ねることもなくなった。私が相手に退席を促そうとした時、逆に女性が質問してきた。


「千里ちゃん、本当に働いていたのですか」


 女性は、やけに千里さんが働いていることに疑問を持っているらしい。


「はい、私と同じ会社で働いています」


「体調とか大丈夫でしたか」


「ええ、特段問題はなさそうでしたが」


 そういえば、たまに頭痛が起こると、千里さんが言っていたことを思い出す。そのことを女性に告げる。すると、女性は考えるような顔つきになり、口をもごもごとさせる。


「千里ちゃんって、不思議な子じゃありませんでした?」


 その言葉に、胸のうちに留めていたものが触発される。この女性は何かを知っている。私は女性に質問を投げかける。


「もしかして、エンパスという言葉を知っていますか」


 女性の顔つきが変わる。私は畳み掛けるように、相手に話しかける。


「信じてもらえないかもしれませんが、彼女が失踪する前に、自分は心が読めると私に言ってきたんです。おかしな団体にも加担していて、脳のデータを提供するとも言っていました。私もおかしなことを話しているのは承知しています。ですが、彼女のことが心配なんです。なんでもいいです、何か知っているのであれば教えてください」


 私が話し終えると、女性は思案するような表情になる。しばらく無言の時間が続いたが、女性が唐突に、自分と千里さんのことを話し始めた。


「先ほどの空き家は千里ちゃんの実家で、私も同じ住宅地に住んでいます。千里ちゃんとは年も同じで家も近かったので、小さいときはよく一緒に遊んでいました」


「ですが、中学から千里ちゃんは私立の学校に進学したので、公立の学校に通っていた私とは自然と会わなくなりました。それから、実は私、中学に入ってからずっといじめられていて、そのことが原因で適応障害から鬱病になってしまい、市内の心療内科に通っていました」


 女性はかなりセンシティブな内容を、淡々と話していく。


「家の近所では千里ちゃんと会っていなかったのですが、その心療内科には千里ちゃんも通院していました。彼女も精神系の病気にかかっていたようで、待合室で時々見かけました」


 私は千里さんのパソコンに残っていた日記のようなメモ書きを思い出す。そこには、人の心を読んで苦しんでいたことが書き連ねてあったはずだ。


「一度だけ、症状がよくなったときに頑張って学校にいったのですが、またみんなに無視されてしまって、泣きながら病院に行った時があったんです。そのとき、千里ちゃんが声をかけてくれました。千里ちゃんもかなり辛そうでしたが、泣いている私を見て、思わず声をかけてくれたんでしょう」


 千里さんらしい、そう思った。


「それから時々ですが、千里ちゃんとまた話すようになりました。お互い、病気のことや悩んでいることは言いませんでしたが、同じ年齢で似たような境遇な子とお喋りするだけで、とても救われた気持ちになりました。私は通っていた学校の理解もあって、症状は徐々に良くなりました」


 しかし、女性はここで声のトーンを落とす。


「でも、千里ちゃんは、だんだんと苦しそうになっていって……。あるとき、先生方が千里ちゃんのことを話しているのを聞いたんです。そのとき、エンパスって言葉を使っていて、共感性能力が異常に高く、人によっては心が読める能力だと言っていました」


 そう言って、女性は話をいったん止める。


「実は、私も共感性指数が非常に高いと診断されたことがあります。だから、千里ちゃんの共感力は異常だと気づきました。千里ちゃんは、私の考えをすぐに理解できるだけでなく、私が誰にも話していない思いさえも、知っていたことがありました」


 私は黙ったまま、女性の話を聞き続ける。


「千里ちゃんは高校を卒業すると、病院に来なくなりました。偶然に、先生方の話しを聞いたのですが、千里ちゃんは症状が重くなって、もっと医療設備が充実した病院に入院したそうです」


 女性が話す内容は、千里さんのメモ書きと一致していた。


「それと、千里ちゃんの主治医だった先生は、少し変わった方でした」


「変わった方、ですか」


「一度、私も診察してもらったことがありました。穏やかな先生だったのですが、なんというか、しっかりとした心がないように感じました。先ほど、木原さんが千里ちゃんはおかしな団体と関係しているとも言っていましたが、先生の診察室には、病院関係者や製薬会社の人ではなさそうな人物もよく出入りしていました」


「その先生の名前は憶えていますか」


「すみません、覚えていません。私の主治医だった先生の名前なら分かりますが、どこかの病院に転属した後、亡くなったと聞いています」


 そう言ったあと、女性は遠い記憶を思い出すように、目線を宙に向けた。


「そういえば、千里さんの先生のことで思い出しました。私、一回だけ気になって、先生が千里ちゃんにカウンセリングするのを聞いたことがありました。でも、そのカウンセリングは患者を診るようには感じませんでした」


「どんなふうに感じたのですか」


「おかしな表現かもしれませんが、千里ちゃんを品定めしているようでした」





 女性の車で、千里さんが通っていた病院まで送ってもらう。


「わざわざ、すみません」


 車を降りて、女性にお辞儀をする。結局、最後まで名前を教えてもらえなかった。


「いえ、私が協力できるのは、このぐらいです。でも、本当にここでいいのですか」


 女性によると、病院は数年前に廃業になっていた。


「ええ、何か少しでも彼女に関するものが見つかればいいので」


 女性は無言のまま、私を見つめる。共感性が強いと、どうしても人を観察する癖が付くのだろうか。


「この病院は空き家ですが、変なことはしないでくださいね」


「分かりました」


 きっと女性は、私の嘘を見抜いている。


「千里ちゃんを、見つけてあげてください。それでは……」


 女性が車を発進させる。後には、排気ガスの臭いだけが残った。


 一人取り残され、廃病院を見上げる。打放しコンクリートで造られた2階建ての建物だ。ただ、病院名が書かれたプレートはなく、門扉は固く閉ざされている。

 どこか入り込める場所はないか探してみると、隣家との間にブロック塀があり、それをよじ登れば敷地内に入れそうだった。


 辺りに人がいないことを確認して、ブロック塀に近づき、手をかける。普段運動していないせいか、なかなか体が上がらない。ブロックの継ぎ目に足をかけて、無理やりよじ登る。なんとか、ブロック塀の上まで登り、病院の敷地内に飛び降りる。


 建物を近くで眺める。数年前まで開院していたというが、コンクリート製の建物は、至る所でひび割れや腐食があった。意外と、築年数は古いのかもしれない。


 なるべく足音を立てないように、正面玄関まで進む。予想通りではあったが、正面の玄関口は鍵が閉まっていた。


 建物を一周して、他に施錠されていない扉や窓がないか探してみる。すると一か所だけ、裏口にある小窓の鍵がかかっていなかった。体をかなり縮めないと入れそうになかったが、そこしか開いているところはない。私は意を決して、体を滑り込ませる。


 頭と肩を窓枠に入れると、そこはトイレだと分かった。長い間使われていないせいで、壁面のタイルが所々剥がれて、全体的に茶色く変色している。目を下に向けると、便器にはいろんなゴミが溜まっていた。


 上半身を窓枠に無理やりねじ込んだ後、どうにかして体を引き抜き、床に降り立つ。着地と同時に、薄く積もった埃が舞い上がる。私はトイレから急いで出て、病院内を見て廻った。



 病院内は、拍子抜けするほど何もなかった。よく考えてみれば当然なのだが、医療器具や薬剤などは放置すると危険であり、カルテなどの書類は個人情報が記載されているので、どこかに移転する必要があるのだろう。


 結局、千里さんに繋がるものは何一つなかった。意気消沈して、思わず床に座り込む。そのとき、高さの低い本棚が目に入った。スーツについた埃を払い、本棚に近づく。一冊だけ本が残っている。どんな本だろうかと手に取ってみると「消極的優生学と進化の拡がり」とタイトルが記されていた。私はその場に座って、適当に流し読む。


 

 しばらく私は本を読み進めてみたが、専門用語が多く、書いてある内容のほとんどは理解できなかった。おおよそ理解できたことは、劣った形質を持つ人間が何らかの要因で、遺伝的淘汰されることなく子孫を残していき、それが人類に広がっていくという内容だった。


 様々な例示も挙げられていたが、一番わかりやすかったのは、酒に弱い遺伝子が日本を含む東アジアから徐々に広がっているということだった。確かに、日本人には下戸が多い。


 途中まで読んで、本を閉じる。何か解決の糸口になると思ったが、特に何もなかった。ため息をついて、本を棚にしまおうとしたとき、背表紙のあたりに、紙が挟まっていることに気付いた。紙を取ってみる。そこには、何かのデータをまとめたグラフが書いていた。データの表題には「超能力者が保持する脆弱化遺伝子の波及シミュレーション」とある。


 超能力者という文字に、一気に頭が覚醒する。私は紙に書かれたデータを詳しく見ていく。


 そのデータは超能力者の遺伝子がどのように人類の中に広がっていくか、時系列に試算したものだった。また、データの下には、殴り書きで様々な単語が書かれており、その中にはエンパスという文字も書かれていた。


 しかし、全くと言っていいほど存在しない超能力者の遺伝子が、どうして人々の中で広がっていくのだろうか。それから、表題にある脆弱化遺伝子とは、何かを弱くさせる遺伝子という意味だろうか。


 そう考えていた時、私はこの紙が挟まっていた本の内容を思い出す。

 先ほど読んだ本には、劣った形質を持つ人間の遺伝子が、何らかの要因があれば人類に広がっていくと書かれていた。もしかすると、劣った形質を発現する遺伝子と同じように、超能力者の遺伝子も人間を弱体化させる性質があり、何らかの要因があれば人類という種を弱めながら広がっていくのだろうか。


 ただ、こんなものが千里さんを探すうえで、何の役に立つのか分からない。念のためでしかないが、私は本の表紙とデータの書かれた紙を携帯電話で撮影して、病院から引き揚げた。





 帰りの電車を待つ。反対側のホームには、セーラー服を着た女子学生たちがいた。数人でお喋りしている学生もいれば、一人で本を読んでいる学生もいる。千里さんの住んでいた町だ、きっと彼女もこの駅を利用したことがあるのだろう。彼女はどんな学生だったのだろうか。そう言えば、千里さんから昔の話はあまり聞いたことがなかった。


 電車がホームに入ってくる。私は見知らぬ景色から遠ざかるように、ゆっくりと電車に乗った。

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