第4章 後編

 1週間後、鍋パーティー開催の日がやってきた。


「木原、やっほ~!」


 駅の改札口を降りてすぐ、青井さんが元気よく手を振っているのが見えた。私は彼女に近づき話しかける。


「あれ、まだみんな来ていないんだ。自分は残業があったから、三人とも来ていると思っていたよ」


 青井さんは家にいったん戻ったのであろう、Tシャツにジーンズとラフな格好に着替えていた。


「まだ6時50分やからなぁ。まあ、ぼちぼち来るんとちゃう」


「そうだね。ところで青井さんの家はここから近いの?」


「近いもなにもすぐ目の前やで。あ・そ・こ」


 彼女は意味ありげに言葉を切り、駅前にある灯りのついた商店を指差す。


「青井酒店って、青井さんち酒屋さんだったんだ」


「今まで話してなかったけどお酒屋さんをやっております。別に隠すつもりはなかったんやけど、なんか実家がやっている商売をみんなに話すの恥ずかしくてなぁ」


 なんとなくだがその気持ちは分かる気がする。


「今後、是非ごひいきに。いや、今後といわず今から買って~な!」


「すみません、いま持ち合わせがちょっと」


「そこに消費者金融があるから借りてきぃな」


「それは、無理です」


 青井さんとそんなやりとりをしていると、残りの三人がやってくる。私を迎えた時のように、青井さんは手を振る。富樫が手を上げて、青井さんに応える。


「おうおう、出迎えご苦労さん」


「青井ちゃん、今日はお家にお邪魔しますね」


 千里さんがお辞儀をする。少し遅れて、上川さんも深々とお辞儀をした。


「千里ちゃんも愛ちゃんも、そんなに改まらんでもいいんやで」


 青井さんが照れたように少し笑いながら、顔を上げてと手でジェスチャーする。


「そうだそうだ、みんな気楽に行こうぜ! 所詮しょせん青井の家だ、気にすることはない」


「富樫さん、あんたは帰ってよし」


「いえ、青井様の家に上がらせていただけるなんて、望外のさち。これは土産の品にござりまする」


「富樫さん調子ええなぁ。まあええわ、これで全員そろうたな。では、出発や」


 青井さんの号令に従い、私たちは青井酒店に向かう。私の前を歩いていた富樫と青井さん、千里さんは実家の話で盛り上がっているようだ。私はその後で、上川さんと一緒に無言で歩いていた。


「上川さん、引越しの準備はできた?」


 上川さんに話しかける。彼女は私を見上げながら、返事をする。


「はい、もう終わりました」


「いつ出発するの?」


明後日あさってに家具などの荷物を送って、次の日に向かいます」


「じゃあ、こっちにいるのは四日間か」


「はい、四日ですね……」


 上川さんは視線を前に向ける。


「この一週間はいろいろと忙しくて何もできませんでした。だから、こんなにも早く時間が経ったのかもしれません」


「そうなんだ」


 上川さんが言おうとしていることが分からず、空返事しか返せなかった。彼女は少し目を伏せて話を続ける。


「今日が来てほしくなかったから、時間が早く経ったのかもしれません……」


「……ということなんだよ!」


「そりゃ災難やなぁ。さあさあ着いたで」


 富樫たちの会話が上川さんの言葉を掻き消す。


「ささ、我が家へようこそ」


 青井酒店の入り口をくぐる。いらっしゃいと、青井さんのお母さんが店の奥から出てきて、親しみのこもった表情で私たちを招き入れてくれる。

 店の中を見渡すと、様々なお酒が所狭しと陳列されていた。今日はお酒に困ることはまずないだろう。



 すき焼きの準備が着々と進んでいく。私と富樫は野菜の担当だった。


「青井さん、野菜切り終わったよ」


「お疲れちゃん。この野菜は追加分やから、お鍋の中が足りへんなったら、この野菜を入れていってなぁ」


 青井さんの指示に、富樫が返答する。


「了解だ」


「千里ちゃん、愛ちゃん、鍋に野菜入れるの終わった?」


「終わりましたよ。見てください、この綺麗な盛り付け方」


 千里さんが鍋を見に来るように促す。鍋を覗きに来た三人から、歓声が上がる。鍋はスーパーの広告のように綺麗に盛り付けられていた。


「やはり上川のセンスは素晴らしいな」


 富樫が感嘆を漏らす。


「本当に綺麗やね。食べるのがもったいないくらいやわ」


「褒めすぎです、みなさん……」


 恥ずかしそうにうつむく上川さん。


「それじゃあ、富樫さん。鍋を居間に持っていってな」


 短く返事をして、富樫は鍋を大事そうに居間に運んでいく。


 私は千里さんの方へ視線を向ける。彼女はたくさんの取り皿とお茶碗を持とうとしていた。


「千里さん、お茶碗は僕が持つよ」


 食器を手に取ろうとしていた彼女を制して、私はテーブルに置かれた残りのお茶碗を手に取った。


「どうもありがとう、木原君」


 彼女がにっこりと微笑む。その華やかな表情に、思わずどきっとしてしまう。


「いえいえ、全部のお茶碗は持てないよね」


 胸の高ぶりを感じながら言葉を紡ぐ。千里さんの笑顔は今までに何回も見ているのに、不意打ちのような笑顔に、私は動揺してしまう。


「それでは、私は片手が空いたので、卵でも持っていこうかな」


 千里さんは冷蔵庫に向かい、お辞儀をして扉を開ける。私はその様子を盗み見て、居間に入っていった。



 すき焼きはとても美味しく、会話も弾んだ。いつの間にか鍋は空になり、お酒のペースも落ちてきた。壁にかかった時計はもう11時を回っている。

 酔いによって、視界が時々霞む。富樫と青井さんが笑いながら話しているのが遠くの出来事のように感じる。


 ふと、千里さんがさっきから喋ってないことに気づく。彼女は虚ろな目線でどこかを見つめていた。


「千里さん、さっきからぼんやりとしてどうしたの?」


 私が突然に声をかけたため、千里さんは少し慌てたような表情になる。


「私、ぼんやりとしていました?」


「千里、酔っ払ったんじゃないの? ちゃんと帰れるかぁ?」


 千里さんより確実に酔っ払っている富樫が、しゃっくりまじりに彼女の心配をする。


「ちょっと考え事でもしていたのかな」


 自分でも分からない、そんな感じで千里さんは呟く。


「意外に私、酔っ払っているのかも……」


「全然そんなふうには見えないけど、顔だっていつもどおりだよ」


「顔には出ないんですけどね。いつもは自分で決めたお酒の量しか飲まないんです。でも今日は楽しかったから、いつも以上に飲んじゃったのかな」


 その後も断続的に会話が続いたが、頃合いを見た富樫がお開きを宣言する。


「それじゃあ、みんな酔いも回ってきたし、そろそろおいとまするか」


「余裕持たせて帰ったほうがいいで。明日は休みやけど、引越しのことがあるからね」


「荷物はまとめたから、あとは移動するだけなんだけどな」


「引越しは大変でしょうけど頑張ってくださいね。愛ちゃん、立てますか?」


「大丈夫です……」


 帰り支度を終わらせて、青井さんのご家族に玄関口で挨拶する。


「夜遅くまで、おじゃましました」


 少しふらつく足をしっかりと立たせて、私はお辞儀をした。


「みんなちょっと待っててな」


 いそいそと、青井さんが店に戻っていく。どうしたのだろうと思っていると、彼女は高そうな日本酒を4本も持ってきた。


「これ、お土産。持って帰ってや」


 紙袋に入った日本酒を手渡される。私はそれを見て、ちょっと冗談が言いたくなった。今日の駅前での会話が思い出される。


「すみません、お金の持ち合わせがちょっと……」


「あはは、お土産言うたやろ。残念なことに消費者金融も閉まってるしなぁ」


「じゃあ、出世払いでいいかな」


「うん、期待せずに待ってるわ」


 青井さんが頷きながら、微笑む。

 いつもの調子でふざけたことを言いながら、私は青井さんに別れを告げる。


「またなぁ、木原」


 駅までの道のり、ふと後ろを振り向くと、青井さんは店の前でずっと立っていた。彼女は私が振り向いたことに気づくと、大きく手を振ってくる。私も手を振り返す。

 彼女の暖かくて、少し寂しそうな視線を感じながら、私は歩みを進めていった。





「それじゃあ、そろそろだね。上川さん、お元気で……」


 上川さんと千里さんが乗換えをする駅が近づく。もっと気の利いた言葉があったかもしれなかったが、思いつかなかった。


「はい、木原さんもお元気で……」


 上川さんは彼女らしく手短に言葉を話す。近くでは富樫と千里さんも挨拶をしていた。


「あの、木原さん……」


 上川さんの射抜くような、強いまなざしが私を見据える。


「これから……」


 そこで彼女の口は止まる。どんな言葉をかければいいのか考えるように、難しい表情になる上川さん。そして、彼女は確かめるようにして言葉を発する。


「頑張ってください」


「ああ、頑張るよ。上川さんも頑張ってね」


 目線を下に落として、彼女は頷く。


 彼女たちが下車する駅名が、機械的なアナウンスで告げられる。


「ここで乗り換えですね。愛ちゃん、降りましょうか」


 富樫との挨拶をすませた千里さんが話しかける。

 ホームに入る電車、開く扉。


「富樫さん、半年間ありがとうございました。支店にお邪魔したときは、よろしくお願いしますね」


「ああ、是非寄ってくれ。千里や上川が来たらお茶の何杯でも用意するから」


「木原君も会社で会ったら声をかけてね」


「うん、もちろんだよ」


 女性二人がホームに降り立つ。すると、誰よりも先に、大人しかった上川さんが口を開いた。お辞儀をする彼女。そして、上川さんは呟くように別れを告げた。


「さようなら……」





 富樫と私を乗せた電車は、夜のとばりが下りた街中を進む。


 会話が途切れたとき、富樫が不意に話題を変えてきた。


「木原、近くに来たときは遊びに来いよ」


 彼の視線が窓の外に向けられる。その仕草が、この街から引っ越すことを無言で告げているようだった。


「必ず遊びに行くよ。写真じゃなくて本物の麗奈さんも見たいし」


「麗奈も木原に会いたいって言ってたぜ」


 富樫が下車する駅名が、機械的なアナウンスで告げられる。別れを報せる二度目のアナウンスだ。


「それじゃあ、ここで降りるな」


「分かった」


「達者で暮らせよ、木原」


「ああ、暮らすよ」


 何か言いたいはずなのに、思いが言葉に表せずに何も言えない。少しの沈黙が、辺りに漂う。


「木原、その……」


 富樫が話しにくそうに、口ごもる。普段は自分の思っていることを闊達に話すのに珍しかった。


「そのな、半年間おまえと仕事できて、遊びに行ったりしてすごく楽しかったよ。本当にありがとう」


 富樫の言葉に、私は大切なことを思い出す。


 私は大事なことを忘れていた。みんなに「ありがとう」を言えていない。


「男二人、女三人の絶妙な感じの中、おまえがいたから楽しかった」


「富樫がいたから、僕も楽しかった。お礼を言うのは僕のほうだ」


 青井さんや上川さんに「ありがとう」を言えなかった。もう一回だなんて、やり直しはできない。そんな後悔を交えながら、つたなくも感謝の意を富樫に伝える。


「富樫、本当にありがとう」


 電車がホームに入り、空圧音とともに扉が開かれる。


「またな」


「ああ、また」


 富樫が握手を求めてくる。私はその手をがっちりと掴む。私たちは少し笑って、少し寂しそうに手を離した。





 一人、電車の壁に寄りかかったまま佇む。気づけば、会社の最寄り駅がアナウンスされている。


 電車の扉が開くと、勝手に足が動いてホームに降り立った。電車が走り去るまで、私は無言で佇む。何故だか分からない、衝動的な行動だ……。

 首筋に微かな風を感じながら、私はホームから出て行く。繰り返す日常のように、こびりついた反復行動。ただ、今は深夜だった。


 会社へと続く大通りには、人の姿がまったく見当たらない。幹線道路はここから遠く、繁華街も近くに無かった。静寂が音を忘れたように漂っている。

 こんな時間にこの大通りを歩くとは、思ってもみなかった。酔っているせいもあるかもしれない。こんなことに意味はないのかもしれない。


 酔いと倦怠感けんたいかんを引きずりながら、私はただ進み続ける。


 しばらく歩いて、私は立ち止まる。会社の入っているビルは夜の闇を纏い、聳え立っている。ビルには赤いライトが付いており、屋上付近の両端に一個ずつ、中層の左右に一個ずつ、ゆっくり点滅している。

 私は無言でビルを眺め続けた。


「あれ……?」


 ビルを眺め続けている、正面玄関にぼんやりと人影が見えた。

 一体こんな真夜中にどうしたのだろう。何か用事があって来ているのかもしれないが、こんな深夜に正面玄関は開いていないはずだ。


 人影が歩き出す。正面玄関を横切り、ビルの左側に進んでいく。


「千里さん……?」


 髪型や背丈、服装から千里さんだと思われた。しかしこんな真夜中に、しかも会社の玄関口にいるなんて、どうしたのだろうか。

 不思議に思いながら、人影が向かう先に視線を向ける。人影はビルとの合間に、吸い込まれるように入っていく。


 セカイヲタダセ セカイヲタダセ セカイヲタダセ セカイヲタダセ


 千里さんらしき姿を見て、ふらりと足が進む。考えることより先に足が歩いていた。関心と疑念が織り交ざった気持ちに、私は突き動かされる。


 正面玄関までやってくる。ガラス張りの自動ドアから、ビルの中が見える。そこには静まり返ったロビーがあるだけだ。もちろん誰もいない。


 ビルの左側までやって来る。隣のビルとの間隔は意外に広く、整然としていた。会社のビルからは明かりが漏れている。そこには警備員室があったはずだ。千里さんはここに入ったのだろうか。


 私は躊躇ちゅうちょしながらも、歩みを進めていく。音をたてないようにゆっくり、特に悪いことをしていないのに忍び足になる。警備員室までが長く感じる。


 警備員室に到着すると、扉が開きっぱなしで誰もいなかった。


「誰もいないのか……」


 普段であれば警備員がいて、出入りを管理しているはずだ。

 ビルの中を覗き込むと、ほの暗い廊下が続いていたが、来るものを阻むように先が見えなかった。


 夜風に乗って運ばれたように、微かに声が聞こえる。話の内容までは聞き取れない。

 私は意を決して、廊下に一歩踏み出す。


「……うっ」


 踏み出した瞬間、体が傾く感じがした。

 何だ、今のは。これは酔いが残っているからなのか。気を取り直し、周囲に注意を払いながら進んでいく。


 廊下を歩いていると、どこかでこの場所を見たような感覚に陥る。

 そうだ、病院だ。廊下の床材は病院でよく使用されるリノリウム製だった。オイルを垂らしたような質感に、ふらついた足を取られそうになる。


 平衡感覚を失ったように、歩いていく。頭の芯がぶれたように、遠近感がなくなってくる。


 暗い歪みの中を無理やり進んでいくと、交差路に出てきた。この場所を歩くのは初めてで、どこに繋がっているのか分からない。予想を立てるとしたら、右側の道はロビーへと繋がっていると思う。


 どちらへいけばいいのか。左側、直感がそう告げる。左側というとビル正面の反対側、ビルの後部分にあたる。

 とりあえず、音をたてずに左へと進むことに決める。


 少し歩くと、また分岐に出くわす。今度は左右に分かれていた。。

 私は立ち止まり、再び考える。今度はどちらに……。


「では、地下に降ろします」


 突然、男性の声が聞こえる。


 曲がり角に体を隠し、そこから顔だけ出して覗き込む。

 そこにはエレベーターがあり、警備員が立っていた。エレベーターの中には誰か入っているようだが、誰かは確認できない。


「はい」


 短く答える女性の声。千里さんの声なのか、違う人の声なのか。あまりにも言葉が短いために、彼女の声かどうか判断できない。


「帰りは地下で声をかけてください」


 金属の擦り合う音がする。鍵をたくさんぶら下げたリングの中から、警備員は目当ての鍵を見つける。そして、エレベーターの昇降ボタンの下に鍵を差し込んだ。

 昇降ボタンの下が開く。そこには様々なボタンが配置されていた。警備員は丁寧な手つきで、ボタンを押していく。

 警備員が操作を終えると、扉がゆっくりと閉まり、エレベーターが降下していく。


「降下……」


 私は小さく呟く。そして、疑念が頭の中で渦巻き始める。


 警備員の言葉を思い出す。彼は確かに「地下に降ろします」と言った。


 しかし、このビルに地下はない。


 エレベーターの階数を示す表示板を見る。エレベーターの上部にある表示板は1階で止まったまま動いていない。だが、エレベーターが動いている気配はここからでも感じ取ることができる。


 呆気に取られ、表示板をもう一度確認する。やはり、地下の表示は確認できない。


 警備員が慣れた手つきでボタンを押していく。そして、ボタンの操作が終わると、警備員はエレベーターを不動のまま眺める。私はその様子を、呼吸するのを忘れたようにただ見つめ続ける。


 再び、鍵の金属音がした。警備員は昇降ボタンの下にある扉を閉めているらしい。鍵たちの擦れる音だけが廊下に響き渡る。


 突然、鈴の音のようなエレベーターの到着音が響く。この場に不釣合いな音に驚いて、私の心臓が跳ね上がる。

 先ほど降りていったエレベーターが、もう1階に戻っている。警備員はエレベーターの中を覗き込み、誰もいないことを確認しているようだった。


 鼓動が警告するように早鐘を打つ。この場所があまりにも静かすぎて耳鳴りがするのか。この場所があまりにも暗すぎて目の焦点が合わないのか。はやくこの場から去らなければいけない。


 気づけば呼吸が荒い。空気がうまく肺に取り込めないでいる。唾液を無理やり喉に流し込む。その音まで相手に聞こえそうで恐い。


 突然、警備員がこちらを向いた。その時、警備員と目が合ってしまった。

 出していた顔をすぐに引っ込めて、壁に体を押し付ける。そのまま金縛りにあったように動けない。

 息ができない。目線を動かして逃げ込める部屋を探す。しかし、扉はどこにもなかった。

 足音が聞こえ始める。体が強張る。警備員がこちらに向かってきているようだ。徐々に大きくなる足音。


 しかし、足音が突然止まる。


「見回りご苦労さん。先に上がっていいぞ」


 別の警備員だろうか、話しかける声が聞こえる。


「……お疲れさまでした」


 小さな返事が聞こえ、足音が遠ざかっていく。しばらくして、張り詰めた静寂が再び訪れた。


 呪いを解かれるように、体が徐々に自由になる。私はよどんだ空気を大きく吸い込む。

 気づけば、体が汗ばんでいた。荒い呼吸のまま、念のためにエレベーターホールを覗き込むと誰もいなかった。

 断続的な眩暈めまいを感じる。急いで、ここを出なくてはならない。緊張で固まった足を奮い立たせ、私は出口を求めて、小走りで逃げていく。



 何とかビルから脱出する。外の空気は冷たくて、体を清めてくれるようだった。

 何度か小さく深呼吸をして、体の中にある澱んだ空気を吐き出す。早くこの付近から離れたいという焦りと、警備員に気づかれなかったという安堵、その両方を感じながら、路地裏を抜け出し、大通りを覚束ない足取りで走っていく。


 数分ほど走ったであろうか。ここまで来たら大丈夫だろうという漠然とした思いで、私は立ち止まる。

 喉を潤すために唾液を飲もうとするが、あまりにも喉が渇いていたせいか、唾液が引っかかる感じがする。


 ふと、私は背後を振り返った。ここに来た時と変わらず、ビルが赤いライトをゆっくりと明滅させて、夜の闇に聳え立っている。その黒い姿は、まるで私を遠くから監視しているように見えた。

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