第5章 前編
ただ一人、通勤電車から朝焼けを眺める。
昨日までの凍りついた曇り空は消え失せて、今日は晴れ渡った冬空が広がっている。こんなに晴れたのは久しぶりだった。はるか上空に思いを巡らせながら、ぼんやり考え事をしていると、羊雲が薄くたなびいているのが目に入った。悠然と並んでいる羊雲たちは地上の出来事など興味なさそうに、知らん顔をして浮かんでいるようだった。
通い慣れた大通りを進み、ビル一階のロビーに入る。まだ早い時間帯なので出勤している人が少ない。私は歩みを止めずに、エレベーターホールに向かう。まだエレベーターを利用する人が少なかったので、悠々と乗ることができた。
私は階数表示板を何気なく眺める。ここ数か月、エレベーターに乗ると、たまに思い出すことがある。
「地下なんて、ないよな」
独り言を切り取られた空間の中で呟く。
千里さんらしき人物を深夜の会社で見かけた翌日に、私は警備員室からビル奥側のエレベーターホールを再び歩いてみた。通路には窓がなかったが、蛍光灯が眩しく光を放ち、リノリウム製の廊下に禍々しさは感じなかった。
交差路を左に曲がって進んでいくと、左右の分岐した場所に出る。左側の通路を進むとボイラー室があり、右側の通路を進むと荷物の搬出入用エレベーターが一機だけあった。
近くに行って搬出入用エレベーターをよく見ても、地下に向かうボタンや「B1、B2」など地階を表す表示板はなく、警備員が操作していたボタンも見当たらなかった。確かにあの晩、警備員は蓋を開閉してボタンを押し、エレベーターを操作していた。そのボタンを隠す蓋までもが完全に消えており、どこにも見当たらなかった。
千里さんとはその後に何回か会う機会があったが、結局は何も聞けていないままだ。すでに聞くタイミングは逃してしまったと、私は思っている。
いろいろと考えながら歩いていると、すでに経理部の自分のデスクまで到着していた。無意識のうちにエレベーターから降り、ここまで歩いてこれたのは、単純に慣れによるものなのか、考え事をしているときに為せる
「おはよう」
横のデスクから声がかかる。
「おはようございます」
思わず姿勢を正して、挨拶してきた女性に一礼する。彼女は軽く頷いて、自分のデスクに座る。
彼女の名前は
「木原君、今日提出をお願いした資料はできている?」
「はい、一応やってみましたが……」
立ったまま加賀美さんの質問に返答する。
「見せてちょうだい」
加賀美さんはすでにパソコンを起動しており、早くも仕事体勢万全のようだ。私がファイルを保存している共有フォルダを教えると、流れるような手つきでマウスを操作してファイルにたどり着き、軽やかな手さばきでパスワードを打ち込む。
昨日徹夜で作り上げた資料が、加賀美さんの液晶モニターに映し出される。
加賀美さんの真剣な表情を見ていると、ちゃんとできているか心配になってきた。
「OK、できているわ」
加賀美さんの言葉に安堵する。
「それじゃあ、今度はこれをお願いするわ」
そう言いながら、加賀美さんは別のフォルダを展開して、その中のファイルをカーソルで示す。
「今度も似たようなものだから、業務マニュアルを見ながら続きを作成してみて」
「はい、分かりました」
「それと、木原君はパソコン関連に詳しそうだから、経理部のシステム担当も兼任してもらうわね」
パソコンに詳しい素振りは見せないようにしていたが、加賀美さんには見抜かれていたようだ。彼女の洞察力はさすがだと思う。
「は、はい。分かりました」
私の返事に対して、加賀美さんは頷き自分の業務を再開する。私もパソコンを起動させて、今日一日の業務に没頭していく。
「やっと終わった……」
軽く伸びをして壁掛け時計に視線を向けると、いつの間にか昼休みの時間になっていた。時計を見て思い出したかのように、お腹が鳴る。私は肩を揉みほぐしながら、ふらふらと食堂に向かった。
食堂は相変わらず賑わっていた。会社のほとんどの人が利用するため、昼になると席の奪い合いになる。
ふと、定食コーナーの自販機が目に入る。私は無難なところで、カツ丼にすることにした。食券を買うため列に並んで、自販機のボタンを押す。券を渡してカツ丼を受け取り、トレイに乗せて席を探していく。とりあえず窓際に座ることにして、テーブルの左端に陣取る。
黙々と箸を動かして、食事を平らげていく。ふと富樫や青井さん、上川さんのことを思い出す。みんな元気にしているのだろうか。きっと、それぞれ新しい場所で齷齪と働いているのだろう。少し昔を思い出して感傷チックになっているのは、私だけかもしれない。
食べ終えて時計を見ると、まだ昼休み開始から15分しか経っていなかった。何もすることがなく、冬の寒空をぼんやりと眺める。すると突然、向かいの席から声がかかった。
「この席お使いしてよろしいでしょうか」
誰かと食べる約束なんてしていない。使ってもらって全く問題なかった。
「あ、どうぞ」
返答したが、その後の言葉に詰まってしまう。
「こんにちは、木原君」
「千里さんじゃないか」
目の前には、やさしく微笑んだ千里さんが立っていた。
「もうご飯食べ終えたのですか」
千里さんは目をぱちぱちとさせて、意外そうな声を出す。
「いや、まだこれが残っているよ。これのおかげでまだここに座っていられる」
私はそう言って、食べるつもりのなかった漬物を指差した。それを見た千里さんはくすりと笑う。
「お漬物があれば、この席にいる権利はありますね」
「とても弱い権利だけどね。退いてくださいと言われたら真っ先に退かないといけない」
「じゃあ、これも木原君に貸してあげます」
そう言って、千里さんはサラダを私のほうに差し出してきた。
「サラダなら漬物より効果がありますよ。でもあとで返してくださいね」
「もちろん、カツ丼でお腹いっぱいだしね」
私は千里さんからサラダを受け取る。そして、何気ない会話を彼女と交わしていく。
そういえば、千里さんと二人っきりで話すのは久しぶりだ。それに気づき、変に緊張してしまう。
次の言葉や別の話題が見つからず考え込んでいると、千里さんが私の表情に気づき、話しかけてくる。
「木原君、難しい顔つきになっていますよ」
「ああ、ごめん。実は昔から口下手で、つい考え込んでしまう癖があるんだ」
「ふふっ、確かにそうですね」
「あれ、もしかして気づかれてた?」
はい、と肯定の言葉を返す千里さん。自分で無意識にやっていることは、他人からすると簡単に気づくのかもしれない。
「富樫や青井さんがいるときは、会話にスペースなんてできなかったから、考え込む暇なんてなかったけどね」
「5人でいると、いつも話題には事欠かなかったですからね」
「ちょっとは思いに耽る時間も欲しかったよ」
「でも、富樫さんや青井ちゃん、愛ちゃんも元気にしているでしょうか」
「きっと元気にしていると思うよ。富樫は支店で煙たがれていないかな。あいつはいつも批判の姿勢で会話するから」
「青井ちゃんは九州で元気にやっているそうですよ。この前、メッセージアプリでいろいろお話しました」
「でも、メッセージアプリって便利だよね。すぐに連絡が取れるし、話したいときにいつでも話せるからね」
「そうですね。それにメッセージアプリって性格がよく出ると思います。文章の書き方とか、返信するまでの時間とか」
私は彼女にどのように見られているのか、少し気になる。
「愛ちゃんはちょっと変わっていて、返信するまでとても時間がかかるんです。それに句読点や読点、顔文字を使わないから、文章が変に続いてるんですよ。読むのに、ちょっぴり解読の作業をしないといけないんです」
暗号という単語が頭に浮かぶ。彼女は千里さんを試しているのだろうか。
「なんだか、みんなの話をしていると懐かしいですね」
次に5人全員でそろうことは、なかなか難しいのかもしれない。つい数か月前なのに、5人で笑い合っていたのが、遠くに感じる。そんなことを考えていると、再び会話が続かなくなった。
「木原君、そんな寂しそうな顔しないで下さい」
「千里さんだってちょっと寂しそうだよ」
私の言葉に、少し驚いた顔つきになる千里さん。そして、会話が途絶える。
「提案があるのですが、いいですか?」
千里さんが先に、話しかけてくる。
私は彼女が何を言うのか分からず、言葉の続きを待つ。
「今度の土曜日、一緒に遊びに行きましょうか」
一瞬、千里さんが何を言ったのか分からなかった。
「私、思ったんです。昔のことでいつまでも、うじうじしていてはお互いによくありません。ここは気晴らしにどこかに行って、
この本店に残ったもの同士、楽しくやっていきましょうと言って、うんうんと頷く千里さん。
「というわけで、どこか行きたい場所はありますか?」
展開があまりにも急すぎて、話についていけない。
「木原君、どうしましたか?」
千里さんがきょとんとした顔で、こちらを覗き込んできている。
「えっと、その……」
これって、デートだよな……。どんなことを言えばいいのか全く分からず、もごもごと口ごもる。
私が切羽詰った状態になっていると、千里さんがはっとした顔つきになった。
「あっ、大変。一時を過ぎちゃってます。私、午後から外回りなんです。もっとゆっくりお話したかったのに、ごめんなさい。詳しいことは後で連絡しますね」
「うん、分かった」
「それでは、ね」
そう言い残して、千里さんは食堂から去っていく。
「まずい」
私も急いで経理部に戻らなくてはいけない。遅刻は厳禁だ。そう思って立とうとした瞬間、千里さんの忘れ物が目に入ってきた。
トレイに乗せられた、色鮮やかなサラダだ。
残すか食べるかの二択。どちらにしようか迷った挙句、食べるという選択肢に決める。流し込むように、口にサラダを掻きこみ入れるが、思ったより量が多い。なんとかサラダを口の中いっぱいに詰め込み、席から立ち上がる。
しかし、少し歩いたところで、無理やり入れたレタスが口から飛び出す。手はトレイを持っているため口元に持っていくことができない。その姿に食堂にいる数名が失笑する。
千里さんからのデートのお誘いに、正常な判断が下せなくなっているようだ。サラダなんて残しておけばよかったと、後悔の念が頭をよぎる。人々の好奇の視線に耐えながら、私は食器の返却口に走っていった。
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