第3章 後編
「あ~、やっと寝られるな」
缶ビールを脇に置き、富樫が木目のフローリングに寝転ぶ。
「ああ、運転お疲れさん」
私も富樫と同じく寝転ぶ。
今日は
「ああ、このまま寝たい」
富樫が寝転んだまま、器用にビールを飲み干していく。
ふと外から、花火の爆ぜる音と騒がしい声が聞こえ始めた。その喧騒を、私たちは寝転んだまま聞き入る。
「よし、明日も早いから、布団を敷かないといけないな」
富樫が掛け声を上げ、押入れから布団を取り出すために体を起こす。私も同じく重たい体を起こして布団を
二人で布団を敷いていると、急に富樫の携帯が鳴り始めた。
「嫁からのメッセージだ」
富樫は布団の用意を中断して、メッセージを打つことに真剣になっている。すでに自分の寝床が完成した私は、しかたなく富樫の布団を敷く。
「すまないな」
「これぐらいやっとくよ」
感謝の意で、富樫が手を上げる。そして、再び携帯電話の画面に視線を落とした。
「よし、送信完了。後は布団に入って寝るだけだ」
「今朝のように寝坊はなしだからな」
今日の出発は富樫が寝坊したせいで1時間ほど遅れていた。
「分かっているって」
本当に分かっているのかどうか、彼はにやついた表情で、ごそごそと布団に潜り込んだ。私も布団の上に寝転び、薄い掛布団をかける。
「奥さんから何だって?」
「いや、たいしたことじゃない。ただ、元気でいるかどうか聞いてきただけだ」
「いい人と結婚したな……」
私は天井を見上げて呟く。
「女性が3人もいるのに、快く親睦旅行に送り出してくれたからな。親睦を深めるためなら、どうぞいってらっしゃい、俺を信頼しているってさ。木原、いい嫁さんで羨ましいかぁ」
「そうだな。少し羨ましい、かな……」
「今日は素直だな」
富樫が仰向けになる。布団の擦れた音がする。
「いつも素直だよ」
私たちは同じような格好で、天井を見上げる。
いきなり富樫が携帯電話を私に突きつけてきた。どうしたのか不思議に思い、携帯電話を受け取る。その液晶に、女性の写真が写っていた。
「これが、富樫の奥さん?」
富樫は無言で頷き、
液晶の画面には大人しそうな女性が写っていた。清楚な笑みを浮かべ、全体から優しい雰囲気が
「かわいい奥さんだな。羨ましいよ」
富樫は照れ隠しのためか、笑ったまま大きな欠伸をして「眠い」と呟く。
「うーん、俺はもう動けん。木原、スイッチを頼む」
「わかったよ、旦那さま」
富樫が「その言い方はよせよ」と笑いながら口を挟んでくる。私は布団から出て、照明のスイッチを消す。部屋が暗くなったのを確認して、再び布団に潜り込む。心地よい酔いが全身を支配していき、私はゆっくりと眠りに落ちた。
青と緑の景色が面前に美しく映えている。夢の中だと認識できない私は、自分がどこにいるか分からず、焦りを覚える。青は晴れ渡る空で、緑は
私の目の前を、クリーム色のワンピースを着た女性が通り過ぎていく。
千里さんだ。彼女は裸足で草原を優雅に歩いている。
私は彼女に声をかける。
「ここだよ」
千里さんはどこから声がしたのか分からず、不思議そうに辺りを見渡す。
「あら、あなたでしたのね」
私は存在するすべての美辞を彼女に贈る。
「まあ、嬉しい」
彼女は頬を染め、言葉を受け取る。彼女の清らかな声が、私を抱擁するようだ。
「私は完璧でしょうか」
もちろんと、私は偽りなく自分の気持ちを伝える。
「そうですよね。だって、私はあなたの創造した理想の女神ですもの」
彼女の唐突な言葉が、
「私はあなたが望むべくして創造された存在。あなたが理想とする女性像を
困惑した私は彼女に語りかける。あなたはあなたではないか。どうして私があなたの有様を決められようか。私はあなた自身に魅せられたのだ。あなた自身に惹かれたのだ。あなた自身に惚れたのだ。
「いいえ、私の定義はあなたが成すのです。あなたの理想が私。私はあなたの理想」
あなたはあなただ。何故、基本的なことが理解できないのか。
「私はこの世界からはみ出した特別な者です。私は
そう言って彼女は立ち上がり、両腕を大きく羽ばたかせるように伸ばした。
「ごらんなさい、あなたの周りの者たちを」
微かな声が聞こえる。だが、その声は徐々に大きさを増していく。
「そう、私はあなただけの理想の女神ではない。誰にでも理想を合わせることができるのです」
すべての草が存在するすべての美辞を彼女に贈る。
彼女はその言葉を赤い糸に見立て、指を廻してゆっくりと絡め取っていく。その姿は酷く幻惑的で
「あなたは、私を
やっと理解した。私は
私はただ一本の草にすぎないのだ。
暑くて目が覚めると、扇風機が止まっていた。辺りに響くのは、富樫の規則正しい寝息と、鳴り止むことを知らない虫の声だけだ。
富樫を起こさないように布団から這いずるように出て、おぼつかない足元に気を付けながら冷蔵庫に近づいていく。確かお茶やジュースが何本か残っていたはずだ。
冷蔵庫を開き、お茶を取り出す。気持ちのよい潤いが喉をとおり、全身へと染み渡っていく。
室内は薄闇の中に沈んでいる。布団と蚊取り線香、ビール缶やペットボトルがおぼろげに分かる程度だ。
ふと、カーテンが全く動かないことに、違和感を覚えた。網戸にして寝たつもりが、窓を閉め切ったままで寝てしまったのだろうか。富樫の安眠を妨げないように扇風機を回して、窓を網戸にする。これで暑さも多少は
「木原君……? 富樫さん……?」
突然、静寂の中からの声。驚きつつ視線を窓に向ける。網戸越しに、女性と思しき人影が立っており、こちらに近づいてきている。
月明かりに照らされ、姿が段々とはっきりとしてくる。
「千里さん……?」
お互い探るように声を掛け合う。
「その声は木原君ですね」
淡い月明かりに照らされた千里さんが目に映る。私は網戸を開けて、外に出た。
「こんな夜中にどうしたんですか?」
「こんな夜中にどうしたの?」
二人の声が同時に発せられる。
千里さんがきょとんとした顔を見せる。きっと私の顔も同じようになっているだろう。
千里さんの表情が笑顔に変わっていく。
「木原君から、どうぞ」
「いやいや、千里さんからどうぞどうぞ」
お互いに会話を譲り合う。「それでは、私から言いますね」と、千里さんが根負けして話し始める。
「私は寝ている途中で起きてしまったので、涼みに散歩をしていました。寝つきはよいほうなのに、不慣れな土地のせいでしょうか。こんな時間に目が覚めちゃって」
「僕は暑さで目が覚めてしまって。窓が閉まっていたから開けたんだけど、そのとき千里さんが声をかけてくれたんだ」
「そうだったんですか。窓を開けていなかったら、暑くて寝られませんよね」
うんうん、と千里さんは頷く。
「でも、外はとても涼しい……」
そして、彼女は視線を私から、夜空へと向けた。
私も千里さんと同じように、薄雲たなびく夜空を見上げる。そこには薄く削ぎ取られた未完成の満月があった。周りの星たちを自身の光で消し去り、
「月、綺麗ですね……」
「うん、綺麗だね……」
こんなに夜空を見上げるのも久しぶりだった。
セカイヲタダセ セカイヲタダセ セカイヲタダセ
「うっ……」
突然、千里さんが苦しそうな声を上げた。驚いて、彼女のほうを向く。
「どうしたの?」
私は覗き込むようにして、千里さんに問いかける。彼女はこめかみに手を当てて、顔をしかめている。
「千里さん、大丈夫!?」
片目を閉じて、口をきつく結んでいる千里さん。あまりにも苦しそうで、崩れ落ちそうなその姿に、私は思わず駆け寄ろうとする。
「あっ、大丈夫です」
千里さんが言葉で私を制す。
「時々、頭痛が起こるんです。こんなときに起こるなんて困ったものですね」
千里さんは指の先で、耳近くの生え際をとんとんと叩く。苦しいはずなのに、笑みを浮かべる千里さん。どんな言葉をかけていいか分からず、私はそのまま立ち尽くす。
しばらく経って、彼女は私が黙っていることに違和感を覚えたのか、話しかけてきた。
「木原君、そんな顔をしないで下さい。立ちくらみのようなものですから、すぐに治りますよ」
千里さんはそう言って、指で耳近くの生え際を
「はい、もう治りましたよ。簡単なものでしょ?」
彼女は軽く微笑んだあと、表情を少し曇らせた。
「心配をおかけして、ごめんなさいね。私の頭痛って急に起こるものですから……」
「本当に大丈夫?」
「はい、ちゃんと治りましたよ。本人が言うのだから間違いありません」
確かに、私に確認はできないが……。
「やっぱり夜更かしはいけませんね」
「うん……」
月から降る光が、音を吸収する。静寂が二人を包んだ。
「さて、明日も早いことですし、もう寝ましょうか」
「そうだね……」
「それでは、あちらのコテージに行きますね」
「うん、分かった……」
「おやすみなさい」
「おやすみ……」
ただ言葉を交わす。
「それじゃあ、ね……」
千里さんが背を向けて歩みかけたその時、私は思わず声をかける。
「千里さん」
唐突な声に驚いたように、彼女は振り向く。
「あの、気をつけてね。辛かったら無理をしないで」
「分かりました。ありがとう……」
彼女は微笑み、目が優しく細められる。
再び「おやすみ」の挨拶を交わして、千里さんはコテージへ去っていく。夜の闇に彼女が消え入るまで、私はその姿を見つめていた。
向こうのコテージからドアの閉じられた音が、虫の音に混じって聞こえる。それを確認して、私もコテージへ戻る。
「………………」
体は微妙な熱を保ったまま、寝付くことをためらっていた。頭の中は熱に浮かされたように、同じことばかりを考えている。
何故か、千里さんの痛々しい笑みが頭から離れない。あんな時まで笑わなくてもいいのに。しばらく寝付くことができずに、私はそのまま横になっていた。
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