第3章 前編
夏の暑い日差しが車の中に次々に入ってくる。私たちの乗っている車は快調にスピードを出し、山間の道路を走っていた。
車の中は快適な温度に保たれ、みんなくつろいでいる。私は助手席から、空の青さと大地の緑に満たされた風景を眺めていた。
突然、青井さんが笑い声を上げる。どうやら、千里さんが面白いことを言ったらしい。
「その時、千里ちゃんは何て言われたん?」
「そうですね、教官に『おまえの教習をするときは、緊急ブレーキが2個必要だ!』と言われました。でも、私も死ぬかと思ったんですよ。そのことを教官に素直に言ったら、3歳の娘がいることを言われました」
それを聞いた富樫が、運転席から声をかける。
「それじゃあ、千里の運転は無しだな。この車はなぁ、なんとあと60回もローンが残っているのだよ」
「もう大丈夫ですよ。結構練習して上手くなってきましたから」
「上手くなってきました、じゃあいけない。上手くなりましたじゃないと」
富樫が千里さんの言葉尻を捕まえる。千里さんの面白い話を聞いて、よっぽど運転をさせたくないのだろう。
「うーん、だめですかぁ。富樫さんの車、運転したかったなぁ」
千里さんが残念そうに、しゅんとした声を出す。
「今までどんな車を運転してきたんですか」
千里さんに質問してみる。
「実家にある小さい軽自動車です。他に運転した車も似たようなものですね」
「軽しか運転していないのなら、なおさら駄目だよ千里君。この車は軽とは車幅感覚など違う点がありすぎる」
富樫が諭すような口調で、千里さんを納得させる。
「分かりました。もう少し練習してから運転させていただきますね」
千里さんはまだ運転することを諦めていない。意外にも運転することが好きなようだ。
「万が一事故を起こしてしまったら嫌だからな。千里に辛い思いはさせたくないよ」
「優しい心遣いですね。ありがとう、富樫さん」
千里さんに感謝された富樫が、少し
そんな会話を聞いていると、ふと思い出したことがあった。確か富樫は出発前に一人で運転するのは疲れるから、おまえも運転しろといったはずだ。私の運転技能は認めてくれているのだろうか。
「富樫、僕は運転して良いのか? 大事な車なんだろう?」
すると、富樫はにやついた笑みを浮かべた。
「自賠責保険にしか入っていない。おまえが事故をしたときはしっかり貢いでもらうぞ」
富樫はこの車がいくらしたかをぼそっと呟く。安全運転という言葉が、頭から離れなくなる。
「あの僕、運転したくないんですけど……」
今、私たちは四国の山間道を走っており、香川県を抜けて徳島県の
この旅行は、ふとしたことがきっかけで行くことになった。食堂でいつものように会話をしていると、四国八十八箇所のお寺を巡るお遍路さんに、芸能人が挑戦するというバラエティ番組を誰かが見たことで、話が盛り上がった。そこから誰も四国に行ったことがないという話になり、富樫と青井さんが行ってみたいと言い始めた。夏休みに同期5人で旅行する計画はあったので、すんなりと四国のいろいろな観光スポットに行くことが決定した。
「そういえば、愛ちゃんがお菓子を持ってきてくれたんやんなぁ」
がさごそと荷物を探っている音が聞こえる。どうやら青井さんが最後尾のシートから、お菓子を取り出しているようだ。
「おっ、これってケーキちゃうの?」
私は後ろを振り向く。青井さんの手には、ケーキが入っていると思われる箱があった。
「愛ちゃん、これってケーキなん?」
青井さんが隣に座っている上川さんを覗き込む。上川さんは青井さんの顔を見て、こくんと
「はい……」
それを聞いた千里さんが興味あり気に、箱に視線を向ける。
「あの、どんなケーキが入っているか開けてみてもいいですか」
「はい、構いません……」
上川さんは青井さんから箱を受け取り、慎重に開封していく。
「開きました……」
千里さんと青井さんが顔を近づけるのと同時に歓声を上げる。
「でも、こんなにきれいなケーキ、高かったでしょう」
千里さんが上川さんに尋ねる。
「いいえ、買ったのではありません。自分で作りました……」
今度は女性二人から驚きの声が上がる。
「さっきから後ろ! 声が大きくて、大好きな曲が聞こえん」
富樫が前方を見据えたまま、後ろのはしゃぎっぷりを牽制する。
「そうやったんかぁ。嬉しいわぁ、愛ちゃん。」
「こんなに丁寧に作ってもらって本当にありがとう、愛ちゃん。大事に食べますね」
千里さんと青井さんが上川さんにお礼の言葉を述べる。
うつむき加減に、上川さんは照れ笑いを浮かべる。上川さんの笑みを見られるなんて貴重だ。やはり旅行というものは、日常とは違った一場面を見せてくれる。
「一個だけ、ここで食べてもかまへん?」
青井さんが食べたそうにうずうずしている。上川さんはこくんと頷き、箱を差し出した。
「どれにしようかなぁ」
青井さんは指でケーキを品定めして、箱の中に手を突っ込む。
「じゃーん、ミックスベリーや! このミックスベリーなら厚みがないから、ここでも食べやすいやろ。さてさて、お味のほうはどうやろなぁ」
そう言いながら、彼女はケーキにかぶりつく。
「う~ん、おいしい! 文句なしにおいしいわぁ!」
青井さんが普段よりも高い声で、味を絶賛する。
「千里ちゃんも食べてみいなぁ」
ケーキが千里さんに手渡される。千里さんはケーキをいろんな角度から眺めて、青井さんが食べたところから口にほおばる。
「うん、これはすごくおいしいです」
「やろ~。クリームの濃厚な甘みに、ベリーのさっぱりした酸味。言うことなしや」
「ええ、ベリーの酸味のおかげで甘すぎることもなく、とてもおいしいです。こんなケーキを作れるなんて、愛ちゃんは素晴らしいです」
上川さんは一見無表情に見えたが、目元が優しく微笑んでいた。
「おいおい、運転手に糖分の補給はしなくていいのかぁ。車はガソリンだけでは走りません」
富樫が女性二人の高評価を聞き、食べたそうにうずうずしている。
「僕も食べていいかな」
富樫と私の要求に、千里さんが私にケーキを渡してくれる。しかし、私は半分ほど欠けたケーキを手に取り
これ、千里さんが食べた後だよな……。そんな思いが頭に過ぎる。イチゴやブルーベリーの色が
だが、頭の中で素早く、その思いを振り切る。こんなことを考えるなんてどうかしている。みんな、そんなこと気にせずに食べ回しているのだろう。躊躇したことに恥ずかしさを感じて、急いでケーキを口の中にほおばる。
「う、うん、おいしいよ、上川さん」
上手い感想が言えず、もどかしさを感じる。やはり、食べる前に変なことを考えたからだろう。
ふと、富樫が食べることを待っていることに気づく。
「富樫、ケーキ食べるか?」
「え~、木原が食べた後に食べるのかぁ。千里の食べた後がよかったなぁ」
富樫は私にしか聞こえないほどの声で呟き、にやついた笑みを浮かべながらハンドルを握っている。
同じようなことを考えていた奴がいる安堵感と、何故か腹立たしさを覚える。私はケーキを富樫の顔にぶつけたくなる気持ちを抑え、口に持っていって黙らせた。
車が目的地の駐車場まで辿り着く。冷房の効いた車内を名残惜しみながら外に出てみると、セミのせわしない鳴き声が耳に入ってきた。
それにしても今年の夏は暑い。アスファルトに熱せられた空気が体にまとわり付く。空を見上げると、太陽が容赦なく熱波を降り注いでいる。
「う~ん、到着しましたねぇ」
車から千里さんがハンドバックを片手に降りてきた。暑い日差しの下、彼女は大きく伸びをする。
ふと、千里さんの服装に目が行く。青いボーダーが細かく描かれたキャミソールに、薄手の白いトップスを羽織っていた。淡い水色のスカートといい、涼やかな色合いが彼女を包んでいた。
「千里さん、長い間お疲れ様でした」
私は千里さんに声をかける。
「木原君こそ、助手席お疲れ様でした。それにしても空気が凄く澄んでいますね」
千里さんはそう言いながら、嬉しそうに山々を見渡していく。
「ああ、やっと車から降りれたわ」
うんざりとした表情で、青井さんが降りてくる。
彼女は夏用の赤いカーディガンと、ジーンズをはいていた。ただ、胸元が少しはだけており、目のやり場に困ってしまう。
「しかし、ここもあっついなぁ。日焼け止めが汗で役に立たんくなりそうやわ」
青井さんは手を
富樫と上川さんが車から降りてくる。
「あっちいなぁ。この暑さにはかなわん」
富樫は黒のTシャツにジーンズとシンプルな格好をしていた。ただ、Tシャツのプリントが「愛ラブ九州」なのには感性を疑ったが……。
上川さんは白のワンピースに小さな
私たちは崖の中に埋め込まれた階段を下りて、船着場に到着した。この辺りは川幅が広く、船の停泊地としては最適に見えた。川の流れも緩やかで、安心感を持って乗船する。
「おお! この船、下がガラス張りで川底が見られるぞ!」
最初に乗った富樫が大声を出す。
「本当やわ、底が丸見えやなぁ」
「今は浅い場所だけど、深い場所はどんなふうに見えるのかなぁ。楽しみですねぇ」
女性二人がはしゃいでいると、船頭さんがにこやかに話しかけてくる。
「お嬢ちゃんたち、悪いが他のお客さんも乗せないといけないから、詰めてくれないかい」
彼女たちが席を詰めると、家族連れが乗ってきた。定員は10名程度らしく、今乗船している人々でちょうど良いぐらいだった。
船頭さんが船着場にいる係員に合図を送り、縄が解かれる。オールと船外機を器用に使い分けながら、船頭さんは川の中央へ船を進めていく。
「え~、今日は
船頭さんに答えて、富樫が盛大な拍手を送る。しかし、周りの誰も拍手をしていない。富樫にみんなの視線が注がれる。子供までもが無表情で彼を見つめていた。
「そこのお兄ちゃん、ありがとうねぇ」
くぐもったマイクの音で、船頭さんが笑いながら挨拶を続ける。
「よかった、空回りしたかと……」
富樫が小さな声で、ぶつぶつ呟く。
「十分空回りしてるわ。富樫さん、あんた今日は大人しくしとき。きっと厄日やで」
青井さんがにやにや笑いながら、富樫に追い打ちをかける。
「では、この美景奇景をご覧になりながら、お話させていただきます。まずお話したいのは名前の由来です。
「なんやぁ、オオボケコボケって、大きいボケと小さいボケのことかと思ってたわ。なるほど、納得納得」
青井さんが感心して、首を振っている。
「まあ、うちらのとこにも、オオボケコボケがおるけどなぁ」
そう言って、青井さんは「オオボケ」と言って富樫を指す。次に「コボケ」と言って私を指した。
「オオボケ」は嫌だが「コボケ」もあんまりだ。青井さんに文句を言おうとしたら、彼女の隣にいる千里さんが、くすっと笑ったのが見えた。
「千里さん、こっそり笑うなんて
思わず、千里さんに不平を言う。
「うっ、ごめんなさい。笑うつもりなんてなかったんだけど……」
千里さんは笑いを
「千里ちゃんがうちのギャグでうけてるわぁ」
青井さんが満足そうに笑いながら頷く。私は大袈裟にため息をついて、船頭さんの話に耳を傾ける。
「この川は石鎚山を源流として、吉野川に流れて行きます。この川が徳島県民の喉を潤すのであります」
ガラス張りの舟の下を見る。かなり水の透明度が高いらしく、川底のほうまではっきりと分かる。山々の緑を受けて、水は淡い緑色を湛えていた。水の透明さに、私は思わず吸い込まれそうになる。
急にせせらぎの音が強くなってくる。前方を見ると、流れの強い瀬があった。
「さて、前に見えます急流、こんぴら瀬に入っていきます。船が揺れるので、お気をつけ下さい」
瀬に近づくにつれて船のスピードが速くなる。川幅が一気に狭くなって、緑の緩やかな流れが白く激しい流れに変わってきた。
「崖が
青井さんの言うとおり、川幅が狭くなることによって崖が船に迫ってきているようだ。自然が生み出した迫力ある景観に、私は圧倒される。
川幅が狭いだけでなく、川底も浅くなっているようで、一気に船は瀬を駆け下りる。
途端に、船が激しく揺れ始めた。
みんなが様々な
「こえ~よ、愛ちゃん。俺泳げないんだよぉ」
富樫が上川さんの両肩を
ゆっくりとした流れに添って、周りの景色が過ぎ去っていく。私はどこまで進むのかと思い、遠くに視線を向ける。
「やっぱり、水の上だと涼しいですね」
突然の声に、私は視線を横に向ける。いつの間にか千里さんが隣に来ていたようだ。彼女は薄手のトップスを脱ぎ、キャミソールだけになっている。夏の風を受けて、彼女の髪が軽やかになびく。
「うん、水の上だと暑さが
たっぷりと水気を含んだ風が、肌を
「あの、木原君」
話しにくそうに、千里さんが私を見つめてくる。
「あの、さっきは笑ってしまってごめんなさい」
一瞬、千里さんが何で謝ってきたのか分からなかったが、どうやら千里さんは「コボケ」で笑ったことを気にしているようだ。しゅんとした顔で千里さんは謝ってくる。
そんなことまで気を使わなくてもいいのに、彼女の繊細すぎる心遣いが嬉しくもあり、可笑しくもあった。
「そんな、千里さんは全く悪くないよ。逆に思わず、あんなことを言った僕のほうが悪い。それに青井さんのコボケは面白かったしね。笑うなって言うほうが難しいよ」
「ごめんなさい。私、本当に面白くて……」
千里さんが申し訳なさそうな顔で、感想を述べる。正直な人なのか、思ったことを隠せない人なのか……。
「面白いのは我慢できないよ。千里さんが笑ってくれると嬉しいし、僕も楽しくなる」
千里さんの素直さにつられたのか、思わず心のうちを話してしまう。彼女に変な気を持たせないだろうか、急に心配になる。
「私が笑うと嬉しい、ですか」
千里さんが見つめてくる。表情は透き通った水のように、瞳は時を忘却したように。私も吸い込まれるようにして、彼女を見つめ返す。
突然、千里さんが笑い始める。可笑しそうに笑う彼女に、どうしたんだろうと、私は呆気にとられる。
「木原君、なにを真剣に見つめてるんですか」
笑いながら、私に話しかけてくる千里さん。笑みに満ち溢れた表情が、景色と共にそよぐ。
そんな彼女の姿を見ていると、私まで可笑しくなってきた。理屈なんていらない、ただ楽しかった。
「そう言ってくれると、とても嬉しいです」
彼女の声は、風に途切れることなく耳に届く。
「ありがとう、木原君」
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