第2章 後編
歓迎会を兼ねた花見は部長の挨拶から始まった。乾杯した後は、次々と酒が飲み交わされ、新入社員や転入者のプライベートな話題で盛り上がった。
また、大学ではお酒をたしなむ程度には飲んでいたが、今回の花見では度を越えて飲まされた。隣に座った上司が、ざるだったようで、紙コップを空けるとしきりにお酌をしてくる。気づくと、頭は働かなくなり、意識が
「これから二次会の場所に移りたいと思います。残念ながら、参加できない人はこのまま帰ってください。俺たちはカラオケに行きます」
幹事が酔っぱらっていて分かりにくかったが、会話の流れからして、二次会はカラオケなのだろう。明日は休みということを踏まえて、しばらくの間、参加するかどうか考える。
「お~い、木原!」
振り向くと、へべれけになった青井さんが立っていた。
「あんた、カラオケ行くよねぇ?」
「うーん、どうしようか迷っている」
正直に告げると、青井さんが私を
「あのねぇ、新入社員の私らが行かんでどうすんのよ。ここで断ったら大先輩のみなさまに悪いやろ? はい、そうと決まれば行った行った!」
青井さんに手で軽くあしらわれ、カラオケに行くように急かされる。
「それじゃあ、行くことにするよ」
参加しない理由が特に思い浮かばず、私は青井さんの言葉に従うことにした。
「よし、そんなら下履き履いて、はよ行こ行こ」
青井さんに背中を押されながら、遠くにあった靴をつま先で引っ掛ける。
突然、青井さんが悲鳴を上げる。振り返ると、彼女はブルーシートに尻もちをついて倒れていた。
「大丈夫ですか!?」
青井さんに手を差し伸べて、引き起こす。
「大丈夫か!?」
シートを片付けていた先輩たちも駆け寄ってくる。
「いたたっ、下履き履こうとしたら転んでしもうただけです。すんません」
照れ笑いを浮かべて、青井さんは靴を履く。しかし、彼女はまた転びそうになる。何とかバランスを崩さずに、踏み留まる青井さん。
「木原君、このままじゃあ彼女が危ないから、肩を貸してあげて」
駆け寄ってきた女性の先輩が、私に指示を出す。
「君たちの荷物は持っていってあげるから。カラオケの場所は分かるよね?」
「ええ。二次会の案内で聞いた気がします」
「ここから電車で二駅やし、改札を出てすぐにある商店街を歩いていくと、すぐに見つかるから」
「分かりました」
私は青井さんの腕を肩に回して、駅に急いだ。
「悪いなぁ、木原ちゃん」
ちっとも悪びれた様子もなく、笑みを浮かべる青井さん。
「電車に乗ったらとりあえず座れるので、急ぎましょう」
「あぁ、大学に入った時もこんな感じやったわ。うち、酔っ払いすぎてなぁ。先輩に肩を貸してもらって家に帰ったっけ」
その情景を思い出したのか、嬉しそうな顔をする青井さん。夜風が彼女の短い髪をなびかせる。
「木原は大学の時は何をしてたん? ギターばっかり弾いてたわけではないやろ?」
「特に何もしてないよ。授業受けて、家に帰って、ご飯を食べて寝る。この繰り返し」
「クラブとか、サークルには入ってなかったん?」
「青井さんはサークルに何か入ってたの?」
私は質問に質問で返した。
「うちはバレーやってたわ。中学、高校時代からずっと続けてたしねぇ」
「青井さん、身長が高いから、そんな感じだ」
「ううん、うちなんかまだ低いほうよ。大学にはうちより高くて、うまい人ぎょうさんおったんやから……」
そこで青井さんは話すのを止める。
線路沿いを歩いていたので、急に来た電車の音が耳を
そして電車が去っていき、静寂が訪れた。
ふと、青井さんの長い指に視線が止まる。指は歩くリズムに同調して、ゆっくりと揺れる。
民家から漏れる光の明るさと、夜の暗さ。その明暗が、青井さんの指に複雑な陰影を作り出していく。
私は青井さんの温もりを横に感じながら、手首を握りなおし、進む方向に視線を戻す。静寂が夜の街に満ちていた。
「青井さん……?」
しばらく進んで、青井さんが静かなことに不安を覚えて、彼女の顔を覗く。青井さんは真剣な顔つきで、前方を見据えている。
「どうしたんですか、青井さん」
私の質問に彼女は真剣な顔つきを崩さす、前を見たまま答えた。
「木原ぁ……」
「はい、なんでしょう」
「吐きそう……」
青井さんを引きずり、なんとかカラオケ店にたどり着く。唸り声を上げる青井さんに気をつけながらゆっくりと進んだため、ここまで来るのにかなり時間を割かれてしまった。
「いらっしゃいませ」
にこやかに店員が話しかけてくる。
「あの、同じ会社の者がいるのですが、上がってもよろしいでしょうか」
どうぞと、入店を快く許されて、青井さんを引きずりながらエレベーターに乗り込む。
「うーん、トイレまだぁ」
到着のチャイムと共に、エレベーターのドアが開かれる。私は青井さんに注意しながら、エレベーターから降りる。
「一緒にトイレに行きましょうか?」
私の問いに、青井さんは俯いたまま首を横に振る。
「こっからは一人で行けるわぁ」
私の手を振り解き、よろよろとトイレに向かっていく青井さん。
「あっ、部屋は1号室から5号室にいるそうなので……」
青井さんはふらふらと背中を動かしながら、振り返ることなく手を上げる。彼女は本当に大丈夫なのだろうか。青井さんが角を曲がって見えなくなるまで、私は彼女のよろめく姿を目で追った。
青井さんを見届けた後、とりあえず私は5号室に入った。私が入った瞬間、大きな歓声が巻き起こる。
「待ってました! 新入社員、木原君!」
肩を大げさに叩かれ、入るように促される。5人ほどいるのだろうか、全員アルコールが入っているので、テンションが異常に高い。
「ここ! ここに座りなよ!」
酔っぱらった女性の先輩が、自分の隣を指し示す。特に座る場所のなかった私は、その場所に身を落ち着かせた。
「あれ? 木原君、帰ったんじゃなかったんですか?」
いきなりの声に、私はびっくりする。
まさかと思いながら、声がした方に振り返ると、千里さんが私のすぐ側に立っていた。部屋が暗くて分からなかったが、千里さんもこの部屋にいたらしい。彼女は不思議そうに顔をきょとんとさせている。
「いや、青井さんが酔っ払っていてね。一緒に歩いていたら、ここに来るのが遅くなってしまったんだ」
「そうだったんですか。電車に乗ってなかったので、てっきり帰ったのかと思っていました」
千里さんは話しながら、私の隣に座ってくる。千里さんの肩が私の腕に触れる。
こんなに近くで、千里さんと一緒に座るのは初めてだった。こうやって隣り合うと、千里さんが少し小さく感じる。女の子なんだな、ということを変に意識してしまう。
「さあさあ、木原が来たから曲の入れなおしだ。じゃんけんで決めるぞ」
さっきまで歌っていた先輩が、この場を仕切る。先輩の合図で、みんな一斉にじゃんけんをする。
その結果、千里さんが最初に歌うことになった。千里さんは考え込みながら、タッチパネルを操作する。
「えっと、どれにしようかなぁ」
千里さんがタッチパネルの操作を終えると、曲名がモニターに映し出される。それを確認して、彼女ははお立ち台に向かっていく。メロディと、大きな拍手が聞こえ始める。
「千里ちゃ~ん! こっち向いて~!」
「課長も愛してぇ!」
先輩たちが口々に騒ぎ出す。そのオーバーな騒ぎっぷりに、彼女は照れ笑いを浮かべる。
モニターに歌詞が映る。そして、千里さんが歌い始める。
一瞬、体が宙に浮いた感覚がする。
理屈ではない、綺麗で軽やかな千里さんの声。カラオケの方が彼女の声に合わせているようだ。
千里さんの声によってメロディが息づき、心地よさが辺りに広がっていく。私の体は自然とテンポに合わせて動いていた。
開放感のあるメロディが、彼女の声で色付く。躍動感のあるリズムが、彼女の声で弾む。
彼女の姿を見つめながら、私は思う。いつでも、そんなふうに楽しそうにしていてほしい。いつでも、そんなふうに嬉しそうにしていてほしい。そんな姿が千里さんに似合うよ……。
ふと、千里さんと目線が合う。彼女は少し恥ずかしそうに笑みを浮かべる。
いつまでも、その瞳に私を映し続けてくれたらと、私はこっそり願った。
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