第2章 中編

 午後のパソコン研修と業務を終える。

 今日は新入社員と転入者の歓迎会を兼ねた花見が企画されていた。誰かと一緒に行ってもよかったのだが、少しだけ一人の時間がほしくて、会社近くの個人経営と思われる喫茶店で時間をつぶすことにした。


「ほな、ありがとさん」


「いいえ、こちらこそどうも」


 隣に座っていたサラリーマンが挨拶を交わし、いそいそと背広を羽織はおって出ていく。


 ふと、隣の席に残されたカップやお皿に目が向く。その中に、私は銀色に輝くものを見つけた。

 水が入ったグラスの横に置かれた銀色に輝くもの。それは、薬の錠剤が入っていたアルミのシートだった。私は既視感きしかんに襲われる。

 それと同じものを今日、私は千里さんのゴミ箱の中で見ていた。



 それを見たのは、偶然だった。

 昼休みが終わり、私は富樫たちと話しながら部署に戻ってきた。


 千里さんが隣のデスクで声を上げて、背伸びをする。


「さあて、午後からもパソコン頑張るかぁ」


 体が伸ばされたことにより、胸のシルエットが強調されて、くっきりと分かる。それに気づき、私は思わず視線を逸らす。


「木原君も午後からはパソコン教習でしたよね」


 逸らした目線を彼女に向ける。


「え、あ、うん、そうだよ。午後からはパソコン教習だね」


 生返事しかできない。どぎまぎした心を落ち着かせる。


「教室が二つに分かれていましたよね。木原君はどちらの教室ですか」


 パソコン教習は二つのクラスに分かれていた。きっと、教える内容や進度が違うのだろう。


「えっと、僕はBクラスだね。千里さんはどっちなの?」


「私はAクラスですね。木原君はBクラスか。木原君が一緒でなくて残念です。隣でいろいろと教えてもらおうと思ってたのに……」


「いやいや、教えるなんて無理だよ」


「でも、私が分からない事は基礎の基礎なんです。表計算ソフトの数式とかデータベースソフトの基本的な使い方とか。隣から木原君の指示を仰げたらいいなと思ったんですけど。それに、Bクラス担当の方、少し無愛想ですし……」


「それぐらいなら大丈夫かな。機会があれば教えるよ」


「是非よろしくお願いします。あっ、もうこんな時間ですね。急がないと」


 千里さんのデスクに置かれたマスコット時計が午後1時を告げている。


「それでは、また後で」


 千里さんが部署から出て行った後、自然と彼女のデスクに目が向く。書類や本、パソコンの合間にかわいらしい小物が置かれている。千里さんのいる雰囲気が、彼女が去った後も残っている感じがした。


 私もパソコン研修に急がないといけない。後ろから席が埋まっていくので、教室に入る時間が遅いと前の席で講義を受けることになる。前の方では受けたくないと思いながら、必要な書類を探していく。


 クリアファイルに書類をまとめていると、床に数枚を落としてしまった。頭をかいて、書類を拾うために腰を落とす。


 書類を拾い終えて、立ち上がろうとしたときだった。ふと、千里さんのゴミ箱に視線が向く。

 クリーム色をしたゴミ箱、その中に銀色に光る何かがあった。不思議に思い、ゴミ箱を覗き込む。そこに、薬の錠剤が入っていたと思われる穴の開いたアルミシートが捨てられていた。


 千里さん、薬を飲んでいるんだ……。


 この現代社会、薬を飲むなんて何もおかしなことはない。逆に、薬を全く飲まずに生きているほうがまれだといえる。


 しかし、何故か、私は違和感を覚える。


 薬なんて、みんな飲んでいるではないかと自身に言い聞かす。千里さんが薬を飲むことなんて少しも変じゃない。でも、何故だろうか。千里さんが薬を飲むことに違和感を抱いてしまう。千里さんが健康そうなだけに、薬というイメージがそぐわないからなのか。


 そうだ、私は自分勝手なイメージを彼女に投影しているだけだ。千里さんだって、体の調子が悪ければ薬ぐらい飲む。ちっともおかしなことではない。

そのように自分に言い聞かせ、その場から立ち去ろうとした。


 セカイヲタダセ セカイヲタダセ


 しかし、今度は薬のシート自体に違和感を覚える。


 どこにでもある錠剤が入っているシート……。何故、そんなものに目を引かれるのか。少し罪悪感を抱きながら、千里さんのゴミ箱から薬のシートを取り出す。

 てのひらにシートを置く。何の変哲もないアルミのシートだ。錠剤の大きさは、シートに開いた穴を見る限り大きくない。


 しかし、これは何の薬だろうかと考えたとき、あることに気付いた。


 私はシートに何も書かれていないことに気付く。どのような薬であるか表記されているはずなのに、そのシートには薬の名前らしき文字や数字などが、どこにも記載されていなかった。念のために反対側も見たが、そこにも文字や数字はなかった。


 薬の法律など全く分からない。だが、誤飲などの危険性があるため、どのような薬であるかは表記しているはずだ。


「木原、おまえパソコン教習じゃないのか」


 突然、課長が話しかけてくる。思わず、私は薬のシートをポケットに入れる。


「あっ、はい。前回の教習で提出するように言われていた書類が見当たらなくて」


 適当にその場を取り繕う。


「見当たらないだと。何の書類だ」


 課長が怪訝けげんな顔つきで近づいてくる。


「あっ、でも見つかりました。すみません、すぐに行きます」


 私は課長の返答を待たずに、出入り口に急いだ。





「ありがとうございました」


 ウェイトレスにコーヒー代を払い、店を出る。私は大通りを歩く人々の流れに乗り、駅に向かった。


 駅の構内は多くの人々がひしめき合っていた。私は改札口に近づき、スーツから定期券を取り出そうとする。


 そのとき、ポケットの中で手が硬いものに触れた。取り出してみると、アルミシートだった。それは、千里さんのゴミ箱で見つけた薬のシートだ。


 私はシートを手に持ち、ぼんやりと見つめる。そういえばポケットに入っていることを忘れていた。


 改札を通過してホームに行く途中、自動販売機の横に大きなゴミ箱を見つけた。手でシートの硬い感触を確かめる。駅の照明で、鋭い光を放つ銀色のシート。ゴミ箱に手を伸ばした時の罪悪感を再び思い出す。


 何故こんなことをしたのだろう……。


 考えても答えは出てきそうにない。罪悪感から逃れるために、私は錠剤のシートをゴミ箱に捨てた。

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