第8章 前編

 深夜の会社周辺には誰もいない。凍てつく風が容赦なく、肌を切るように吹き付けてくる。時刻は午前0時半を回り、終電も無い時間だ。


 分厚い雲に覆われた灰色のビル群。アスファルトで地上を固めて、排気ガスで大気を汚す。会社は繁華街から離れており、深夜になるとおりのようなものがたまっているように感じる。


 ビルを見上げる。巨大な建物は赤いライトを規則正しく点滅させ、侵入者を監視しているように佇んでいる。


 私の足音がアスファルトに刻まれていく。私は息を殺して進み、ビルが近づいてくる。


 警備員室に向かう外路に到着する。これまでの出来事が頭の中で浮かぶ。千里さんの失踪、富樫の不在、会社の地下、製造が中止されたキーボード、ラベル表記の無い薬。いくつもの事柄が、接点を結べそうで結べないでいる。結びを確かなものにするためには、行動するしかなかった。


 再び、間近に迫った高層ビルを見上げる。そのビルは闇夜よりも黒かった。



 警備員室に続く外路、私は足音を殺して歩く。少しでも油断すると、アスファルトがざらついた悲鳴をあげそうだった。そうならぬように、慎重に足を運んでいく。

 両側にあるビルの壁が私を威圧しているようだった。遠くには、都会の喧騒が微かに聞こえる。それは、逆にこの場所の静けさを際立たせた。


 明かりが漏れ出している。そこに警備員室がある。明かりが段々と大きくなる。歩みを止める。背中を壁面にぴったりと付け、寒い空気を吸い込む。

 警備員がいないこと、それが今からビルに入るための絶対条件だ。警備員室の扉は閉まっている。ただ、網入りの窓ガラスから、中の様子を覗くことはできそうだ。


 恐怖感で、心拍数が上がる。私は意を決して、窓ガラスから中を覗き込んだ。


「っ……」


 警備員はいなかった。警備員が不在である安堵感と同時に、警備員が不在である違和感も覚える。

 警備員室を詳しく見てみると、監視カメラ用のモニターはすべて切られており、銀色の鍵たちがあるじの帰還を大人しく待ち続けているようにぶら下がっていた。


 既視感デジャブに襲われる。以前の不快な記憶が突然発火フラッシュバックする。ビルに入る扉は開かれている。しかし、実際に入ることができるとなると、これから行うことに対する躊躇ちゅうちょが生じてくる。


 千里さんの失踪には、勤務先の会社が関連していると思う。しかし、関連しているといっても会社に侵入したところで、私は何をすればいいのだろう。私は何ができるのであろう。私は何をしなければいけないのだろう。


 躊躇した気持ちを振り切るように警備員室の鉄扉を開く。すべての謎はこの扉のように開かれるのだろうか。そんなことを思いながら、私は仄暗ほのぐらいビルの中に侵入した。



 鉄扉が音もなく閉まる。たったそれだけで、私は元の場所に二度と戻って来れないような気がした。


 目の前には、リノリウム製でぬらぬらとした質感の廊下が続く。壁は薄く照らされ、妙な圧迫感を私に与える。


 突然、視界が揺れる。不快感が身を包む。ゆがみが体をおかし始めるように、平衡感覚が失われる。嫌な記憶が無理やり引きずり出される。


 仄暗い電灯、病院のような錯覚、澱んだ空気、体の束縛感、あえぐような呼吸。


 冷たい海の中を無理やり泳ぐように、交差路まで進む。


「……左側」


 記憶が私に告げる。揺れる体を制して、慎重に左折する。微かな光の先に、再び分岐路がぼんやりと見えた。


 うめく自分の声が僅かに反響する。静かにするようにと、心臓が警鐘けいしょうを鳴らし続ける。前を見据えたまま、私は歩き続ける。


 再び分岐路に到着する。右と、左。左はボイラー室や空調室。右はあのエレベーターだ。


 警告を発し続ける本能を抑え付け、右側にある通路の様子を窺う。


 咄嗟とっさに、体を側壁に隠す。エレベーターの前に人がいた。


 鍵の無機的な金属音が、ビルの壁を伝い、私の耳に流入してくる。


 落ち着け、落ち着け、落ち着け。何度も、何度も、自分自身に言い聞かせる。警備員がいることなんて、想定できた事態だ。見つかりさせしなければ大丈夫だ。そう、大丈夫だ。


 壁から、体を覗かせる。警備員の一挙手一動を見逃さないように凝視する。


「!?」


 突然、大きなサイレン音が鳴り響く。


 心臓が、一瞬止まる。急な大音量に、体がひきつけを起こしそうになる。

 考えたくない、だけど考えないといけない。これは侵入者に対する警報ではないのか。


 体が走り出そうとしている。逃げろ。この場所は危険すぎる。

 なのに、私は体を動かせない。呼吸が荒くなる。眼の焦点が合わなくなる。鼓動が次々と追いかけてくる。


 警備員が無線機のような機器を手に取り、冷静に話している。警備員との距離は15メートルほどなのだが、声がはっきりと聞こえた。


「こちら、1A地区……。1F地区、了解……。了解……」


 サイレンは鳴り続けている。逃げるなら、警備員が話しかけている今しかない。今を逃せば、どうなるか分からない。


 決心を固めて逃げようとした瞬間、予想に反した行動を警備員がとった。警備員は私のいる場所から離れていき、奥の通路に消えていった。警備員の足音が小さくなる。また、既視感デジャブが起こる。


 私は体を壁から無理やり引き剥がすように動き出し、エレベーターまでたどり着く。


 周りに警備員はいないことを再確認する。そして、エレベーターに目を向けたとき、私は鈍く光る輝きを見つけた。エレベーターの昇降ボタン、その下にある蓋が開いており、銀色の鍵が刺さったままだった。


 これを逃せば、二度と地下に降りるタイミングは無いだろう。


 蓋の中をよく見ると、鍵は穴らしきものがないのに、金属板に突き刺さっていた。また、様々なボタンがあり、一目見ただけではどのように操作するのか理解できない。


 舌打ちをして、適当にボタンを押してみる。途端、エレベーターの唸り声が聞こえる。


 エレベーターが近づく気配とともに、到着を知らせるチャイム音が、この場に不釣合いな天界のベルのように響く。


 エレベーターの扉が開かれる。私は急いで中に乗り込む。震える手で「閉」のボタンを連打する。扉が閉まるまでの時間がとても長く感じられる。完全に扉が閉まる。

 エレベーターは呻くように、急降下していく。



 到着を告げるチャイム音。たったそれだけなのに、体がびくりと反応する。

 扉が開く。私は慌ててエレベーターを降りる。


「なんだここは」


 辺りは、オレンジのブラックライトに照らされた空間だった。例えるならトンネルの中だろうか。全体にオレンジの光が行き届いているのだが、明度が低くて闇の色合いの方が強い状態だ。


 降りた場所はホテルのエントランスホールのような空間だった。右に通路があり、その先は薄暗くなり目視できなかった。

 数歩、歩いてみる。床の材質は金属だったが、走ったりしなければ足音は立たないようだ。


 ここに突っ立っていてもいけない。私は右側にある通路に進んでいった。


 通路を進んでいくと、ふと冷静さが戻ってきた。こんな地下施設、普通では考えられない。どれだけ降下したのかは分からないが、長い時間エレベーターに乗っていたように思う。それに、壁には無数の配管や電線らしきものが、人間の血管のようにへばり付いている。


 また、呼吸が苦しくなる。何故、息があがるのだろうか。空気が薄いのかもしれない。このままだと、倒れこんでしまう。しかし、通路で休むのは危険すぎる。それよりか安全と思われる部屋の中で休憩を取りたい。


 私はどこかに部屋がないかと、辺りを探しながら歩く。しばらく進むと、小さな扉を見つけた。


 おぼつかない足取りで、扉に辿り着く。オレンジ色の光を反射してぬらりと輝くノブに手をかけ、扉を静かに開く。


 部屋の中を見て、息が止まる。微弱なオレンジの室内灯に照らされて、いびつに黒光りするものを目視する。

 部屋の中には、夥しい数の銃が壁と棚に陳列されていた。小さなピストルをはじめ、大きなライフルやマシンガンなど多種多様だ。


 音を立てないように扉を閉めて、ピストルを手に取ってみる。子供のころに遊んだモデルガンとは比べ物にならない重量感。同時に、金属的な冷たい感触もてのひらに伝わる。

 ピストルを元の場所に置き、入り口の死角になる場所はないか探索する。奥にあるスペースは入り口から見えないため、私はそこに潜り込んだ。



 時間が刻一刻と流れていく。呼吸も落ち着き、ようやくまともな考えができるようになってきた。


 目だけを動かして、周りの銃器を見渡す。この空間の異様さを改めて感じ、寒気が体全身を包む。どうして、こんなにたくさんの銃があるのか。明確な答えは出せそうにない。だが、この地下施設に携わる者たちは、まともではないことは容易く判断できる。きっと、私も侵入したことが発見されたら、殺されるだろう。


「殺される」


 言葉に出しても、確かな実感は湧かない。だが、骨の芯から染み出てくるような恐怖感が全身に広がっていく。


 スチール棚に置かれていたピストルを手に取る。金属の冷たい質感が、手の体温を奪い去っていく。銃は人をあやめる道具ということが、否応無しに理性を震え上がらせる。


 しかし、別の考えも頭に浮かぶ。

 こんなに銃を保持している奴らだ。私を殺すことに躊躇はしてこないだろう。そんなふうに思い直して、考え方を捻じ曲げる。銃を持つのは護身のためという言い訳で、自分自身を納得させる。


 私は棚に置かれた中型の銃を内ポケットにしまい込む。


 再び廊下に出るため、部屋の扉をゆっくりと開ける。オレンジ色のトンネルのような空間に戻ってくる。


「とにかく、来た方向に戻るか、このまま通路を進むか決めないと」


 何か独り言を話していないと、理性が保てなかった。

 エレベーターがある方に戻っても、何の手掛かりもなさそうだったので、このまま通路を進む。直進した通路のため、前方から誰か来るとすぐに発見される危険性がある。ただ、この一本道しか先に進む道はなかった。ここまで来てしまったんだと体を無理やり奮い立たせ、前進していく。


 通路は異様なほど長く、すでにビルの敷地からは出ていると予想がついた。また、通路を進む途中にはいくつか部屋があったが、すべて銃などの保管庫だった。同じような部屋の間取りに、ループした回廊を歩かされているような感覚になる。


 かなり距離を進んだとき、壁に埋め込まれているような狭い階段を発見した。段差が小さく、注意して進まないと足を滑らせそうだ。

 この階は、これ以上は何もなさそうだ。私は内ポケットにある銃の硬い感触を確かめ、下の階に降りていった。



 今度は緑色の世界だった。上の階ではオレンジだったブラックライトが、この階ではグリーンに変わっている。グリーンのブラックライトに照らされた空間は暗視スコープを通して見ているようだった。ふと、外国の軍事作戦を記録した緑色の映像を思い出す。


 この階も上の階と構造は同じようだ。取り敢えず、エレベーターホールの方向に進んでいく。


 突如、体が地面に吸い寄せられるように傾く。一瞬、意識が飛びそうになる。


 私は立ち止まり、歪んだ空間に体を馴染ませるように、呼吸を整える。


 緑に照らされた長い回廊が続く。しばらく歩くと、私は大きな両開きの扉を発見した。何も考えることができずに扉を開く。大きく軋んだ音が上がる。


 入り口は高台になっており、そこから見下ろすと、メインフレームと呼ばれる大型コンピュータの群れが一面に広がっていた。その光景に、私は唖然とする。

 この部屋がどこまで続いているかは分からないが、かなりの密度で途方もない数のメインフレームが並んでいる。


 高台から降りてメインフレームを確認してみる。大きさは私の背丈よりかなり高く、手を伸ばしても上部には届きそうにない。


 これだけ大型のメインフレームが膨大に並んでいるとすれば、通常のコンピュータや構築方法では処理しきれないデータを扱っていることになる。


「基幹システム、大容量データベース、ネットワークサーバ……」


 これだけの巨大機器群だ。途轍もない情報処理を実行しているのだろう。


 突然、一気にファンがまわりだす。その音は機械が作り出す音というより、地震が起こる前兆の地鳴りを近くで聞いているようだった。


 視線を下に向けてみると、コードが幾重にも床に絡み付いている。それはこの世界の養分を無理やり吸い取っている宿木やどりぎのようだった。


 仄かな明かりが見える。私は誘蛾灯に誘われる羽虫のように、明りに引き寄せられる。そこには、一台のパソコンがあった。


「このキーボードは千里さんが持っていたものと同じタイプだ」


 ノーマルポジションに指を添える。使用頻度の少ないアルファベットは小指側に、母音は人差し指側に位置している。


 少し先の場所にも、明かりが見える。私はふらつく足取りで、光に吸い寄せられるように歩く。


 また先ほどと同じタイプのキーボードだった。やはり、この地下施設に千里さんは何かしら関係しているのだろう。


 急に、メインフレームのファンが大きな音を上げて回り始める。機械に意志など存在しないはずなのに、立ち去ることを告げるように唸り続ける。

 これ以上ここにいては、頭がおかしくなる。私は追い出されるように、部屋を出た。


 廊下に戻ってくる。やってきた方向を確認して、まだ向かっていない先に進んでいく。この方向だとエレベーターがあるはずだったが、私の予想とは違い、下に降りる階段があった。気のせいだろうか、少し生臭いにおいがする。嫌な予感がするが、進むべき道は他になく、私は階下に降りていく。



 下の階に到達する。そこは青い空間と異臭が広がっていた。


「このにおいはなんだ。臭すぎる……」


 においの酷さに、直接的な言葉が口から漏れる。この悪臭は強烈な生ゴミのにおいや動物の死骸から出るにおい、いわゆる腐臭だった。思わず夕食を吐き出しそうになる。


 眼前には、ブルーのブラックライトで照らされた狭い通路が左右に伸びている。鼻を摘み、腐臭に耐えながら右の通路に移動する。私の体が青く染まる。

 私は巨大な動物の体内に潜り込むように、屈みながら歩く。進むにつれて、腐臭は強さを増していく。


 気付けばエレベーターがあった。エレベーターホールだけ腐臭が少し和らぐ。私は少し呼吸をして、肺の中にある澱んだ空気を入れ替える。早くこの場所から抜け出したくて、エレベーターを見てみたが、残念ながら昇降するボタンはどこにもなかった。


 青暗い通路は続いている。また異臭に耐えながら進むことに辟易していると、少し先に小さな割れ目が見えた。目を凝らすと、扉が開いていることに気づく。

 何部屋か見たが、扉が開いている部屋は一つもなかった。些細な違いだが、この場所では注意しないといけない。私は、足音を立てないように部屋に近づいた。


「しかし、この臭いはなんだ」


 絡みつくような臭さに、つい文句を言いたくなる。部屋が近づくにつれて腐臭は濃密になっていく。


 部屋の前まで辿り着く。べとついた掌をスーツの腰ポケットで拭い、扉の隙間から様子を覗く。


 部屋の中は、薄暗くてほとんど見えない。ただ、強烈な腐臭は、この部屋から発生しているようだった。


 扉を開き、一歩ずつ足を踏み入れていく。薄闇に、目が段々と順応する。しかし、先ほどから、靴に何かが絡み付くような感触がする。やけに粘度があり、にちゃにちゃという音を立てる。鼻を床に少しだけ近づけて嗅いでみる。


「うっ、これは……」


 びた鉄のにおい、血のにおいだ。私の意志に背いて、目が勝手に部屋の中を観察する。


 視線が部屋の中央に向けられる。そこに、手術台があった。

 口をふさぎ、悲鳴が上がるのを耐える。頭からは警告のような脈動を感じる。鼓動が恐怖から逃げるように早鐘を打つ。手術台の上には、人間であったらしい物体が横たわっている。その台の下にも、同じように人間らしき物体が横たわっていた。


 胃液が食道を上がってくる。私は体を折って吐瀉物としゃぶつを撒き散らす。胃が際限なく痙攣を繰り返す。もっと吐くものはないのかと、私に訴えかける。


 血の錆びた臭いと、吐瀉物の臭いが混ざる。


 屈んだまま、呼吸を整える。目には涙が溜まっている。耳は呼吸する音しか聞こえない。


 吐き終えて目線を上げると、手術台に横たわった頭部が目に入ってくる。頭部は額から後頭部まで水平に切り取られていた。そして、頭にあるはずのものがなく空洞だった。


 脳が無い。


 また、胃が痙攣して嘔吐するが、もう固形物はなく、黄色い胃液が口から流れ出ただけだった。


 勝手に、足が後ずさりする。背中に、壁が当たる。


「ぅ……」


 何か呻くような音がした。体を壁に張り付けて、身構える。


「ぅう……」


「だ、誰か、いるんですか!?」


 上擦うわずった声で尋ねる。


「うごごお」


 奇妙な声が返ってくる。その声の方向には、大きな鉄格子があった。

 自分を無理やり奮い立たせて、鉄格子に近づく。


「ぅごぐぐゆるしてくだご」


 奇妙な声が、意味のある言葉になる。


「めがみさまこえをだすのはひさしゅうございます。ゆるしてください」


 鉄格子の中は暗く、何がいるのか分からない。ただ、人なのは間違いない。


「めがみさまなぜこのようなばしょにこられたのです。ここはあなたのくるようなばしょではありません」


「だ、大丈夫ですか!?」


「おとこのめがみさまでしたか。おとこのめがみさまをみられるとはうれしゅうございます。おとこのめがみさまはうまれることがないときいておりましたので」


 檻の中から奇妙な粘着音が聞こえる。どうやら、体を動かしているらしい。


「わたしはじゅうよんとよばれております。きのうじゅうくがてんにめされました。わたしももうすぐでしょう」


 言っている意味が理解できない。


「あ、あなたは、どうしてここにいるのですか? ここで何をしているのですか」


「おとこのめがみさまはかわったことをきく。わたしはほかのものよりもまともだったのです。こうやってはなせます。あなたのこえがきこえます。あなたがみえます。わたしはちえすさまによってじゅんひけんたいとしてだいななせかいからつれてこられたのです。ここはだいろくせいかいのほうせきのへやでございます。ここでだいろくせかいのひけんたいからほうせきをとりだします」


 ひけんたい、だいななせかい、だいろくせかい、どれも聞いたことがない言葉だった。


「おとこのめがみさまはなにもしらないのでございますね。ひけんたいとはこのだいろくせかいのめがみさまににたものをいいます。ですがめがみさまとはちがいます。めがみさまはしろいはだをもっています。ですがひけんたいはみどりのはだをしております。そしてみどりのはだをはがれてはだいろになるのです。あなたさまはふしぎなはだをもっている。つくられしもののくろいはだとしろいはだをもっている。ふしぎなかただ」


 自分の服装を見る。黒のスーツと、その間から覗く白いシャツ。彼はきっと私の洋服のことを肌だと勘違いしているのだろう。


「めがみさまににたひけんたい。ひけんたいはここでほうせきをあたまからとりだされます。ほうせきはつくられしものがもっていきいろいろしらべます。そしてつくられしものはめがみさまになろうとするのです」


 宝石を頭から取り出すとは、考えたくないが、脳を取り出すことを言っているのだろうか。


「あなたはどうなるのですか。このままでは……」


 殺されると言いかけて、口をつぐむ。


「わたしももうすぐほうせきをとりだされててんにめされます。ですがひけんたいとはちがいます。ひけんたいはこのばしょでくさりますがわたしはおはかにいれてもらうのです。いいでしょう」


 さっきから考えないようにしていたが、これはどう見ても人体実験だ。こんな行為が許されるわけがない。


「あなたはこのままでは殺されてしまうのですよ! この死体を見てください! あなたもこのままじゃこんな風に! ここは普通じゃない、おかしすぎる!」


「おとこのめがみさまおこらないでください。わたしはてんごくにいくのです。そこはすばらしいばしょだとみんないっていました。だからこわくありません。ほうせきはつくられしもののやくにたつでしょう。それでいいのです。てんごくはいいばしょなのです」


 どうにかして、彼を助けないと。そう考えて、鍵がないかと探そうとしたときだった。


「おとこのめがみさまはおかしなことをなさる。なぜわたしをにがそうとするのです。だいろくせかいではわたしはくすりなしではいきていけません」


 疑問が過る。私は助けるなんて一言も言っていない。私の僅かな動作だけで、そう察したのだろうか。


「おとこのめがみさまかわりにおねがいがあります」


 彼の声が弱々しくなる。


「てんごくにいくまえにめがみさまにふれてみたいのです。おねがいですおねがいです」


 弱々しいが、必死な懇願が続く。人に触れたいなんて普通の人間が願うことだろうか。無理やり背中を壁から引き剥がし、私は鉄格子に近づく。


 手を格子の間にかざす。檻の中で動く音がする。そして、彼が闇から姿を現した。


 私は思わず叫び声を出しそうになる。彼が仄暗い闇の奥からってくる。


 彼には、右半身がなく、異形の人間だった。


 器用に左手と左足とを使い、異形の人間がぬめった床を線虫のように這い進んでくる。翳した手が大きく震えだす。歯が噛み合わず鳴り始める。無意味な声が、口から流れ出る。


「おうつくしい。わたしもこのようにうまれたかった」


 理性も本能も、思考も感情も、何もかもが私に逃げるように警告してくる。だが、あまりもの恐怖に、私の足は全く動かない。


 私の右手と、異形の者の左手が合わさる。瞬間、彼は私の手を力強く握る。冷たい感触と血の粘り気が、手から伝わってくる。彼の手は普通の手だった。しかし、返ってそれが恐怖心をあおり立てる。


「あたたかい。おとこのめがみさまはあたたかい」


 彼のつぶれかけた瞳から、体液がしたたり落ちる。


 手を離したいのに、離せない。体が凝固したように動かせない。


「めがみさまおれいにわたしのちからをみせてさしあげます。おとこのめがみさまはあるひけんたいをさがしておらっしゃるようだ。なまえをちさととおっしゃる」


 ちさとという単語に触発されて、理性が戻ってくる。千里さん、と言おうとしたが、呂律ろれつがまともに廻らない。


「ひけんたいはまだいきております。きっとこのなかです。このなかです」


 突然、異形の者の手が離される。指の間から手の甲にかけて、オイルのような血がべっとりと絡み付いている。


「ありがとうございましたおとこのめがみさま。じかんはありません。おいそぎください」


 私はやっとのことで右手を降ろす。檻の方を向いたまま、這いずるように出口に下がっていく。


 やっとのことで、扉まで辿り着く。私は大きく息を吐き、急いで部屋から逃げ出した。



 死臭が漂うフロアから何階かを駆け上がってきた。私は黄色いブラックライトで照らされた室内にいる。頭は少しだけ落ち着きを取り戻し、なんとか冷静に判断できるようになってきた。


 この室内には、薬瓶などが多数保管されており、独特の刺激臭が鼻をついてくる。だが、先ほどの腐臭と比較すれば、かなり清浄な空気だった。


 異形の者との会話を、私は思い出していた。様々な単語が頭の中を駆け巡る。

まず、彼は私のことを『おとこのめがみ』と呼んでいた。男であるのに、女神とは矛盾した言い方だ。何故、このように呼んだのであろうか。『めがみ』という単語には、別の意味合いがあるのだろうか。


 次に、人体実験についてだが、『ひけんたい』と呼ばれる人たちが、何者かに脳を取り出されているのだろうか。千里さんのことも、異形の者は知っていた。信じたくないが、千里さんも『ひけんたい』なのであろうか。もしそうであるなら、彼女の命が危うい。すぐに彼女を探し出し、この場所から連れ出さないといけない。


「第六世界。第七世界……」


 これは何だろうか。見当も付かないが、どこかの所属を例えているのだろうか。


「白いめがみ、緑色のひけんたい、つくられしものの黒とめがみの白の肌……」


 意味不明だ。何かの暗号であろうか。それとも、異形の者の妄想であろうか。だが、周囲の状況を見ると、一致するものもある。緑色の「ひけんたい」という言葉だ。緑色の肌とは、手術衣のことではないだろうかと推理する。あの場所で、緑色の衣服を脱がされ、解剖されていく。彼は、その様子をつぶさに観察していたのではないだろうか。


 異様な死体の姿が思い浮かぶ。脳がない、空洞の頭部。黒いものが脳を持ち去り、データのために研究をするといっていた。朦朧もうろうとした意識の中で、千里さんと会話した内容を思い返す。彼女もどこかの団体にデータを提供すると言っていた。それも人の心を読んだ脳のデータだ。ということは、千里さんも『ひけんたい』ということになるのだろうか。


 地下施設と彼女とを結ぶ糸が、ますます強くなっていく。


「でも、このままでは……」


 やはり、このままでは千里さんの命が危ないという結論に至る。この研究施設は、完全に常軌を逸脱している。


「早く誰かに助けを求めないと」


 私は立ち上がり、部屋の奥に進む。そこで、千里さんに関わるものを発見した。


「これは千里さんの持っていた薬だ」


 棚には、薬が散乱していた。錠剤を包み込む銀色のシートには、薬の名称を示すような刻印や数字は何もない。また一つ、千里さんと会社とを繋ぐ線が見つかる。


 いきなり足音が聞こえ始める。


「おい、侵入者。そこにいるのは分かっているぞ」


 扉が大きく軋み、開かれる。同時に、黒い影が部屋に入ってくるのが分かった。


 心臓が爆ぜ返る。体が大きく震え始める。視界が恐怖で歪みだす。

 人影が奥に来るまで、幾らか時間はあった。相手を確認するべく、私は棚の間から覗き見る。しかし、相手の様子を見ることはできなかった。


「血のあとをこんなにつけやがって……。散々、同士を殺してくれたみたいだな」


 自分の服を見下ろしてみる。スーツやワイシャツには血がべっとりと附着していた。

 部屋の床を見る。私が移動した後には、血痕けっこんが点々と残っていた。

顔から、血の気が引いていくのが分かる。


「もう少しできるやつだと思っていたのだが、痕跡こんせきを廊下に残すとは、ただの馬鹿だ」


 精神が崩壊しそうになる。無意識に内ポケットから銃を取り出す。鉄の冷たさを感じる。理性が少し甦る。自分は人を撃てるのかと自問する。


「しかし、俺が銃撃したときは、こんな間抜けなことをするとは思わなかった。あれだけ卓越した技術を持っているのにな」


 声が迫ってくる。もう時間はない。自分の命が惜しいのなら、引き金を引くしかない。私は引き金に手をかける。だが、そこで違和感を覚える。引き金が異様に固く重たい。


「!?」


 引き金が、引けない。


狙撃手スナイパーだけに特化していたのか? もっと実戦経験を積んでおくべきだったな」


 パニック状態になる。何故引き金が引けない。指で何回も押しても引き金は固まったまま動かない。銃を見る。だが、異常などどこにもない。引き金を引く。動かない。だめだ、このままでは殺される。引き金を引く。何故動かない! 引き金を引く。引き金を引く。どうして動かない!


「何故、撃たない? 撃たないのなら、こちらから行かせてもらう」


 耳元で鉄の炸裂さくれつ音。薬瓶が砕け散り、辺りに中身をぶちまける。相手の脚が、私の視界に入ってくる。


 私は咄嗟に薬瓶を手に取り、叫び声を上げながら、相手に突っ込んで行く。

 相手の顔面を狙い、薬瓶を叩き割る。

 薬瓶が砕けて、液体が顔面に撒き散らされる。相手は両手で顔を覆い、苦悶くもんの声を上げる。私は続けざまに棚に置いてある薬瓶を相手に打ちつける。ガラスの割れる音。焦げる臭い。悲鳴と叫び声。

 私はもだえ苦しむ声に恐怖しながら部屋を逃げ出す。

 全速力で、廊下を駆け抜ける。酸素を肺が欲しがる。苦しい。体が熱くなる。苦しい。止まりたい。でも止まると、死が待っている。死ぬのは嫌だ。死にたくない、死にたくない、死にたくない!

 無意識に階段を登り始める。止まりたい。まだ、だめだ。止まりたい。まだ、だめだ。止まりたい。まだ、だめだ。

 私は階段を登り切れなくなり、フロアに転がるように駆け込んだ。


 苦しい。脚がよろめく。苦しい。肺が酸素を欲しがる。止まりたい。体はもう走ることができない。なのに、走ることを強要されている。止まりたい。廊下は赤く照らされ、目から体に染み込んでくるようだ。全身が心臓になったような感覚に喘ぐ。

 長い廊下の先に扉を発見する。そこまで、何とか走れるか。

 なんとか、部屋の前まで到着する。扉に手をかける。部屋に入り、すぐに扉を閉めて、私は倒れこむ。

 埃が口の中に入ってくるのを感じる。だが、それは些細なことだった。何度も、喘ぐように呼吸する。


 徐々に、体の熱がしずまり、呼吸が整えられる。もう少し、部屋の奥に行かなければと思い、四つんいになり進む。

 体をうつ伏せに寝かせて、休息を取る。呼吸は正常に戻ったが、体中の筋肉が疲れ切っている。今動いたら、全ての筋肉と関節がりそうだった。少ない唾液を飲み込む。しかし、渇いた喉に絡み付いて変なせきが出た。


 遠く、断続的な小さい銃声が地面を伝って耳に入ってくる。


 単純な疑問が脳裏を過ぎる。侵入者である私は、今ここにいる。それなのに何故、銃を撃っているのだろうか。朦朧とした意識の中で考える。銃を撃っている理由、それは私以外にも侵入者がいるのではないか。


 体を無理やり起こす。壁に手をついて、扉の方向に進む。扉を少しだけ開けて、外の廊下の様子を窺う。


 銃声が近づいてくる。私は撃てない銃を構えて、扉の隙間から覗き見る。赤いブラックライトに照らされた世界。そこに、私は彼女を見た。


「えっ、青井さんじゃないか!」

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