第2章 前編
目覚まし時計の音が部屋に鳴り響く。私は騒がしい音を止めるべく、暖かな布団の中から手を出して、手探りで時計のスイッチを探し当てる。最後の金属音を上げて、目覚まし時計が止まる。
朝特有の気怠さが頭を包んでいる。私は体を奮い立たせ、ベッドから這い出るように立ち上がる。おぼつかない足元を気にしながら洗面所に向かい、身支度を整える。
朝の通勤電車には、昨日の疲れを引きずった多くのサラリーマンが乗っている。人々は無理にスペースを埋め合い、服をすり減らすように触れ合わせている。
この異様な緊張感を朝から感じるのは、清々しい一日の始まりを台無しにしていると思う。私はどこを見るともなく、断続的に揺れる電車に身を任せた。
社員証でセキュリティを解除して、部署のドアを開ける。
「おはようございます」
上司や先輩に挨拶をしながら、自分のデスクに向かう。途中、キャビネットから必要な書類を取り出して、デスクの上に置く。私は椅子に深く腰掛けて、通勤で少し疲れた体を休ませる。
視線を、窓に向ける。上空では風が強いのか、雲の流れがとても速かった。きっと、この強い風が春の天気を刻々と変えていくのだろう。
切り取られた都会の空に思いを
「おはようございます、木原君」
透き通った声に返事をするため、私は振り返る。
「おはよう、千里さん」
千里さんが、にっこりと笑う。
朝のやわらかな雰囲気を、身に纏っているような千里さん。その姿を見ると、会社の慌ただしい時間が始まることを忘れてしまう。
ふと、千里さんの服装がいつもと違うことに気づく。今日は外回りの仕事はしないのだろうか、彼女はスーツではなく会社の制服を着ていた。
「千里さん、今日は外に出ないんだ」
「ええ、今日は会社の中にこもって、パソコン研修を受けなければならないんです」
会話を交えながら、千里さんの制服姿を盗み見る。ベージュが基調のゆったりとした制服だ。地味な制服と青井さんは言っていたが、私は落ち着いた感じがして嫌いではなかった。
「僕も午後からパソコンの研修が入っていると、課長から連絡があったな」
「私は一日中研修を受けるように言われました。この前のパソコン研修で、今までパソコンを触ってなかったことがばれてしまって」
千里さんは少し俯いて、恥ずかしそうに微笑む。
「千里さんがパソコン苦手だなんて、ちょっと意外だな。大学時代は情報処理系の授業は取らなかったの?」
「ええ、情報処理系の授業は取っていなかったんです。あと私の通っていた大学は古い考えがあるようで、レポートもパソコンを使って提出するのと、レポート用紙に書くのが半々でした」
彼女が通っていたという大学は、昔から名のある国立大学だった。教授によっては、手書きでないと許されないのかもしれない。
「普段の生活ならスマートフォンやタブレット端末があれば十分ですが、会社ではパソコンが使えないと話にならないですからね」
「そうだね、頑張ってよ千里さん」
「ところで、木原君はパソコン得意なんですか?」
「少しさわれる程度だけどね。大学ではミクロ経済や統計学を授業で取ったときに、表計算を使うから、色々と覚えさせられたよ。それに、家でも時々は使っていたから……」
話を続けようとしたら、始業開始のチャイムが鳴った。これから朝礼が始まる。
朝礼が終わり慌ただしくなる。私もその慌ただしさの中に入り、今日を乗り切っていかなくてはならない。私はデスクの上に並べた資料をかばんの中に入れていく。
「木原、行くぞ!」
一緒に外回りをしている先輩である
私は大きな声で返事をして、すでに部署の出入口に向かっていた地成さんの後を急いで追う。
「いてっ、木原!」
途中、富樫とぶつかってしまったが、私は軽く謝りその場を去る。後ろで慰謝料などという言葉が聞こえたが、無視して部署を出た。
午前中の外回りを終えて、デスクに戻ってくる。私はアイスコーヒーを飲みながら軽い休憩を取っていた。
少し薄めのコーヒーを飲み終えて、カップをゴミ箱に放り込む。プラスチックの乾いた音がゴミ箱から上がる。
突然、スーツのポケットが震え始めた。急いで手をポケットに入れて、携帯電話を取り出す。
メッセージを確認すると、富樫からだった。内容は昼飯を一緒に食べようという誘いだ。いつもならこんなメッセージは送らずに食堂で待っているので、嫌な考えが頭に浮かぶ。
彼は先ほどぶつかった事をネタにして、おごってもらう魂胆で誘い出しているだろうか。とりあえず富樫に返信をして、私は社員食堂に向かう。
社員食堂に行き、食券を買うために列に並ぶ。相変わらず、食堂は大勢の職員で騒がしかった。しばらく順番を待った後、食券を買って麺類のカウンターに向かう。
「木原さん……」
カウンターの前で待っていると、いきなり声が掛かる。
「ああ、上川さん」
空のトレイを持ち、上川さんが私を見上げていた。強い眼差しで、彼女はじっと見つめてくる。今日は外回りをしてきたのだろうか、彼女は黒いスーツで身を包んでいた。
「上川さんも麺類なんだ」
「はい……」
上川さんは
ふと、上川さんの横顔を視界の片隅で
あどけない顔つきに、肩に触れるぐらいの黒髪。口は堅く閉ざされ、横に結ばれている。
きつねうどんの方と声がすると、上川さんが静かに前に進み、うどんをトレイの上に乗せる。
「お先に失礼します……」
丁寧にお辞儀をして、彼女はゆっくりと去っていく。私も軽く会釈して、そのお辞儀に応えた。
間もなく、私の注文した品を呼ぶ声がする。前に出て食券を渡し、ミートスパゲッティと、サラダをトレイに乗せる。
私はカウンターを後にして、富樫たちを探すべく、目を細めて遠くを眺める。だが、混雑していてよく分からない。
「おーい、木原! ここだよ!」
人ごみの中を縫うように進んでいると、富樫の声が聞こえた。声がした方に視線を向けると、6人掛けのテーブルにいつもメンバーがそろっていた。みんなが座っているテーブルに急ぐ。
「すみません、お待たせしました」
「お先に頂いてるで」
「お先に頂いてます」
青井さんと千里さんが同時に喋りかけてくる。
「お先に頂いています……」
上川さんもワンテンポ遅れて声をかけてくる。
「遅いぞ、木原。もう俺なんか食べ終わっちまった。見ろ、この使われたかどうか分からないぐらい、真っ白な皿を!」
空の食器が富樫の前に置いてある。食器の数からしてA定食だろう。私は適当に返事をして、上川さんの前に座り、パスタを食べ始める。
食事を食べ終えた後、私たちはのんびりと談笑していた。
「もう、昼休みも終わりやなぁ」
「みなさんとお話してると、時間が早く経ちますね」
「ああ、午後からも外回りか。しんどいわぁ」
少しの沈黙が訪れ、周りの
「12時55分ですね」
「もう仕事に戻らないといけないなぁ。午後の仕事はなんだっけか」
富樫が背もたれに身を任せて、独り言を呟く。そして申し合わせたかのように、自然とみんなの視線が上川さんに注がれる。この行動は昼休みの終わりに行う習慣になりつつあった。
「愛ちゃ~ん、ご飯食べれたぁ?」
青井さんが上川さんと、うどんの器を交互に見る。
「あと、ねぎが残っています……」
上川さんは細かく刻まれた万能ねぎを、黙々と食べている。しかも、一個ずつ……。
「一つ、二つ、三つ……、あと八個ですね。頑張ってください、愛ちゃん」
千里さんが上川さんを応援しながら頷く。上川さんがそれに応え、箸を動かす速度を上げる。
「ごちそうさまでした……」
手を合わせて、丁寧にお辞儀をする上川さん。だが、うどんの
汁は残すのか……。独特の考え方をもっているのか、マイペースな行動をする人だ。上川さんの行動に、みんな無意識のうちに引き込まれている気がする。
「よし、上川も食べ終えたし、ぼちぼち部署に戻るかぁ」
富樫が勢いをつけて椅子から立ち上がり、返却コーナーに向かっていく。
「ああ、外回り、外回り~ぃ」
独特のアクセントで呟きながら、青井さんが富樫の後についていく。青井さんの後に、私と千里さん、上川さんが返却コーナーに向かっていく。
「午後から何をするのですか……」
上川さんが千里さんに話しかける。
「午後からですか? 今日は一日中パソコンの教習を受けなくてはならなくて」
「だから、制服を着ているのですね……」
「ええ、そうなんです。一日中パソコンを見続けているので、目が痛くて。学校で勉強していた時は痛くならなかったのに、パソコンはダメみたいです」
千里さんが笑って、会話がいったん途切れた。
「あの、愛ちゃん」
千里さんが上川さんに話しかける。
「はい、何でしょうか……」
「愛ちゃんって昨日も、
「はい、そうでした……」
「その時も、うどんのおつゆを全部残していませんでしたか? おつゆは嫌いなんですか?」
千里さんはそんなことまで覚えていたのか。確かに、上川さんが最後に食べ終わるので、印象に残るといえば残る。
「………………」
思い出そうとしているのか、上川さんの声は聞こえない。そして少し経った後、上川さんが質問に答えた。
「知りませんでした。これ、飲むものだったのですか……」
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