第1章 前編

 冬の名残が暖かさにき消され、桜が新しい門出を祝うように、街中に咲き乱れている季節。私、木原きはら弘泰ひろやすはスーツを着た会社員たちに紛れて、舗装された大通りを歩いていた。

 

 ふと、この場所でいいのか不安になる。群衆から離れて、目の前にそびえ立つビルの大きさを見つめる。


 今日は初めて、採用された会社に出勤する日だった。大学というモラトリアムを抜け出し、親の養育からも離れて、本当に自立する日だ。しっかりしなくてはいけないと、自らを奮い立たせて、急ぎ足でビルのエントランスを目指す。



 エレベーターから降りて、入社式が開催されるホールに入り、自分の席を探す。床には薄茶色の絨毯が敷かれ、木彫りの椅子が整然と並べられている。


 何とか自分の席を見つけて、私は椅子に座る。首を回して緊張感を拭い、深呼吸をして辺りに目を配ってみる。少し到着したのが早かったようで、座席はあまり埋まっていなかった。私は着慣れないスーツに心を浮つかせたまま、入社式の開始を待った。



 徐々に座席が埋まっていき、壇上に役員が並び始める。入社式がいよいよ開始する、その時だった。隣にいた女性が私に話しかけてくる。


「すみません、足を少しだけずらしていただけませんか」


 緊張のせいか、足を大きく広げすぎていたようだ。


「あっ、す、すみません……」


 すぐに足を閉じる。


「いえ、ありがとうございます」


 隣の女性がほほ笑む。その笑顔に、思わず目が釘付けとなる。


「どうかしましたか?」


 女性が不思議そうに尋ねてくる。


「あっ、いえ……」


 どぎまぎとした返事しか返せない。胸が高鳴る。視線がどこか定まらない。


 その女性はかわいくて美しい顔立ちをしていた。簡単に言うと、一目ぼれしたようだった。



 式は順調に進み、閉会となった。皆が椅子から立ち上がり、ホールから出て行こうとする。


「私たち法人営業部らしいですね」


 隣の女性が笑顔で話しかけてくる。首を少しかしげた格好になり、髪が肩口に触れる。


 彼女に話しかけられて、少し戸惑う。しかし、話の内容にも戸惑った。


「えっ、でも法人営業部って……」


 自分の配属先が法人営業部だなんて、いつ決まったのか。送付されてきた書類やメールにも、そのようなことは書かれていなかったはずだ。 


 私が困惑していると、彼女は正面を向き直り、微笑みながら立ち上がる。私もそれにつられて立ち上がる。彼女が歩き出したため、私もついていこうとしたとき、彼女はくるりとこちらに振り向いてきた。


「社長の挨拶の後、人事部長の方がおっしゃっていましたよ。私たちの座っていた列は法人営業部の配属ですと」


 彼女は出来の悪い子供を諭すように話しかけてくる。


「ほら、おいていかれますよ」


 笑みを残して、彼女は足早に去っていく。私も焦って後を追った。



 私を含めた新入社員が、部長席の前に立たされて、自己紹介していく。

 この部に配属されて、研修を受ける新入社員は男性2名と女性3名の合計5名だった。


 他の新入社員の自己紹介が終わり、隣に座っていた女性が話し始める。


千里ちさと絵梨えりと申します。私がこちらの会社を志望した理由は、この会社の生活用品や家電製品が身近にたくさんあり親しみがあったこと、そして、製品に対するアプローチの姿勢や価格を抑えた上で高い性能を持つ製品を作り上げていることを企業研究で知り、強く惹かれたためです。会社の顔と言える法人営業部に配属されたことに喜びを感じるとともに、会社の評判を落とさないように頑張っていこうと思います。未熟者ですが、研修期間の半年間、よろしくお願いします」


 彼女は千里絵梨という名前だった。大勢の上司や先輩社員がいる中、緊張する場面なのに、彼女は凛とした笑みを湛え、はきはきと喋っていた。思わず、聞き惚れる。


「次、木原弘泰君」


 自分の名前が呼ばれたことに、はっとする。


 しまった、自己紹介の内容を全く考えてない。私の番まで、かなり時間はあったはずだ。


「えっと、木原弘泰です。きはらは普通のキハラに、ひろやすは普通のヒロヤスです」


 そこで、誰かが噴き出すように笑った。そして、それにつられるように全員が笑い始める。


 やってしまった、顔から血の気が引いていく。


「君にとっては普通でも、みんなの普通とは違うぞ、木原君」


 部長と名乗った白髪交じりの男性が笑顔で話しかけてくる。


「さっきから肩がいかっているぞ。もっとリラックスしたらどうだ」


 部長が柔和な笑みを浮かべる。さっきまでの空気が張り詰めた雰囲気はなくなっていた。

 少し安堵したためか、口からため息が漏れる。


「さあ、続けてくれ」


 部長に自己紹介の続きを促されたが、結局は無難なことしか言えず、まばらな拍手をもらっただけだった。


 全員の自己紹介が終わり、課長と名乗った男性から使用するデスクを教えてもらう。


「君たちの研修は半年間かけて行うのは聞いたな。その間に社会人としての基礎知識やマナー、基本的な業務内容などを頭に叩き込んでもらうぞ」


 新入社員は一旦、仮の部署に配属されて半年間で適性を診断される。その結果を基に、私たちは新たな部署に再配属されるというカリキュラムだった。


 ここにいるのは半年間か。仕事には慣れるだろうか。人間関係は大丈夫だろうか。様々な不安が押し寄せてくる。


 デスクに着席して、辺りを見渡してみる。最初は狭く感じたフロアだったが、座って眺めてみると広く感じる。デスクの列もたくさん並んでおり、多くの人数が座れそうだった。


 自分のデスクは窓側だった。高層ビルの23階なので見晴らしは抜群にいい。今日の天気は春霞を漂わせながら、淡い光が降り注いでいた。天気予報でも、これから暖かな日が続くと言われており、このままだと桜も早く散ってしまいそうだった。


「こんにちは、普通の木原さん」


 突然名前を呼ばれ、びっくりして振り返る。そこには、千里絵梨と名乗った女性が立っていた。窓のやさしい日差しを浴びて、体の輪郭が柔らかくなっているように見える。


 彼女は視線を私に向けて、おかしそうに笑みを湛えている。


「席、お隣なんですよ。入社式のときも隣でしたし、ご縁がありますね」


 隣の机に視線を向けると、同じように新品だった。


「千里絵梨と申します。改めてよろしくお願いしますね」


 軽くお辞儀をする千里さん。私も慌てて立ち上がり、お辞儀をした。


「木原弘泰と申します。こちらこそよろしく」


「最初の挨拶にはびっくりしましたよ。いきなりギャグを言い出すんですから」


 千里さんはくすくすと笑う。


「いや、あれは緊張で舞い上がって、直前まで何を話したらいいか思い浮かばなくて、前の日にも考えていたんだけど、よわったよわった」


「でも、おかげで周りがすごく明るくなりましたよ。木原君が最初だったら、他の方々はもっと自己紹介しやすかったでしょうね」


「ははっ、そうだね」


 引きったような笑顔で相槌を打つ。


「私も自己紹介の時は緊張していて、言葉がふわふわしていました」


「いや、千里さんは全く緊張したように見えなかった。すごく声もとおっていたし、話の内容も僕とは比べ物にならないし。何よりあの場所に笑顔でいられたのがすごいよ」


「そうですか?」


 千里さんは小首を傾げる。艶やかな髪が肩にかかる。


「私もすごく緊張していたんですよ。表情も強張こわばってたんじゃないかなぁ。それに、実は話した内容も採用面接のときに言ったことの丸写しでした。人事部の方が、あの場にいなくて本当によかったです」


 彼女はそこで話を区切って、自分のデスクに座る。


「これから何があるんでしたっけ?」


 千里さんが私に質問してくる。


「そういえば、これからの予定は聞いてなかったな」


 私は少し考えて、近くにいる人に聞こうとする。


「あっ、待ってください」


 歩こうとした私を、千里さんが止める。


「ここに書いてました」


 そう言って、千里さんは書類を私に差し出す。白魚のような指が私の目に入る。紙切れ一枚を受け取るだけで、緊張してしまう。私は壊れ物を扱うように、書類を受け取った。

 書類に目を落とすと、当日の予定が記載されていた。


「今11時半ですから、もうお昼ご飯ですね」


 すぐ近くから声がする。驚いて振り向くと、千里さんが隣に立って書類をのぞき込んでいた。


「社員食堂があるようなので、そこで食べようかなぁ」


「そうですね、今から外に食べに行くと時間がかかるし……」


 返事はしたが、内心は千里さんが隣にいることで動揺していた。


 千里さんから、軽く香水の匂いがする。千里さんにそぐうような柔らかい香りだ。私はくらくらしながら言葉を選ぶ。


「社員食堂はどこだったかな」


 とりあえず言葉を繋ぐ。沈黙は耐えられないだろう。


「それは誰かに聞かなくてはいけませんね」


 そう言って、千里さんが私の方へ振り向くと、彼女の髪が紙の上にはらりと落ちた。彼女はその髪の毛をつかみ取った後、私をじっと見つめる。何か心が読まれているようで、落ち着かない気持ちになる。


「ごめんなさい、髪の毛が落ちちゃいましたね」


 千里さんが悪戯っぽく笑う。ゴミ箱が近くになかったためか、彼女は髪の毛をそっと自分のデスクに置いた。


「さあ、食堂の場所を聞いて、早く食べないと次のオリエーテーリングに遅れますよ」


「そうだね、早く食べないとオリエーテーリングに遅れてしまう」


 彼女の言ったことをオウム返しする。


「それでは、法人営業部に配属された新人5人で食べましょうか。私は女性の方々をお呼びしますね。木原君は男性の方をお願いします」


 千里さんは足早に去っていく。私も歩き出そうとしたとき、ふと千里さんのデスクに目が行く。全く同じように配置された物品たち。ただ、そこに違いがあるとすれば、彼女の机には長い髪の毛が一本置かれているという点だけだ。


「……」


 机の上の長い髪。何の変哲もない髪だ。しかし、何故かその髪が机に掻きつけられた傷のように見えてくる。


 セカイヲタダセ


 その傷は禍々まがまがしさを含み、卓上をゆがめるようにして割れ目を作っていく。その割れ目から空間を下方へと落としていく。

 髪が小さな亀裂を作り出して、世界を少しずつ呑み込んでいくイメージ……。


「一体どうしたんだ、僕……」


 髪の毛から視線を外し、目をきつくつぶる。どうして髪の毛一本で、ここまで妄想しているのだろう。

 私は病的な幻覚を振り払うように、視線をしっかりと前に向けて歩き出した。



 

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