幕間II 月の翳り

 上国には幼い頃、想いを寄せる人がいた。

 七歳を迎えようかという一人っ子の上国を実弟のようにかわいがり、上国もまた、父を亡くした寂しさから逃れるように彼女の母である天月家当主の本邸を度々、訪れていた。

 頻繁にあらわれては、寝殿の入り口で娘を待ちわびる上国に、当主は嫌な顔こそすれ、後継者となるべく軟禁状態で修練に打ち込む娘の息抜きにと、咎めることまではしなかった。もっとも、歓待もしなかったが。

 そんなある夏、珍しく上国は当主から呼び出しを受けた。半年ほど、彼女のを理由に会わせてもらえなかった上国は当然、喜んだ。

 だが、摩天楼から離れた郊外の、標高六百メートルに満たない山の頂にひっそり佇む、黒檀の立派な山門を抜けた上国が通されたのは、彼女の寝殿ではなく、〈アマツキ・グループ〉会長にして現当主、天月石楠の本邸に隣接する"稽古場"だった。

 防音材がたっぷり詰まった稽古場の紫紺の分厚い扉の中、四方を囲う膨大な蔵書に圧倒されつつ、入り口のからもっとも離れた階段を降りていくと、一転、モダンなミニマリズムのフロアが広がる。トレーニングマシンが並ぶフィットネスが一面を、向かいにはガラス張りの部屋にV字型の机が空席を携えている。

 フロアの中央にはシンプルなシルバーの長机と飾り気のない椅子が一脚。幼い上国は背の高いオフィスチェアに腰掛け、拳を膝に置いてじっとしていた。紫鳶色の目が眼鏡越しに机を挟んで真正面に立つ着物姿を神経質そうに見上げている。

「上国。きょうからおまえを私が指導します。由緒正しい天月の血を継ぐ者としての自覚を忘れぬよう」

「……」

「口を動かすならはっきり言葉になさい。言音ことねにできぬ声など不要。天月当主の言葉は天命に等しいのです」

従姉ねえさまはどちらにいらっしゃるのですか」

 おかっぱ頭がわずかに揺れる。振り絞るような声は怯えを隠しきれていないが、黒で染め抜いた月と星の家紋を纏う女性の覇気に、べそをかくことだけは我慢していた。

「おまえに姉などいません。よく覚えておくように」

 石楠が表情一つ変えずに淡々と答えると、座るというより椅子に収まっている小さい体がぴくりと震えた。深紫の瞳が床に足もつかないような幼い後継者を無機質に見下ろす。その高貴な瞳の奥に深い哀しみを押し込めていることを知る者は、数えるほどしかいない。

「かつて紫苑しおんと呼ばれた者は、愚かにも後継の鍛錬を投げ出し、山に身を投げたのです。聖骸の資格を持たぬ娘ですが、それでも天月の血脈に連なる者。火葬し、灰はすでに撒きました。次期後継者のおまえといえど、次にその名を口にすれば容赦しません。よいですね、天月上国?」

 上国の返事はない。さきから変わらず、野暮ったいレンズの後ろから石楠を睨めつけている。唇を噛み締めているが、目には透明なものが込み上げていた。

 華奢な体つきといい、いずれ世の覇者となる気概の片鱗もない実の甥たる上国が、石楠は気に入らない。稀有な才能ユニーカを生まれながらにして有する血筋にありながら、本家への忠誠はほとんど見られない。後継者の権利を早々に石楠へ譲った、上国の父にあたる実兄そっくりだ。同じく天月の姓を返上した上国の後見人でもある次兄の神津こうづといい、三兄妹の男たちは揃いも揃って軟弱で使えない。

 天月の紫瞳しどうに鳶が混じるのも癪だが、その母親譲りの瞳が、弱気なくせして一度決心すると揺るがない。たとえ、天月の当主を前にしても、だ。そのことがさらに男兄弟たちを見ているようで言葉にトゲが増していく。

「天月の血筋をおまえの代で途絶えさせてはなりません。偉大なる母祖の系譜は永劫、続いていていくのです。時がくればおまえも、次なる後継を孕ませる伴侶を見いださねばなりません」

 特殊な家系にも、制限はある。ユニーカが発現するのは、一族の直系氏族のみだ。

 長子の子がもっとも濃く血を継ぎ、天賦の才能が一族に隆盛と力をもたらす。ゆくゆく上国も子を成し、その子へ天月の一族を託す。そこに己の意思が入り込む余地はない。

「……なぜ、ですか……」

 泣きそうな声を諫めるべく石楠が口を開きかけたとき突然、椅子がガタリと動いた。

「紫苑ねえさまはぼくに『いってらっしゃい』と言ってくれたんだ! 『お勉強が終わったらクニくんに会いにいくね』って……。叔母さま、どうして、ねえさまはいなくなったのですか!」

「バシッ!」

 乾いた音がフロアに響く。片側の頬を赤くさせ、涙をこぼしながらまだ、鳶色の目は石楠を睨めつけていた。

「……黙りなさい。その名を言わぬようにと言ったはずです」

 震える手を背中に隠し、石楠が浅い息をつく。自分で着付けたはずの帯がいつも以上に締めつけてくる。も、自分がきつく締めすぎたせいなのだろうか。

 歴代でも類まれなる非凡ユニーカを持って生まれたあの子は、次期当主として申し分ない素質があった。だから、娘には自分の持つすべてを教え込んだ。だのに、もうあの子はいない。

 娘の目はいつも遠くを見ていた。天月でも、母親せきなんでもない。

 ふっと視線を下げ、石楠は腑に落ちたような、腹の底がしんと冷えるような感覚がした。

 丸眼鏡をずらして上国が目を拭っている。昔から、あの子しおんと上国は仲がよかった。八つも歳が離れている娘に、上国はいつもべったりだった。

 ああ、娘はいつも、じょうこくだけを見ていた。甥さえいなければ、あの子は今もきっと。

「夕飯までに天月の歴史を百年ごとに整理し、暗記しておくように。夕飯後、試験します。逃げだすのも結構。ただし、見つけたときは一生、ここに閉じ込めます」

 鳶色の小さな目がわずかに見開いたのを見取って石楠は、胸を潰していたつっかえが小さくなった気がした。無言のまま、階段へ向かいつつ、第九十九代天月家当主は背筋を伸ばす。

 彫刻のように感情が読み取れない顔は、かすかに笑っているようだった。


 翌年、天月家当主の婚約が発表。半年後に男児を出産し、藍玲朱あいれすと名付けた、生後一ヶ月に満たない息子を後継者とすることを宣言し、世間を驚かせた。


 同じ頃、上国は叔父の神津に引き取られ、隠れるように山を降りた。

 寡黙に拍車をかけた少年は荷物もなく、一冊の本だけを脇に抱えていたと、迎えに赴いた神津は回顧している。

 本の題名は、『Eternal Heart ~|The Journey to A-mortal《非死への旅》~』。

 辞典さながらに分厚い本がくり抜かれ、山の土をひとつかみ、隠していたことを知る者はいなかった。

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