二章.謁見
「もうひとつ、条件があります」
淡々と、上座に座したまま当主がそう続ける。あたかも失念していた、と言わんばかりの口調にはしたたかな用意を感じさせた。つつましい銀鼠の着物に袖を通した当主の声は静かながら、どこまでも固く鋭い。
「あたらしい伴侶を娶りなさい、上国」
将軍家が好んでいた最上級の織物を纏い、天然のベニバナから作らせた特上品で彩った唇のつむぐ言葉は刃物だ。
しかし、いつの時も、天に逆らう者はいる。
「それは承知できかねます、叔母上」
優に三十畳を超す床の間で、下段に向かいあった上国はいっさいのためらいなく、要求を突っぱねた。
当主に目通りをかなうための礼装で身を包んだ上国は、若くみられがちな顔をきりりと引き締め、まっすぐ上座を見すえている。眼鏡はなく、鼻に残ったわずかな痕が古傷のようだ。裸眼では五メートル先の当主の顔もぼんやりとしかわからないが、絶えず鉛のような威圧感を浴びせてくるから位置を間違えようがない。自然と寄っていく眉を意識して伸ばしていればいい。
「いま何といいました……?」
あからさまな異義にかすかに息を呑む音がし、『極東の真珠姫』と称された天月
「ですから叔母上、わたしが再婚することはないと申しあげているのです」
まるで、耳の遠い老人へ話聞かせるように繰り返す甥に、膝上で八の字を描く手の震えを堪えきれない。この姿を近衛たちが見れば心底、仰天するだろう。
だが、石楠には切り札がある。
「ならば、桜子に迎えをやるとしましょう」
桜子。その名を舌で転がすだけで、父親たるこの男は動けない。今も、わかりやすいほどに顔を凍りつかせている。あれほど得意げだった眼も揺れていた。優秀な頭脳を必死に回して策を練っているのだろうが、所詮、
「桜子は、私の養子とします。それならばよいでしょう。天月の総力をあげれば、桜子の病は容易く治ります」
「あなた方の総力はずいぶん、愚鈍だ。十三年前からその気であれば、あの子の体もここまで弱ることはなかったかもしれない。相変わらず、心にもないことをおっしゃる叔母上です」
「口を慎みなさい」
石楠の言葉は氷の矢だった。なおも口を開こうとする甥に当主が顎を上げる。
「それ以上、愚弄するなら上国。おまえをここで封じてもいいのですよ」
自信を石膏で固めたような言葉は、ただの脅しではない。上国がたじろげば、その瞬間、控えている近衛が首を取りにくるだろう。天月石楠という女がそういう類いの人間だからこそ、上国は同じ姓を名乗ることを嫌い、海を渡った新世界で名を変え、その名で城を築いた。追放されはしたが、上国の
己の命で娘が助かるなら、惜しむ理由はない。
だが、押し黙ったことに満足したのか、饒舌になっていくこの叔母だけは、信じてはならない。
「桜子は正統なる天月の血筋。いまや、桜子は唯一の後継者となりました。その体は天月のもの。勝手に死なれてはなりません。しかるべき教育を受け、一族を率い……」
あたかも物のように淡々と語る石楠を、狂気だ、と上国は思う。だからすべて聞き流し、猶予を稼げればそれでよかった。
だが次の言葉に、上国の体が動く。
「次の子を孕まわねばなりません」
「あまつきッ!!!」
弾かれたように立ち上がり、上座でふんぞり返る着物へ腕を伸ばす。
だが、正面へと伸ばした手は、激痛とともに畳へ叩きつけられた。
「うぐっ……」
顔の半分が畳にめり込み、横倒しになった視界で当主の姿が物理法則さえ超越するようにこちらを蔑んでいた。微動だにしないが、見えずとも叔母の得意げな顔が目に浮かぶ。
「ふん。吠えるようになりましたか。男というのは所詮、暴力でしか相手を屈伏させるしかできない脳なしどもです」
「はな、せっ……!!」
身じろぎしようにも、石像と化したように体が動かない。頬を刺すひんやりした上物のイグサの匂いが鼻につき、ねじ上げられた左肩が焼けつくように痛い。まんまと当主の策に嵌まった軽率さが腹立たしかった。
「本来なら、この場で封じてやるところですが、恩赦をあたえましょう上国……。
「御意」
聞き覚えのある声とともに体がふっと、軽くなる。背中から重みが消え、上国は激しく咳きこんだ。
「ごほっ……瑞貴ッ!? なぜきみが……?」
ズキズキと脈打つ肩の痛みも忘れ、石楠の斜め向かいに正座した人影を呆然と見つめた。目を逸らす瑞貴の視線の先で、石楠が満足げに上国を見返した。
「瑞貴。おまえから話してやりなさい」
「……わたくしが?」
瑞貴の黒い瞳がわずかに見開いた。
「わたしは……幼少期に御館様に拾われました。以来、お仕えしております」
「きみの親って……天月だったのか……」
上国の問いに瑞貴は答えない。そこにはいつも通りの彼女がいる。上国が太平洋を渡り、ヒューマノイドの時代を切り拓くべく奔走したときに出会った彼女が。妻を亡くし、途方に暮れていた自分たち父娘を支えた彼女が。
今は、自分たちを裏切った者として目の前にいる。
「上国様が大学に在学なさっていた頃から、あなた様の動向を知るべく、お側におりました」
「最初から裏切っていたのかッ!?」
つかみかかる上国を止める者はいない。押し倒され、振り上げた拳を前に瑞貴は抵抗せず、ただ上国を無表情に見つめている。黒曜石のような瞳に紫の瞳が映りこんだ。
「それは、天月のものです。傷をつければどうなるか、よくわかっていますね?」
あざ笑うような石楠の声に、上国は目を閉じて深く息を吐いた。当主の声で我に返るとは皮肉だ。
立ち上がり、薄ら笑みを浮かべた当主に向きあう。
「これで満足か、天月石楠? ぼくからすべてを奪い、信頼していた仲間が裏切り者だと知った。もうじゅうぶんだろう? 天月とはとうに縁も切った。どうしてそうぼくにこだわる? ぼくはただ、穏やかに暮らしたいだけなんだ」
「その身に天月の血を授かりながら、自由を望む、と。……私が許すとでも?」
「跡継ぎならいるだろう!」
「
初めて表情を崩した石楠は瞼を閉じ、こみ上げるものを堪えるように唇が震えてさえいる。当主の声は、子を失った狼の遠吠えのように物悲しく、それでいて乾ききっていた。息を詰めた上国も言葉が出ない。
「
当主の声を聞きつけ、影のように上座の屏風の裏から現れたのは、三人の黒装束だった。気配のいっさいを隠し、畳を踏む足袋は衣擦れの音さえしない。幾度となく身の危険を感じてきた上国でさえ、
当主を囲むように控えた黒装束へ、瑞貴の声が響く。
「さがれ。出ていろ。わたしだけで充分だ」
襖を閉め切る音と短く吐いた石楠の息が重なった。
「背信者はおまえです、上国。娘をたぶらかし、息子を死へ追いやった。だのに、おまえの娘はのうのうと生きている。おまえが生まれてから天月は悲劇ばかりです。あまつさえ、自由を望んでいる」
「ちがう。
「だまりなさいっ!」
襟元に右手を差し入れ、石楠が上国へ光るなにかを放った。座敷のほのか明かりを反射し、放物線を描いて足元へコトリと落ちる。ウズラの卵大の薄桃色をした鉱石のようなそれが瞬刻、宙に映像を結んだ。
「桜子!?」
「天月から逃げられるとおもいましたか? おまえの手など児戯に等しい。側近の身元を見抜けないような若造が出し抜けるとでも?」
ホログラフィに映っていたのは、上国のマンションを上空から見下ろすアングル。切り替わったリビングの映像には、肌色のヒューマノイドと談笑する桜子の姿が鮮明に映し出されている。目線の高さが同じだ。
「バラに、仕掛けたのか」
カメラが切り替わり、今度は無人の部屋が浮かび上がった。桜子のベッドを見下ろす高さは本棚だ。蔵書の半分は、瑞貴からの贈り物で占められている。ホログラフィから贈り主へ視線を移すが、裏切り者の表情は微塵も変わらない。
「自分の浅はかさをおもい知るのです。知恵をめぐらせたところで、おまえは所詮、小童。世間からもてはやされようが、おまえは人間もどきを作るしか脳がない。たかが人間もどきで娘を守り切れると?」
「見ていたなら、わかるだろう。その小童の最高傑作が、あんたから娘を守り抜く」
「エンジニアの解析によれば、戦闘と護衛のみに長けているそうですね。自慢の殺戮機械はどこまで持つやら」
「……ぼくのヒューマノイドにはあらゆる戦法と攻略が叩きこんである。理論だけじゃない。実戦も積ませた。桜子ひとり、背負ってでもあんたの手下から隠し通す」
「さらに疾患が進行すれば自ずと姿を見せるでしょう。おまえの機械は呼吸器を兼ねているかもしれないが、山奥でひっそり看取るような冷徹さは持ち合わせていないでしょう。柔なおまえが作ったのですから」
上国の頭では、当主の言葉に一つの可能性が駆け抜けていた。信じるにはあまりに脆く、縋るにはひたすら信じるしかない。
能面のような顔から、真意は相変わらず読み取れない。石楠はやはりすべてを知っていて、とっさのハッタリも見抜いたのかもしれない。
だがもし、上国が単に戦闘ヒューマノイドを作っていると、
それなら石楠は、ディープスリープについて知らないかもしれない。
「なにが望みだ?
言いかけ、口をつぐんだ。若干、芝居がかっていたが、石楠は気がついた風もなく上座からこちらを見下ろしている。
石楠の望みは明らかだ。目も眩むような時価総額と可能性を秘めた企業など、当主には微々たるものに過ぎない。息子を亡くした今、天月家の直系は二人しか残されていない。
天月石楠にとってすべてより優るは、直系の子。ただそれだけだ。
「……あんたに、桜子は渡さない」
「いいでしょう。あの子の疾患を次代が受け継いでも面倒なだけです」
ハッと、目を見開いた上国を石楠の鋼のような「ただし」が遮る。
「桜子のかわりをというなら、瑞貴を妻となさい。そして血をつなぐのです。それまで、おまえの娘は人質として私が預かります。おまえが私に従っているかぎり、桜子は客人としてもてなします。医者を側に常駐させましょう。それなら上国、おまえも専念できるでしょう?」
「桜子にはぼくとヒューマノイドしかいない。引き離すなんてあんまりだ」
「これは天罰です」
淡々と言い放った言葉を、発した本人は微塵も疑っていない。その紫紺の瞳にはただ、大火のような怒りだけがすべてを焼き尽くさんばかりに逆巻いていた。
「なおも天に逆らうというなら、おまえの手で示しなさい。娘を守るも、安らぎを受け入れるもおまえ次第。私に二言はありません。次に逆らえば、そのときがおまえの最期です」
断罪する当主の言葉は、やはり刃物だった。
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