三章.襲撃 

 例年より、早く訪れた春の兆しは気温の上昇に如実にあらわれる。

 黄昏時のほの明かりの中でも、昼の陽気の余韻がほんわかと残って暖かい。けれど、枯山水の川を描く石を熱するほど太陽は強くなく、屋敷の中央に位置する中庭はどこか冷え冷えとしている。

 春は嫌いだ。縁側を吹き抜けていく冷たさの残る風に、まばたき一つせず宙を見つめる石楠せきなんは思う。

 最上級の檜を惜しみもなく敷き詰め、まるで大理石のように磨きあげられた本縁側は中庭を三辺で囲い、毎朝、これを徹底的に吹きあげるのに選りすぐりの近衛セキュリティでも一時間は下らない。そうやってたゆまぬ努力を注ぎこんでやっと、樹齢が数百年を超える老木はいつまでも威厳を保っていられる。

 屋敷も、組織も本質的には変わらない。子細にまで気をつかい、努力を怠らず、必要とあらば果敢な処置を講じる。それが、平安京まで遡る天月家の第四十四代当主、天月石楠の信念だ。

 だが、世界有数の名家を継ぐ者でも、すべてが思うままにはならない。

「お館さま」

 母屋に面した縁側へ正座した当主の元に、わずかな衣擦れの音も立てず女中が足袋を滑らせて近づく。離れのほうから縁側を渡ってくるその声は控えめながらも澄んでいた。

 石楠まで三メートル。女中が一度立ち止まり、当主の反応をうかがった。拒否に相応する仕草がないか、熟練のセキュリティでもある女中が的確に素早く確かめる。そういった反応がある場合、ただちに立ち去らなければならない。

 幸い、普段通り微動だにしない当主から拒否の意図はなかった。ただ、夕闇へ溶け込むような銀鼠の御召の背中に苛立ちが漣のように広がっている。今夜は荒れるかもしれない、と長く石楠に付き従う女中は直感した。懸念はおくびにも出さず、よりいっそう気を引き締めてから女中は石像のような当主へ頭を下げた。

斧逆奴プロテクター、配置につきました。皇嗣ターゲットさまは寝室でお休みになられております」

 角度にしてきっかり四十五度。頭の位置を保ち、女中が報告する。染みついた作法は、次に当主の反応を得られるまで姿勢を維持することが求められる。たとえ何時間であろうとも。

「お前のは?」

 意外にも、当主の返事は早かった。

 声色をいっさい変えず女中が答える。

「上国さまはリビングにおられます。午後にご帰宅なさってから外出されておりません」

「甥めの企みは順当か?」

「……トレバーの改造をつづけておられます。ですが、わたくしめに詳しい部分までは」

「それではの博士号を修得したのは無駄であったな、瑞貴みずく。お前を甥めに娶らせたのはなんのためだ?」

 春に冬を思い起こさせ、冬には死を刻むような鋭い声。聞く者へ絶対服従の強迫観念を植えつける天命のごとき鋼の声。

「それは……」

 当主らしからぬ矢継ぎ早の問いに、瑞貴はことを悟った。自分が下手を打ったのだろうか。そうだとしたらあの方はそれを見越して、自分をここへ戻させたのかもしれない。償いを果たすために。

 そう思うと、瑞貴の心内がぽっと、この春の夕暮れのような温かさを感じた。不安も恐怖も、包みこまれるような安堵の前には、庭の玉石に隠れた些細な影でしかない。年端もいかないうちに天月の家へ拾われた日々で、一度たりとも感じることはなかった心の平穏だった。

 不思議なほど穏やかな胸の内を、目の前の当主が知ることはない。すべてを知る天命でも、人の心までは読み通せない。だからこのままの姿勢で逝かせてほしい。当主には顔を見られたくなかった。

 知ってか知らずか、当主の言葉が続く。瑞貴への質問というより、己の心を吐露するに近い。ここまで当主が感情を露わにするのは珍しい。やはり今宵は、荒れるのだろう。

「お前が天月の血を胎むためであろう。この幾月、甥めの部屋にすら入ってなかろう?」

 

 それが事実だが、当主がそう認識しているのなら訂正する必要はない。

「上国さまはわたしくめなど、眼中にはございません」

 瑞貴の研ぎ澄まされた知覚が、すでに母屋で位置についた近衛セキュリティの存在を捉えていた。襖の向こうで息を潜め、いつでも当主の盾となるために。遠いが、離れの屋根からは視線も感じる。自分の頭に照準が合わさるのはこんな感覚か、と女中は心で淡々と分析した。

 当主からただならぬ圧力が自分へ向けられている。卒倒してしまえそうなほど強い怒気は、けれど瑞貴に沈黙を命じるものではない。当主が怒りをぶつけられる相手は瑞貴の他にいない。徹底した秘密主義の弊害は今、瑞貴に貴重な時間をあたえてくれている。

 いつ身を託しても悔いはないが、あの方のため時間を稼がなければならない。あの方が一番たいせつな人と過ごすことのできる最後のひとときを、少しでも長く。

「ご自宅では皇嗣さまのお部屋か、常に工房へこもっていらっしゃいます。あの方には、秋沙さましか心に……」

 還暦間近とは思えない身のこなしで当主の手が伸び、「バチンッ!」と頬を打つ乾いた音が暗がりの庭に木霊していく。

「口を慎めっ!!」

 低頭したままの瑞貴には仁王立ちになる当主の裾から下しか見えない。そのまま足袋が視界を覆うまで頭を下げる。

「失礼いたしました、お館様」

「お前も甥めにうつつを抜かすか、斧逆奴おのさかどおさであった瑞貴よ」

 激昂から一転、当主の声が冷ややかなものへ戻った。普段よりさらに鋭い氷のごとき刃が女中へ刺さる。

 辺りはいつしかすっかり陽が暮れ、和庭を包む橙色が夜の帳へと移ろっていた。ひときわ鋭く立ちのぼった蓬莱石は怪石のように暗中に潜み、不老不死の島を探す舟のかたちをした石はとうに暗闇へ沈んでいる。厚い雲が焔のようだった夕空を覆いはじめ、空気中の湿度から、平伏した瑞貴には雨が近いことを察した。

「上国さまは、常にさきを歩いておられます」

 当主が腰を下ろす気配はない。女中を見下ろしたまま、その弁を切って捨てるタイミングを待っているのだろう。当主のこと、聞き遂げるつもりはさらさらないことくらい、瑞貴は理解していた。どこかの時点で堪忍を超え、その口から勅命が下る。そのときが、瑞貴の最期だ。

 の進捗状況はもはや瑞貴の知るところにない。この作戦の副官が瑞貴ということにはなっているが、どこまで本当かわからなくなった。上国を見張る工作員プロテクターの声が硬かったのは、既に瑞貴のことを当主に聞かされていたからかもしれない。石楠が瑞貴の"裏切り"に気づき、わざと放っておいたとすれば、今ごろ現場が動いている可能性もある。石楠が苛立ちを隠さないところを見るに、上国たちはまだ囚われてなさそうだが。

 トビ色の瞳が瑞貴の頭をよぎり、つい、頬がゆるむ。今の瑞貴には二人の無事を祈るしかできない。

「あの方が礎を築いた現在のヒューマノイディックス理論では、いまお考えの概要をつかむこともままなりません。あの方はすでに……未来を、見すえておられます」

「未来、とな」

 天月家の当主が鼻を鳴らすことはない。ただ蔑むだけだ。真白な足袋が瑞貴の視界から向きを変える。

「ならば、甥めはなぜこうも刃向かう? 私は、桜子の病を治してやろうと言うてやっておるのだ。上場すらしておらぬ小癪な企業を差し出し、時間を切望したあやつはなにを考えておるのだ。桜子こそ、わが天月の未来。ひいては甥めの未来であろうに、なぜそれが理解できぬ?」

 当主の声は困惑を隠しきれていなかった。上国と対談したあの日以来、烈火のごとく激怒した当主は時折、うわごとのように同じ言葉を繰り返した。『桜子こそ、わが天月の未来』と。

 だがその未来に、桜子の未来など有りはしない。

 だからあの方が決断した理由を、天月家に仕えてきた瑞貴は理解できるような気がした。たとえその方法に異常性があったとしても。

「お館様」

 冷たい床にこすりつけた額をわずかに上げると、足袋はまだ庭のほうを向いていた。当主の命令がなければ屋敷のだれひとり、動くことはない。だが外の工作員は別だ。

 古来、朝廷の警護にあたった武士たち検非違使の末裔は今、近代武装を纏い、かみめいを実行すべく待機している。そしてかみの号がなくとも、最適なタイミングを判断し、自ら作戦を実行する。

 かつて彼らプロテクターを率いた瑞貴の正確な体内時計は、街に夜闇が訪れた今、動き始める黒装束の姿を告げていた。時間稼ぎもここまでだ。

「皇嗣さまをお育てになるつもりはないのでございましょう。皇嗣さまはあくまで。さしずめ、御家あまつきの血を胎むための人形、といったところでしょうか」

「申すようになったな、瑞貴。ゆえに私を裏切ったのか。拾ってやった恩は忘れたか」

 白い足袋が向き直る。

 赦しを乞うでもなく、すっと頭を上げた女中は正面から紫紺の瞳を見すえた。

「わたくしめへの御恩はけっしてお返しできるものではございません。お館様はわたくしめを塵溜めからお救いになり、御身でお育てになりました。であるからこそ、わたくしめにはお館様のご決断が理解できないのです」

「……わからぬであろうな」

 吐息のような当主の声が桜まじに乗って消えていった。月のない春の闇の、一人で住むにはあまりに広い和邸の縁側が足元から照らす光に刹那、瑞貴の知る厳しくも血の通った石楠の横顔が浮かぶ。だがその顔は老い、きりりしゃんと花びらを立てる石楠花シャクナゲの面影は薄い。名家を背負う重圧に、白く、石像のように固まった美しかった顔は、こびりついた妬みが般若のごとき異形と化している。

 ふいに、にじり寄る気配を察し、瑞貴は自分のが終わりを迎えたことを悟った。遠く、翳り始めた夜空を仰いだあるじの声は威厳に満ちていながら、どこまでも空虚なものに聞こえた。

「天月の血は絶やしてはならぬ。われらを流れる祝福の血脈は、あまねく世を変えせしめた。これまでも、これからも、天月の後継が世界に変革と秩序をもたらす。それがわれらの運命さだめだ。……"呪い"と、言われようとな」

 瑞貴の着物の袖を風が揺らしていく。暗めの肌色をした着物は、石楠が選んでくれたものだった。水柿みずがきの無地が瑞貴には似合う、とあの頃の当主は頷いてくれたことを瑞貴は思い返していた。袖を通した瑞貴の髪を揺らした風も、こんな春の冷たい、けれど希望に満ちた明るい風だった。

 春風に包まれ、瑞貴はまぶたを閉じる。

 まぶたの裏に浮かんだ、一度たりとも笑顔を見せてはくれなかった眼鏡の細面の幸を願いながら。


 * * *


 フローリングの一枚をずらし、反応したセンサが腰の高さほどの透明な円筒を床下からせり上げる。太い試験管のような溶液槽にはエメラルドグリーンの液体が三分の二まで満たされ、底からの明かりがまるで蛍光灯のように容器を光らせている。透明度の高い〈リキッド〉越しに照明を落としたリビングルームが、湾曲した筒のせいで歪んで見えた。

 |パーフルオロカーボンベース・ディープスリープリキッド《DS-Liquid》の状態を確かめるため容器の上部へタブレット端末を掲げた上国が青白い顔をふっと、上げた。銀縁眼鏡の四角いレンズの奥では青あざのような濃い隈が深い疲労を強調している。その上で光を絶やさないトビ色の瞳が束の間、宙をさまよった。

「〈ピット〉の位置情報を更新しました。デコイを含め、七百五カ所ですか。よくこれだけ場所を確保しましたね。『金にものを言わせる』とはこういうことですね。まさかシークレットまであったり……ジョウコクさま?」

 近づいてきたおしゃべりな人型が白衣姿の異変に気づくと、したまま、首をかしげてみせた。

「ん? なんでもないよ、T.L.E.B.U.R.トレバー。〈ピット〉は今後、唯一きみが信頼できる工房ピットになるんだ。売却した以上、uniHumaユニーカヒューマノディックスのサービスセンターをつかう訳にはいかないからね。まだ増やすつもりだけど、正直、どれだけあっても不安だよ」

「創業者たる貴方様の御名をチラつかせば、忠誠心のあるスタッフが贔屓してくれるのでは?」

「ぼくは完全に身を引いたんだ。それに知ってるだろ? 忠誠なんて存在しない。だからジョークはよしてくれ。あと、その言い方も。それじゃあまるで……」

「ミズク様のよう、ですか」

 トレバーが引き取った言葉に、苛立ちを隠そうともせず上国がタブレットを容器の上へバンッと置いた。

「その名前を言うなって、頼んだはずだ。〈頼みAsk〉が聞けないなら〈命令Order〉に差しかえてもいいんだからな?」

「つまり、御当主のように?」

「トレバッ!!」

 胸ぐらをつかもうと伸ばした手のさきにがないことに気づくより速く、合成樹脂のひんやりした肌触りが上国の頸部を左右から挟んでいた。トレバーの両脚にヘッドロックされたまま、床へ引き倒される。

 一連の動きは驚くほど滑らかだ。平均体重より軽い成人男性と、〈リキッド〉注入前で既に百キロを超すヒューマノイドがもつれ合って倒れたにもかかわらず、かすかに床が軋む程度の音しかしない。真夜中の上空を行く国際便のエンジンのほうがよっぽど大きい。

 しっ、と口に人差し指を当てるトレバーは、外した頭部を片腕で転がしながら上国の顔の近くでささやいた。

「スキャニングです。出どころはさきほどよりちかい。屋上のようです」

「……彼らかい?」

「おそらく。圧力センサの足跡が四つ、階段へ向かっています。訓練された動きですね。ミズク様の情報どおり、二人組ツーマンセルです」

 ヒューマノイドが口にした名前に顔をしかめながらも上国はそれ以上、追及しなかった。

「離してくれ。彼らがくるまえに桜子を起こさないと」

「お待ちを。途中にはすてきなサプライズを仕掛けてあります。それでじゅうぶん時間稼ぎが……」

 中性的な声が言い終わらないうちに「ドンッ」と、パイプがいくつもぶら下がった天井のほうからくぐもった音が伝わる。

 トレバーの脚に挟まれたまま、上国が眉をひそめる。

「いまの、爆発音だよな? やけにちかいけど」

「ご安心を。殺傷能力はありませんし、お客様はまだ最上階です。無人のタワーマンションは音が響くので」

「一棟ごと買いあげといてよかったよ。……きみに対戦闘スキルを組み込んだのは、まちがいだったかもな」

「まだ間に合いますよ、ジョウコクさま?」

 床に転がったヒューマノイドの頭が上国に面と向かったまま唇を動かす。無表情の白い顔が本当に言いたいことを察した上国は、自分にため息をつきたくなった。ヒューマノイドの表情をごく自然に読めるような人間は、くらいだろう。

 トレバーの顔に表情がないのは、上国が表情筋を省いたからだ。人間らしい身の熟しを実現するだけでも、上国が手がけた|汎用ヒューマノイド・オペレーションシステム《GHoS》の演算処理は膨大なリソースを必要とする。有機少部品ボディポブスに演算の大部分を分散することでいくらか突破口を作ったものの、駆動に余裕があるとまではいえない。ましてや、トレバーは汎用ヒューマノイドにはない、特殊機能を搭載している。少しでもリソースを節約できるなら、削るに越したことはない。

 ギブアップするように上国がトレバーの脚を叩くと、今度はすんなり離してくれた。怪我はなさそうだが、首のまわりがジンジンしている。徹夜続きが原因ではあるが、いきなりプロレス技を掛けてきたヒューマノイドにも責はある。

 首をさすりながら立ち上がると、トレバーはスタントマンさながらに脚を蹴り出し、その反動のみで易々と体勢を立て直した。ボディの左腕で床の右腕を装着し、ヘルメットよろしく、自分で自分の頭部をカッチリ嵌め戻した。

「二人組はペントハウスで"気絶迷路"を楽しんでいるようです。ジョウコクさま、いまのうちにワタシの仕上げを。ミズク様の覚悟が無駄になってしまいます」

「あの女は自分から天月邸にもどったんだ。当主も馬鹿じゃない。勘づいて、とっとと封じられればいい……」

「『パパ? 『あの女』って瑞貴おねえさんのこと?』」

 眠たげな声に上国が驚いて手首を裏返すと、シルバーのバングルからほの白いホログラフィがボゥっと宙に映像を結んだ。

「桜子、どうした? ぼくたちの会話がうるさかった?」

 楓の葉をあしらったアクセサリーのプロジェクターから、ハガキ大のホログラフィに肩から上の桜子が映っていた。寝室の桜子とはいつも通信がつながっているが、基本、お互いのマイクはミュートにしている。トレバーに際に触れてしまったのだろう。

 綿雲が浮かぶ空色の枕カバーに仰向けになった桜子の黒髪が、痩けた顔の輪郭を際立たせている。錦糸のように艶やかだった髪は乾いて枝毛がところどころ覗いていた。上国が毎日、梳き、保湿と修復に優れた特製シャンプーとトリートメントで手入れしても、以前のようには戻らなかった。桜子本人は「気にしない」と笑うが、じき十三歳を迎える年頃の子が気にしない訳がない。母・秋沙の面影を残す黒の長髪は桜子いちばんの自慢だったのだからなおさらだ。

 気をつかう桜子の笑顔を見るたび、上国の心は無数の針に刺されるようだった。儚い娘の姿が、もうこの世に居ない妻の絵姿と重なり、上国を底なしの孤独へ落としていく。どこまでも落下し続けるはるか頭上を、手をつないだ秋沙と桜子が昇っていく。そんな夢を見る頻度が増えていた。だから上国は眠ることができなかった。

 その日々も、あと数時間で終わる。

「『ううん。とつぜんパパの声がしたから……』」

 薄茶色の瞳がきょろきょろと動き回る。視線入力装置が彼女のインターフェイスになり、目の動きでリビングルームの上国を呼び、インターネットをサーフする。

 今の桜子が自由に動かせるのは目と口しかない。かろうじて自律神経への侵食を投薬で防いでいるが、疾患の進行に追いつかなくなりつつある。この病に先進的なイタリアとドイツ、アメリカの神経専門医はすでに万策を尽くしたという。

 副作用で鼻呼吸がしづらい桜子が口呼吸に頼るため、桃色の唇がヒビ割れていた。薄く開いたその口へ流れ込む息が途切れる光景を頭から追い払い、次はどのリップクリームを使うべきかを考える。

「いまね、あしたの花見の予行演習をトレバーとしてたんだよ。余興のね。騒いだ拍子にマイクがオンになったのかも」

 肩をすくめてから上国がトレバーへ手首のアクセサリーを向けた。唇の動きだけで"話をあわせて"と頼む創造主じょうこくにちらりと目をやり、ヒューマノイドが頭部を取り外して指先で回した。

「『トレバーったら、バスケのつもり? あまり無茶させたらだめよ、パパ』」

 ワタシもNBAに行けますかね、と自分の頭を脇に抱えるヒューマノイドを余所に上国がカメラを戻した。

「わかった、約束するよ。だから桜子も、あしたに備えて早く寝て。すぐ呼吸器、着けにいくから。……長い一日になるからね」

「『はーい。おやすみなさい、パパ、トレバー』」

「よき夢を。お嬢さまマイディア

 ホログラフィを切り、上国が「ほら、懸垂して」と天井を指す。近くのテーブルに頭部を置いたトレバーが天井のパイプの真下に立つと、わずかに膝を曲げ、ソーセージを大きくしたような上腕と下腕の間がくびれた白い腕をあげる。軽々とジャンプしたヒューマノイドがパイプをつかむと、テーブルに並べた工具を手に取った上国が胴体の腹のあたりで工具を動かした。ガチャッ、と鳴っては、ヒューマノイドの身長が伸びていく。

「……なにが言いたい?」

「ワタシの表情を読むとはさすがです。サクラコさまへのウソのつき方といい、ジョウコク様は進化していらっしゃる」

「進化論でいうなら、桜子のほうが生物学的にも人としても優れているよ。だからあの子を未来へ生かすのは……当然だ」

「本当にそうでしょうか」

 上国の工具がジジィ、と鳴り、トレバーの下半身だけが切り離されて器用に床へ足をついた。二本の脚と、子ども一人が収まる椀状の下腹部がひょこひょこと横歩きして感触を確かめている。上半身とつながったカラフルなケーブルの束が動作にあわせて揺れる。

「ディベートは済んだはずだ。トレバー」

 ヘソから上だけがぶらさがった半身のヒューマノイドを眺め、角縁メガネが目を細めた。

「きみは桜子を守って深眠ディープスリープを維持する。ぼくは情報収集しながらピットの整備と増設、あと偽装だ。桜子の治療法が確立次第、ぼくから連絡する。治療を国外でおこなうよう手配したら、落ちあって桜子を起こし、移動。桜子が無事、歩けるようになったらどこか天月の手が届かないところで過ごそう。ワシントンがいいね。D.C.の桜もきれいだから気にいるよ。なんてったってあそこで秋沙に出逢ったんだ。また三人で暮らせる。いい作戦だろ?」

「御家がじっさい、成し遂げる可能性は低くありませんが」

 懸垂したままのトレバーが無表情に上国を見下ろす。半身のヒューマノイドをキッとにらむと、上国が歩き回る下半身から垂れ下がったケーブルを二本つかみ、DS-Liquidのタンクへつなげた。

「実証がとれたらそれでもいい。桜子を叔母にわたす。返さないだろうから

「ワタシを量産してルナ・メディック社を襲撃するのはいささか過激かと……」

「トレバーッ!!」

 人工の黒眼が上国を見つめ返す。なんの感情も読みとれない無機質な瞳に、やつれて青ざめ、隈の目立つ男の姿が映っている。血走った目はまるで、狂人だ。

 バングルが通信を求めるライトを点滅させると、低い声で「充てんが終わったらあまり動くんじゃないぞ」とヒューマノイドの顔を指さして上国が背を向けた。

 桜子の部屋へ向かうシワが目立つ白衣を目で追いかけながら、トレバーはディープスリープコクーンDSCを満たしていく液体に注意を払いつつ、上国の言うを思い返していた。

 深眠状態の桜子を腹に抱え、逃避行をすることにトレバーの不安はなかった。子守りヒューマノイドとして設計されたトレバーは、皮肉にも、上国の名を世界に知らしめた汎用機ではない。桜子を守護する、という至上命令サプリームオーダーが組み込まれた特化型ヒューマノイドだ。桜子が生まれて以来、あらゆる襲撃、警護の仕方、簡単な救護のやり方まで知識を積み重ねたトレバーには、これからの日々もこれまでとさほど変わらない。ボディは上国の力が及ぶ範囲で最適な物へと取り替えてある。

 問題はジョウコク様だ、とヒューマノイドは評価していた。

 作戦通りにいったとしても、上国は天月家に捕らわれるだろう。警察の目は誤魔化せても、天月石楠は容易く欺ける相手ではない。跡継ぎサクラコ上国の処遇は、ヒューマノイドであるトレバーにも予想がついた。殺しはしない、と上国本人は楽観視しているが、トレバーの見立てでは身柄拘束後、二十四時間以内に殺害される可能性が六十八%。勘の鋭い天月家の当主なら、桜子を逃がしたトレバーを追い、手に入れるほうが確実と考えるに違いない。強情な甥を後釜に据えるよりも。

 上国の生死は間接的に桜子の生死に関わる。トレバーにとって、それは看過できないことだった。

「……おや。もうひとり、お客様ですか」

 マンションの隅々に仕掛けたセンサが、未だ最上階を彷徨っている二人とは別の来訪者をヒューマノイドへ告げた。屋上ではなく一階のエントランスを堂々と突っ切る来客のIDを検知したトレバーが何度か金属のまぶたを打ち鳴らす。

「センサでもイカれたか?」

 声のしたほうに顔を向けると、桜子をお姫様だっこした上国が歩いてくるところだった。

 呆れと疲れを色濃く残した細面の腕で、体にぴったり合ったウェットスーツに着がえた桜子がぐったりしている。腰まである黒髪をシニョンに束ねた姿はまるで儀式へ捧げる贄のようだ。灯りを落としたリビングでは余計、鼻と口を覆うマスクから覗いた死人しびとのような青白い顔が目立つ。

 両腕を軽くしならせ、トレバーが手で着地。足代わりに上半身を移動させると、タンクにつながれたケーブルを引き抜いた。

「全システムに異常ありません。リキッド内のイオン勾配、安定しています」

「もう一度セルフチェックだ。さっき、オートロックの解除通知があった。すぐ消えたけど」

 コクーンに桜子の足を浸しながら上国がじろりと、トレバーを見下ろす。床で逆立ちになったヒューマノイドが曲げた腕の反動だけで飛び上がると、天井からぶら下がったまま、片手を差し出した。関節部に切れ目の走る手には、いつの間にか上国のタブレット端末が載っている。

「最終確認はご自身の目でお確かめを。中止はいまならまだ、間に合います」

「なにを言ってるトレバー。桜子には深眠初期移行用の薬を飲ませたんだ。これから眠りが深くなって最終的に……」

「心肺停止状態へ。仮死状態よりも深い生と死の瀬戸際に維持し、肉体の老化を限りなく遅延させ、細胞内に浸透したリキッドの電位を調整することにより、損傷の少ない覚醒を期待できる。ただし、神経叢の回復は不確定要素を排除できない。これが現時点での、JDSSジョウコク・ディープスリープ・システムプロトコルの概要です」

 淀みなく説明し終えたトレバーの言わんとするところを理解したのか、短く息を吐いた上国は、コクーンの淵に桜子を腰掛け、片腕で華奢な体を支えながらヒューマノイドが差し出した端末に目を通していく。

「目覚めたあと、脳にダメージを残す可能性はぼくもわかってる。でも、それは深眠の長さに関係するんだ。ぼくの予想では、十年もしないうちに桜子の臨床試験が始まる。きみの"コクーン"は余裕をもって三十年、ピットでのメンテナンスをつづければ、半世紀は稼働できる設計だけど、そんなにかかるはずはないんだ。数年なら、神経の可塑性でじゅうぶん、元通りになる」

 それは上国の希望的観測に過ぎない、とヒューマノイドは分析する。

 桜子が生後まもなく余命宣告されて以来、上国はあらゆる手を使い、治療の望みを探し続けた。だが、"ヒューマノイドの父"でさえ疾病の前に無力だった。

 その上国だからこそ、天月家傘下の遺伝子治療企業がで「治療法を発見した」ことを見抜けたのだろう。そうでなければ、天月の当主に桜子を預けていたかもしれない。

 上国は、自らの希望だけで娘を理論段階の仮死状態にしようとしている。大きな賭けだ。だが、その予測を否定できる者はいない。未来は常に可能性に満ち、ヒューマノイドでさえ読み切れない。

 だからトレバーは、とぼけてみせることにした。

「そしてワタシは文字通り、お払い箱、と」

「きみをお払い箱にしたら、ぼくがこの子にお払い箱にされるよ。十年、トレバーは隠れて待ってくれればいい。ぜんぶ済んだら、パーツを変えてまた三人で暮らそう」

 タブレットにいくつかの入力を済ますと、指でサインした上国は端末をトレバーに突き返した。ヒューマノイドの手のひらで端末のディスプレイが早送りのように映り、データがトレバーへ流れ込む。

(研究の生データ、未発表の理論……すべてワタシに? 隠し口座の番号まで)

 ヒューマノイドの心を読んだように、「取引材料だ。きみが捕まったときはデータを渡すといい。よっぽどのバカじゃない限りは価値がわかるだろう」と説明した上国がトレバーへ手を貸すよう桜子に目をやる。トレバーがタブレット端末をテーブルへ放って桜子の肩を支えると、上国が右腕のバングルを外した。

「これはぼくが死んだときの保険だ。桜子が目覚めたら渡してほしい。松前の家へのコンパスにもなってる。そこにぼくが……いや、やっぱり。あそこはだれにも穢されたくない。とにかく、ほとんどの想い出は燃えてしまうから、さびしがったら使って」

 判断は任せるよ、と差し出した上国から輪が三つ、つながったような装飾品を受け取り、ヒューマノイドが目をぱちくりさせる。

「アイサさまのバングルではありませんか。奥方はよく、『三人は輪廻を超えてつながっている』とおっしゃっていました。よろしいのですか」

「ああ。ぼくより、桜子が持っていたほうが、彼女もよろこぶよ」

「承知しました」

 アクセサリーを受けとったトレバーが胸部のポッドに入れると、天井を見あげた。

「お客様のほうは、ひとフロア下りていらっしゃいましたね。邂逅まで十五分、といったところかと」

「なら急がなきゃ」

 袖を捲りあげた上国が桜子の体を慎重にエメラルドグリーンのDS-Liquidへ浸していく。並行してトレバーは電解質中から桜子のバイタルを計測し、JDSSにコネクトしていく。バイタル値が乱高下しているのは上国の腕もリキッドに触れているからだ。もちろん、リキッドは無菌に近い状態を保つ必要がある。体を深眠状態に慣らす時間も要る。だが、設備も時間も、いまはない。

 計画では後、最寄りのピットでリキッドを再充填し、バイタルを診ながら桜子の眠りを深くしていく予定だ。だからリキッドに上国の汗が混じっても支障はない。

 液体をかき混ぜる音だけが広がる静寂の中、負担がない程度に体を丸めた桜子は既に首から下までが水面に沈んでいる。簡易人工呼吸器のネーザルマスクを、トレバー内蔵の物と取り替えた上国が漆黒の髪をなで、額に口づける。

「きっとすぐに会えるよ……そしたら花見にいこう、桜子」

「お邪魔して申し訳ないですがジョウコクさま。ゲストのお二人、速度を上げました。まもなくこのフロアに到着します」

 ヒューマノイドが陶磁のような白から暗黒色に変わっていく。全身のケミカルスキンが、周囲にもっとも溶けこみやすい迷彩柄を選び、子守りシッター戦闘員コンバッタントへと様変わりする。

 わかった、と頷いた上国が素早く、けれど丁寧に桜子の顔をリキッドへ降ろした。その腕が水面を離れたのを見計らってトレバーはバイタルのモニタリング精度を高めていく。投薬の影響で桜子の心拍と呼吸が減少し続けているが、ピットへ到着するぶんには問題ない。

 上下の腹囲をレーザーサイトでガイドし、トレバーが天井のパイプから手を離す。「ガチャッ」と半身が接合すると、立て続けに金属音がしてヒューマノイドの胴体がオートボルトによって固定されていく。解除するには、トレバーの指か上国の所持する工具しかない。こじ開けようとすればヒューマノイドの鉄拳が飛んでくる。

「この二体は、きみのデコイだ。外見も内部構造もほぼ同じだけど、発声はしない。コクーンの代わりに代換心肺を搭載してる。スキャンすれば、鼓動と熱が感知されるようにしたから、あたかも人が入っているようにみえる」

「ジョウコクさま、その臓器はもしやではありませんね?」

「心配しなくていい。ぼくだって、生きた人間をつかうほど外道じゃないんだ」

 テーブルのタブレット端末を叩いた上国の傍で、フローリングがパズルのようにズレて人の背丈ほどある二つの透明なポッドがせり上がった。ポッドのヴェールが消えると、外見がまったく同じな二体のヒューマノイドがぬっと、並び立った。

「まるでドッペルゲンガーに会ったようです。ワタシと似ても似つきませんが。ふむ、通信はできないのですね」

「似てないなんて言うのはきみくらいだよ。そう、通信機能は載せてない。バラされたときに余計な手がかりを与えたくないからね。彼らは身代わりだから」

 瓜二つのヒューマノイドはトレバーなどいないかのように、脇を素通りしていく。玄関と窓へそれぞれ向かっているところを見るに、襲撃に備える初歩は理解しているらしい。

 ヒューマノイドの足音が散っていく中、創造主は眼鏡を外すと少しばかり背が高い創造物と目を合わせた。窪んだ目元がきらりと室内灯の光を反射した。

「いいか、トレバー? なにがあってもぼくを探すんじゃない。助けにも来るな。治療法のニュースはすぐ広まる。世界中には桜子とおなじ病気で苦しんでいる人も多いから。だから、ぼくのほうが探しにいく。言うまでもないけど、天月の者には気をつけるんだ。うちの会社の人間も信用してはダメだ。きみはとにかく桜子を守り抜け。それと……それと……」

「ジョウコクさま」

 全身真っ黒になったトレバーが肩に手を置く。

「数年の辛抱でしょう? そのときは桜子さまとお花見、しましょう」

 目頭を押さえた上国の肩をもう一回たたくと、マンション中に張り巡らせたセンサに注意を向けた。

 上国へ報告せずにいた三人目の来客は、エレベーターを降りたあと、まっすぐこちらに向かってきている。廊下に仕掛けた上国のトラップを難なく掻い潜り、影のように忍び寄る人型は黒子のような衣装を纏っているにもかかわらず、端正で感情が読めない顔を覆うつもりはないようだった。

 この不確定要素は予想が難しかった。単に応援としてやってきたのか、それとも別の意図を持っての行動か。壁を蹴り、天井へ腹這いになった三人目の来訪者は玄関に狙いを定めているようにも、まもなくフロアに到着する二人組を待ち構えているようにも見える。どちらにせよ、トレバーの要注意対象に変わらない。

「ジョウコクさま」

 ヒューマノイドの創造主はリビングを取り囲むガラスの前に立っていた。外では、どっぷりと陽が暮れた摩天楼たちが夜の姿を見せている。道路を流れる車列が光る血液のようで、高架橋を駆けるリニアは早送りした血流だ。

 薄汚れた白衣を纏う男の手にありきたりなボタン式の起爆装置が握られている。飾りもギミックも、安全装置さえ付いていない質素な装置トリガーに、トレバーは創造主がどれほど消耗していたか改めて思い知った。起爆装置に遊び心を加える余裕さえ、上国には残されていなかった。

 窓の外を見つめる白衣に歩み寄りながらヒューマノイドがとぼけてみせる。

からはどうされるのです? 獄中生活に差し入れをするのは、この通り、身重なので」

「……起こさないでくれ」

「ここのところお疲れでしょうから、ぜひそうしたいのですが……」

「いやトレバー。桜子だよ。もし、きみが修復不可になって、まだ治療法がなかったらそのときは桜子を……」

「お伏せっ!!」

 トレバーが上国を床へ引き倒すと同時に、玄関に控えた一体の囮ヒューマノイドが高電圧やら爆薬やらを仕込んだドアを突き破って飛び出す。爆発音が部屋を揺らし、煙が充満した。スプリンクラーが作動して水をばら撒くが、通報装置はあらかじめ上国が切ってある。

 廊下のカメラが手負いのヒューマノイドを映していた。衝撃で片腕がショートし、足元がおぼつかない。もって一日そこらか、と上国を立たせながらトレバーが淡々と計算する。

「そいつはいいっ! 叛逆者とターゲットを……うっ」

 爆発に巻き込まれたもう一人へ指示し、室内へ踏みこんだ黒装束の腹へ残ったデコイのヒューマノイドが手刀を喰らわす。うめき声を漏らした隙に無表情のヒューマノイドが背後から羽交い締めにした。これだけでも「ヒューマノイドは殺人マシンだ」と噂が広まりかねない。相手の無力化が限界だった。

 廊下では、三メートルは吹き飛ばされたはずの黒装束だが、人間離れした身のこなしで受け身を取ったあと、手負いのヒューマノイドを追いかけていた。が、指示が届くと、身を翻す寸前、懐から青く光る物を投擲。宙でトラバサミのように割れるとヒューマノイドの背中に嚙みついた。刹那、トレバーを模した囮が倒れ伏し、痙攣する。さしずめ、対ヒューマノイド用テーザーガンだ。完全にダウンさせないあたりといい、天月の技術者たちは早くも買収した知的財産を元にヒューマノイドのリバースエンジニアリングに成果を上げているらしい。あのテーザーガンが当たれば、ただでさえ脆弱なディープスリープのシステムが故障するのは目に見えている。

 トレバーが割りこんだハックした黒装束の通信からは言葉以外、情報を読み取れないが、伝え聞く天月の近衛セキュリティはトレバーの予想以上に手強そうだった。

「人間もどきめっ!」

 部屋の黒装束を拘束していたヒューマノイドも、突然痙攣すると崩れ落ちた。蹴り飛ばす黒装束の背中にはミニサイズのテーザートラバサミが光っている。暖簾にも見えるヴェール越しに室内を見回す目が見えた。

「いそげっ!」

 上国が立ち上がるより速く、トレバーは地を這う虫のような動きで移動を開始。腹を上に四つんばいで高速移動する姿はホラー以外のなにものではないが、の安全を考慮した回避行動コンバットウォークだから仕方ない。

 桜子の部屋へ滑りこみ、センサをそばだてる。計画通り、上国は逃げずにリーダーらしい近衛セキュリティへ拘束され、戻ってきたもう一人と家捜しを始めた。他の追っ手がいなければ、絶望した父親ジョウコクが狂気に駆られて自宅を爆破する手だてになっている。すでに、となる子ども部屋の至る所に爆薬が仕掛けてあった。桜子に気づかれないよう、乾くとニスのように艶が出る液体爆薬を本棚に塗り、ぬいぐるみ代わりにしてきたロボットはいくつか、部品を信管へ替えてある。

 来日以来、桜子が過ごしてきた部屋を見回し、アーミーカラーのトレバーはまぶたを閉じた。毎朝、カーテンを開け、着替えを手伝った空色のベッド。部屋を取り囲む本棚の書籍は一言一句、読み聞かせたトーンのまま記憶している。ベッドの脇で充電中の、羽を畳んだテントウムシのような全地形対応補助椅子ヴィークルは歩行が困難になった桜子のお気に入りだった。

 愛用のヴィークルへ、部屋の床下に隠したボトルから液体爆薬を振りかけながら、言いつけに背いて桜子を連れ出し、近くの河原で飛ばしたことをトレバーは誇らしくおもい返した。あんなに楽しそうな笑顔が、いまは自分の腹に押し込まれている。ステンレスの容器をまるで紙のように握りつぶす手が腹に触れた。

 と、リビングの話し声をセンサが捉える。

「ぼくはもうすべて失ったんだ。放っておいてくれ」

「御上は貴様が生きているだけで目障りだとおっしゃっておられる」

「……ぼくを殺すのか?」

「そうすればお守りの"人間もどき"も姿をあらわすだろう。このようなヤワなやつではないはずだ」

 続く金属音はデコイを床へ無造作に転がすものだ。部屋の中央にしゃがんだトレバーの拳がキリリと鳴る。

「きみらはうちのヒューマノイドをわかってないな。"もどき"なのは外見だけじゃない。中身はあれで、どんな人間より利己的だよ。が合理的だと判断すれば、ぼくのことなど簡単に見捨てる。なぜって、ぼくがそう作ったからだ」

「マシンは人間をたすける。それが大原則のはずだ」

「ふんっ。ロボット三原則かい。きみたちの情報はアップデートされていないらしい。それとも当主に似て過去ばかり……」

(ジョウコクさま!)

 上国の声がかすれ、心拍数が跳ね上がる。センサで感じ取ったトレバーがおもわず助けに行きかけ、足を止めた。トレバーが位置についてしばらく経つ。起爆装置を押していい頃合いだ。

 アイノイドを透視モードにしたトレバーはすぐ原因がわかった。喉をつかまれている上国の手に起爆装置がない。トレバーが見回すと、倒れたテーブルの影に円筒が転がっていた。近衛セキュリティが突入した際、落としたのだろう。あの起爆装置が唯一のスイッチだ。トレバーであっても、遠隔で動作はさせられない。

「げほっ……」

「聖家の名を自ら捨てた貴様が御上を口にすることは許さん。紛いもののヒトを世にあふれさそうとしている貴様は、神にでもなったつもりか」

「ごほっ……きみらはどうなんだ? もう一人の黒子、オーガニックな体じゃないだろ?」

 家中を歩き回っている片方の近衛セキュリティが子ども部屋へ近づいてくる。確かに人間よりやや強い電気パルスを感じる。

(サイボーグ、ですか。実に皮肉な)

 あれほど人間と機械の融合を嫌う天月家も、影の者たちセキュリティを強化するためなら厭わないようだ。いかにも人を人ともおもわない天月当主らしい。

 サイボーグ一人に手間取るトレバーではないが、相手はテーザーバサミを持っている。戦闘はなるべく避けたい。

(なら……)

 しゃがんだまま、桜子のヴィークルに触れると静かなモーター音がして起動する。暗い部屋の中では蛍光グリーンに縁取られた車体が鮮やかだ。ヴィークルのアクセス権を掌握し、ドアの中央へスタンバイさせる。律儀に六つ脚を動かすマシンと腹の桜子へ回路の中で謝りながら、ドア脇の壁へ背中を付けてヴィークルを〈ロデオ〉モードに設定。紅のヘッドライトが瞬き、巨大テントウムシが近衛セキュリティ目がけて突進した。

「……!?」

 ドアを蹴破って突っ込む機械虫に無口の近衛セキュリティがたじろぐ様子がトレバーにはよく見えた。予想通り、サイボーグ近衛は肉体強化だけで知覚は天然物オーガニックらしい。ヴィークルが押しているうちに後ろ脚へトレバーが掴まると、ロッククライミングも可能な強力な脚力がアーミーヒューマノイドを前方へ弾き飛ばした。

 サイボーグ近衛の頭上を通過する瞬間、ヴィークルに半ば押さえ込まれながらも黒装束が片手でテーザートラバサミを投げつけてくる。狙いは正確だが、それはトレバーも織り込み済みだ。

 体操選手さながらの捻り技で投擲を躱し、天井を蹴った勢いでテーブルへ一気に加速する。直前、した頭部がサイボーグ近衛の後頭部を直撃した。ぐらっと体が傾いたところへ、すかさずヴィークルがのしかかる。

「ヤナギハラっ!」

 上国を拘束したもう一人の近衛セキュリティ光る立方体テーザートラバサミを続けざまに投げつける。防御機構のないテントウムシはたちまちダウンし、傷ついたボディから煙が上った。

 動かなくなったヴィークルを押しのけ、サイボーグ近衛がトレバーに向き直る。首がないヒューマノイドの手には赤いボタンが握られ、片方の腕で天井の棒に掴まっている。

 黒装束の足元に転がった頭部が得意げに口を開いた。

「お出口は……ありません」

 刹那、部屋の床が揺れ、四方に炎が上がった。爆発音が連鎖し、拭き掃除を欠かさなかったフローリングが傾いて裂け目にあらゆるものが滑り落ちていく。

(ややっ。しつこいのは嫌われますよ!)

 床が抜ける直前、サイボーグの体に物を言わせた近衛ヤナギハラが跳躍し、トレバーの脚へしがみついた。ズルズルと這い上がってくる黒装束に蹴りをくらわすも、離さない。そこへ狙いを定めたもう一人の近衛セキュリティが腕を振り上げた。

「させるかっ!」

 不安定な足場から縛られたままの上国がタックル。トラバサミがヒューマノイドを掠め、崩れかかった壁へ刺さった。バランスを崩した二人がもつれ合うように下の階へ消えていく。下階は時差式で爆発するようになっているが、まだ時間はある。

 そう判断したヒューマノイドは躊躇なく棒から手を離し、目を見開いた無口の近衛セキュリティもろとも煙の中へ落ちていった。


 下の階はひどい有り様だ。まるで解体工事中のようにコンクリートの破片が散らばり、数ヶ月間かけ、防弾仕様に貼り替えた窓ガラスのおかげで煙がもうもうと立ち込めている。

 だが、さまざまなセンサを搭載したヒューマノイドにとって、煙幕は味方に働く。がないとしても。

「クッション感謝!」

 トレバーの声は粉塵に紛れて位置がわからない。たとえ、ヒューマノイドの下敷きになったサイボーグ近衛が気を失う直前に聞こえたところでどうにもならなかっただろう。落下中のわずかな時間でサイボーグを羽交い締めにしたトレバーは、背中を打った近衛セキュリティをすかさずひっくり返し、延髄に手刀を叩きこんで完全に失神したことを確かめると、まっすぐ頭部のある方へ歩いていった。

「動くなっ!」

 はめ直した首を鳴らしていると煙の向こうから声がした。トレバーの暗視眼ナイトビジョンには上国の襟元をつかんで引きずる近衛セキュリティの姿が映っている。近衛の手にあるシルエットはサイレンサー付きのハンドガンだ。頭巾越しの顔がトレバーに向いている。

「叛逆者の頭がとぶぞ。人間もどき、この者を助けたければターゲットの居場所を言えっ」

 刹那、眼鏡を失った上国と目が合った。見えていないはずにもかかわらず、ナイトビジョンに光る目がトレバーへ小さく頷いた。あとは任せた。ヒューマノイドはそう解釈して背を向ける。

「お好きにどうぞ」

「貴様っ! よもや主人を裏切るとは……」

「シャンッ」

 発砲音と違う澄んだ音に斧逆奴プロテクターの言葉が途切れる。回路の中でトレバーが合掌しているとドサッと落ちる音がし、上国の素っ頓狂な叫び声が続いた。

「なんだこれはっ?!……お、おまえ!?」

「お許しを」

 凛とした謝罪に続いて鈍い打撃音が伝わる。うめき混じりに「トレバー……」と漏らしたのを最後に上国の声も途絶えた。まぶたを開け、振り返ったヒューマノイドが粉塵に佇む人影へ口を開いた。

「ジョウコクさまのピンチには必ずいらっしゃると思いましたよ、ミズクさま」

「私がこなければ、どうするつもりだったの?」

 気を失った上国を肩で支えながら、頭巾のない黒装束を纏った瑞貴が睨めつける。普段、感情を押し殺した端正な能面が怒りと罪悪感に歪んでいる。

 黒装束から上へと伸びるハーネスに目をやりながら、トレバーは自分が悪役ヴィランになった気がした。

「その可能性は限りなくゼロに近いものでした。ご当主は危ない橋を渡るかたではない。サクラコさまの奪還が失敗した際の保険として、ジョウコクさまは不可欠です。どれほどお嫌いでも、のでしょう?」

斧逆奴プロテクターには殺害指示がくだっていたのよ?」

 首の後ろに刺さった黒いヤジリから血を流し、瓦礫に突っ伏した黒装束の手からハンドガンを取り上げて威力ゲージを指す瑞貴。ダイヤルのメモリは殺傷領域キルゾーンを指していた。慣れた手つきでサイレンサーを外すとダイヤルをさらに回し、トレバーへ向ける。

 銃口が光り、熱線がヒューマノイドの頬を掠った。

 ドサリと音がし、トレバーの背後で腕を振り上げたばかりのサイボーグプロテクターが倒れた。

「次は避けなくても撃つから」

「次はありません」

 速攻で答えたヒューマノイドの言葉にぐらりと建物が揺れる。次の爆破は下からだ。

「貴方がジョウコクさまを連れてもどればそれでよし、ワタシに敗れた場合は周囲を張っている部隊が確保に動く。相当数のお仲間を確認できましたよ。ワタシがしがない子守りヒューマノイドだと、貴方がご当主に思いこませたおかげです。どちらにせよジョウコクさまか、サクラコさまが手に入り、部下の能力と忠誠心も試せる」

 トレバーが倒れた斧逆奴プロテクターを指し示す。瑞貴の顔に一瞬、後悔が見えた。が、それも次第に近づいてくる爆発音に普段の鉄仮面へ戻る。

「そしてあなたは予定通り、姿をくらますのね。皇嗣さまをつれて」

 ぽっこり膨らんだヒューマノイドの腹に瑞貴が視線を向ける。その表情は読めない。

 ひときわ大きな爆発音が急かすように真下から響いた。周囲に被害を出さないよう設計された爆薬は、高層マンションをただのにする。捜索隊が入る頃には二階分の高さまで積み上がった瓦礫の山と、激しく燃焼した子ども部屋がトレバーの時間を稼いでくれるだろう。

「さあ? なんのことでしょう。ヒューマノイドの父、スカイ・"アマツキ"・ジョウコクは、娘の病気に悲嘆し、心中を決意しました。自身は一命を取り留めるも、憐れな娘はのです。心神喪失状態のジョウコクがこの後、表舞台に姿を見せることはありませんでした」

 残念そうに頭を横へ振るヒューマノイドは、まるで若きイノベーターの死を悼むニュースを読み上げるかのようだ。そうして次のトピックスへ移る頃にはなにごともなかったように飄々としている。

「さて、ワタシはそろそろ行くことにします」

 亀裂が入り始めた床を物ともせず、会釈する暗黒色のヒューマノイド。気絶した上国に目を落とした瑞貴が呼び止める。

「あなたなら、上国さまを連れて逃げることもできる。そうすれば寂しい思いをせずに……」

「勘違いなさらないでください。わが創造主を欺いて天月当主へ加担した貴方は、マスターを危険にさらした。貴方を敵と認識するには充分すぎる裏切りです。しかしワタシにも見抜けなかった責任があります。創造主に黙って貴方へ作戦を伝えたのはそのため。これ以上、わがマスターを悲しませることは何人も許しません。……どのみち、貴方の選択肢は他にないのですし、創造主を頼みましたよ」

 肩をすくめるヒューマノイドの声からは喜怒哀楽の欠けらも感じられなかった。それでいて全身が粟立つような冷たさが肌を刺す。言葉だけで人を操る者、立っているだけで相手を跪かせる者、敵を射殺す目を持つ者。多くの魑魅魍魎と対峙してきた瑞貴にも自分を突き刺すこの恐怖が理解できなかった。

 そしてこのような人外の者にただ一人の娘を託す、父親の気持ちがわかるはずもなかった。

「末永く……」

 直感に従い、染みついた動きで上国を抱え直してハーネスを確かめた直後、フロアが砕ける。

 瑞貴がヒューマノイドを見たのはこのときが最後だった。

 だが、炎と瓦礫に混じって落下していく人の形をした機械の言葉を生涯、忘れることはなかった。

「お幸せに」


『……速報です。先ほど、〈ユニーカヒューマノディックス〉の創業者、スカイ・ジョウコク氏が重傷で病院へ運ばれたと〈ルナファーマ〉から発表がありました。心神喪失状態の氏が無理心中を図ったとのことで、重病説が取り沙汰されていた氏の長女と連絡が取れないことから、警察では殺人未遂も視野に入れて捜査するとの情報も入っています。

 なお昨年、世界的創薬企業〈ルナファーマ〉による〈ユニーカヒューマノディックス〉社の敵対的企業買収以降、ジョウコク氏はCEOを解任されており、多数の知的財産侵害を疑われている同氏はアメリカの市民権を剥奪されています。ジョウコク氏は若干、十九歳でヒューマノイドカンパニーを立ち上げ、多くの功績を挙げた"ヒューマノイドの父"として知られていますが、近年はその動向から……』

 こめかみに触れたトレバーの"眼球内"でニュース映像が消える。公衆の電波から位置を探られる危険性は低いが、知りたい情報はすべて手に入った。創造主を貶める報道にこれ以上、用はない。その創造主を真似てこめかみを擦ってみるが、ケミカルスキンのズルッとした感触しかしなく、彼のように斬新なアイディアが浮かんでくることもなかった。

「【深眠ディープスリーププロトコル良好。オーロラ眠り姫のバイタル安定】」

 トレバーの内部システムが一連のデータを流し、ダブルチェックをおこなったヒューマノイドはこれらをルーチンとして実行するよう設定する。

 上国のマンションを脱出したトレバーは、その足で最寄りのピットへ向かい、ディープスリープの調整を済ませてから今はマンションに程近いビルの屋上に身を潜めていた。夕陽はとうに沈んで、夜の帳へ抗う都市の灯りが不変を主張するように瞬いている。

 ちょうど、互い違いに建つビル群のあいだから、"人的被害なし"の崩落現場がヒューマノイドの遠視スコープに見えていた。陽が暮れてヘリは飛べず、マジックミラーの窓越しには内部が瓦礫の山だとわからない。一階を警察の規制線が囲んでいるが、都会でホログラフィの黄色い封鎖帯バリケードラインを見かけることは少なくない。

裏切り者ミズク創造主ジョウコクは、うまく事を運んでくれているようです。それとも、と言ったほうがいいでしょうか。ワタシにはいつも、ご当主に先回りされている気がしてなりません」

 やや肥満体になった腹を、合金の指が擦る。独りごちる人の紛い物ヒューマノイドに返事する者はいない。

 人間の女性たちはこうして子を育むという。あいにく、トレバーにそのような感覚は持ちあわせていない。闇色をした肌の奥でヒューマノイドが考えることといえば、追っ手の目を避けることと新しい治療法の情報収集のみ。思うことは身の内に秘めた小さな主人マスターのことだけだ。

「旅はこれから、です。幸い、ワタシたちには豊富なリソースがあります」

 胸郭の中央が開いてトレバーが取り出したのは上国に託された腕輪バングル。シルバーの重なったリングの中央で留め具の楓が夜に沈んでいる。

 トレバーが興味半分でアクセスしたところ、予想していたように上国のメッセージが含まれていた。そこには天月家に関する情報から、深眠ディープスリープの研究データ、上国の用意した"逃走資金"まで事細かに記されていた。概算しただけでも軽く、地中海の島をいくつか買える金額を残している。築き上げた地位と名誉を奪われながら、よくここまで準備できたものだ。

「ワタシが豪遊するとは考えてもいないところが、実に創造主らしい。しかし、最後の依頼ラストオーダーは意外でした。偽造フェイクではないかと疑いたくなるくらいです」

 もし、ディープスリープを維持できなくなったとき、桜子の治療の見込みがなければ、

 メッセージの最後は、そう締めくくられていた。

「あまりに無責任というものではありませんか、わが創造主」

 トレバーのはらで眠る彼女に、ヒューマノイドの問いも回路に流れる映像も音声も、届きはしない。それが唯一の救いだ。

「さて。そろそろお休みの時間ですね」

 星の見えない夜空を仰いで、日付が空欄の覚醒ボヌマーニプロトコルを読みだす。今はまだ作動させる日がわからなくとも、常にイメージは持っておきたかった。

 そのとき、なにかが腹を蹴った。

「サクラコさまっ?!」

 すかさず、上下にボディをつなぐボルトへ手をやる。

 だが、ボヌマーニプロトコルのカウントダウンを省略しかけ、トレバーは寸でのところで拳を作った。

 これはアルゴリズム固有の幻感覚ファントムセンスだ。腹の少女は仮死状態で動くことはない。動ければヒューマノイドの腹に黙って入れられることもなかっただろう。

 すべてのセンサが【異常なし】を伝えていた。

「……マスター、今夜は乙女の金剛石グレイトダイヤモンドが見られる場所へいきましょう」

 もう一度、膨らんだ腹部に手を当ててから、ヒューマノイドが音もなく屋上の端へ立った。周囲を確認し、つま先へ軽く重心をかける。

 春の夜風がビルの合間を吹き抜けていく。

 雑多な匂いの混じる風が通り過ぎる頃には、無人の屋上に戻っていた。


 *   *   *


 この日を境に、上国は表舞台から姿を消した。噂が絶えることはなく、だが、陰謀説を唱える支持者は静かに辿

 隆盛を極めた天月家はついぞ跡継ぎが生まれず、二十八年後、天月石楠の死をきっかけにグループは瓦解していった。その最中、天月家の保有する情報資産の大半がインターネット上に公開され、捜査が続いたものの最後まで真犯人は特定することができなかった。同時期、目撃情報のあった「おかしな敬語を使うマネキン」は都市伝説として語られることになる。

 グループ解体を機に、いくつかの傘下企業が集まり、連合事業団〈U.N.I.Q.U.E.R.ユニーカ〉を設立。ヒューマノディックスを主軸に、深凍保存、信頼依存型アルゴリズム、次世代エネルギー源の開発で次々とブレイクスルーを果たした。成果を早期にオープン化し、広く意見を求めるインダストリアルパブリックライセンスIPLは産業と社会の発展に大きく貢献した。

 一方で、二〇五十年代から流行した人体をパンドラの箱と見なす考えにより、医療の進歩は遅延することになる。

 そして次の世紀も間近という頃になってようやく、人が病から解放される光明が見えてくるようになるのだった。


 こうして、トレバーが待ち続けた年月は

 それは機械にとって、あまりに長い時間だった。

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