一章.太陽と月

 二〇二X年三月十九日。

 都心の一角に建つ富裕層向けタワーマンションを、春先の伸びやかな朝陽が照らしていた。

 街の一日は早く、捩れた六角形にインスパイアされた六六階建てデザイナーズマンションの麓では既に人々とさまざまな機械たちが忙しなく動き回っている。完成当時は国内最大の栄光を与していた青玉炭鋼硝子グラフェンサファイアガラスの美しい外観も、立て続けに大規模開発が進み、物珍しくもなくなった。快適性を重視し、戸数を減らした造りなど一般市民にはどうでもよく、最安値で数億円を超す分譲価格と相まって道行く人はほとんど見向きもしない。まるで、人間の守衛を廃し、多数のカメラと警備ボットが巡回するマンションそのものが生きた要塞で、建物に近づくだけで罪を問われると恐れているようですらある。

 だからこそ、マンションの出入りが極端に少ないことを気にかける者もいない。

 日付が変わった頃に一台のファミリーカーが地下駐車場をゆっくり出て以来、約八時間、要塞への往来はゼロだ。

 この青い要塞を隅々まで把握しているトレバーは、遥か上階、六〇階の子ども部屋のベッド側で瞼を閉じ、後ろ手を組んでいる。の前にもう一度だけ、自分のOS内で監視システムのチェックを行い、そっと腰を屈めた。

「サクラコさま。朝になりました。お目覚めのときです」

「……パパ」

 桜色の小さな唇が眠そうに短い単語をつむぐ。

 春に咲くあらゆる花のなかでもっとも美しいにもかかわらず、謙遜し、そうっと恥じらう薄桃色の花びらがささやくような可憐な声に、片膝をつくオーガスキン色が人工睫毛アイラッシュを伏せた。百九十三センチある体躯はスラッとしていて、を描く皮膚の質感は、樹脂よりも金属質にちかい。

「ジョウコクさまはまだお帰りになっていません。ワタシは、トレバーです」

 関節を滑らかに動かすと、トレバーは忠義の騎士さながら恭しく自らの胸に手をあてた。キュイーン、と甲高い駆動音に合わせてところどころ亀裂が入ったオーガスキンがかすかな光を発する。隠密行動用に肌の色を変えるための機能カモフラージュだが、ヒューマノイドは自身の感情をあわらすときに使うことが多い。

 黄色人種カラードから刹那、透き通ったゲルのような無色へ移ろい、再び肌に色が戻る。さきよりもやや明るい浅黄に落ちつけたのは、中性的なハリのある声を明るくするためだ。

「トレバー……おはよ」

「おはようございます、お嬢さまマイディア。"ヒューマノイドの父"たる、お父上が貴女さまの幸せを願い、特別にあしらった貴女さまだけのトレバーめです。さあ、寝る子は育つと言いますが、規則正しい生活リズムは育ち盛りのティーンにはもっと大切ですよ」

「トレバーの長口上を聞いてたらバッチリ、目がさめたよ」

 機械の手を桜子の肩に置くと、空色の布団がモゾモゾと動きはじめた。昔のように頭をなでてやりたいところだが、彼女はもう十三歳。生きとし生けるものすべてを対等に考えるトレバーには子ども扱いという自覚がなくても、わきまえるべき礼節くらいは理解している。それに、誰にいちばん頭をなでてほしいか、ヒューマノイドにはよくわかっていた。

 枕元に置いた着替えがすっと布団に消えるのを認め、トレバーが立ち上がってカーテンに手をかける。

「きょうは暖かくなりそうです。晴れのち曇り、雨は降らないとサテライトは言っていますが、ワタシの湿度計と勘によれば、にわか雨の可能性はじゅうぶんありますね」

「トレバーさ、いっそ気象予報士になったらー?」

 グリーンポタージュ色の生地に、ヤドリギのイラストが刺繍されたカーテンを引いていくトレバーへ布団からくぐもった声が提案する。時折り、うーっとか、にゃーなどと悪戦苦闘する声も混じっている。

「ワタシの予報は正確かもしれませんが、外れない天気予報など、需要は低いでしょう」

「むー……どうして?」

 布団から頭だけすっぽり出し、桜子が首をかしげた。額に汗がにじんで艶やかな黒の前髪が引っ付いている。首元に覗いたオレンジのセーターの襟がよれよれだ。

「サクラコさまは、ドジを踏まないトレバーがいたらどう思われますか」

「んー」

 レースカーテンをまとめてバンドに留めると、室内へ光が溢れた。窓の外では、春先の濃いスカイブルーに筋雲がパステルカラーを添えている。蒼穹を突くデコボコの摩天楼が朝陽を反射し、南に面した桜子の部屋へ、時期尚早な光の点滅イルミネーションを投げかけている。

「つまんない、かな。でもそれは別でしょ。トレバーってときどき、わざと天然っぷりをだしてるじゃん。こないだって、歴史の授業してくれたとき、本の上下が逆さだったよね。それでスラスラ進めていくんだから。気づかないフリしてたけど」

「おや。ワタシはてっきり、サクラコさまがヒューマノイドばりの文字認識力を身につけたかと感心していましたのに……失礼」

 トレバーが膝をついてセーターの襟を整えていると、ずるりと桜子の体が傾いだ。危なげなく腕で頭を抱きとめ、ゆっくり横にしていく。はだけた布団から片腕だけ通ったニットが覗いた。

「力、抜けちゃった」

 てへへ、とはにかんだ桜子の息が荒い。トレバーが支えた体もまるで力が入ってない。

 病状の進行が顕著になったのは、昨年の始めだ。有効な治療法はなく、ゆくゆく人工呼吸器の装着が不可欠になる。もって、十年。古くからある遺伝子変異疾患だった。

「さようですね。今の桜子さまは腕が三本にみえます。ワタシも一つや二つ、アームを追加していただきましょうか」

 慣れた手つきでヒューマノイドが身なりを整えていく。

「えー。このままのトレバーがいい。丸っこいトレバーパールのほうがかわいかったけどね」

「地味に傷つきます、お嬢さまマイディア

「だってほんとだし」

 全地形対応自律機械パールは、桜子が生まれる前の年に完成した上国の試作機だ。球体のボディは、内部に折りたたんだ脚や腕を地形に合わせて組み合わせる画期的なハードウェアを有していた。パールの構造設計が後の汎用HoSヒューマノイド・オペレーションシステムを生みだすきっかけとなる。

「おしゃべりはできなかったけれど、パールがそばにいるとなんだかホッとしたんだよねー」

 人ではないトレバーには、ボディに対するこだわりも愛着のようなものもない。ただ、ベータバージョンの"意識"が目覚めたとき、上国が最初に銘じた創造主の刻印クリエイターズサインは、今日に至るまでトレバーの存在意義を灯台のように明確に示してくれる。

 機能しつづける限り、桜子の最優先プライオリティミッションとせよ。

 絶対服従の創造主の刻印クリエイターズサインにそれだけを刻んだ創造主ジョウコクへ、創造物トレバーは畏怖の念すら覚える。その親バカぶりに。

 最後にベージュのメープル柄ソックスを履かせたトレバーへ、桜子が枕に頭を載せたまま尋ねた。

「パパだって、お手伝いさんがほしかったからトレバーをつくったわけじゃないでしょー? ママも言ってたよ。『トレバーは桜子の騎士ナイトよ』って。あーでも、トレバーって闘う感じないよねー」

 亡き母の言葉を語る少女の顔は明るい。その心が実際はどうであるのか、感情を察することが特技のトレバーにも確かなことはわからなかった。ただ、いつでもタンポポのように健気な彼女の心もまた、安らかであることを願ってやまない。

 トレバーの指がピアニストさながら、桜子の足裏を跳ねた。

「きゃっ……! もうっ」

「感度は本日も良好ですね。さっ、Let's breakfastといきましょう。調整した淑女の忠虫レディバグの乗り心地は気に入るはずです」

 ただ、人の心を察するのが得意なトレバーだ。一度部屋を出ることにしたのは、少女が笑顔に垣間見せた表情に他ならない。ヒューマノイドのマイクは、少女がそっと零した言葉を捉えていた。

「……わたしもヒューマノイドになれたらいいのにな」

 人間もどきトレバーの脚は止まらない。

 後ろに組んだ手を握りしめ、ヒューマノイドは幼き主君のため動き続ける。

 

「……学校のほうがいいですか、お嬢さまマイディア?」

 ペンを持つ手が止まった桜子へ、単刀直入にトレバーが尋ねたのは、皮肉からでも嫌みからでもない。少女の顔が一瞬、あまりに"淋しい"と訴えていたからだ。

「えっ? どうして? あっ」

 首をかしげた桜子の手からペンを机にこぼれ落ちた。つかもうと力を入れるが、指が水中のようにまったりとしか動かない。

「少し休憩しましょう」

 桜子の左手を取り、トレバーが両手で包みこんだ。オーガスキンは体温まで再現できないが、保温性は高い。すっぽりと覆ったヒューマノイドの浅黄の手のひらがやさしく桜子の手を擦っていくうち、じーんと温かくなっていく。

「ワタシは教師としての自分に揺るぎない自信がありますし、同時に学友であるよう努めていますが、とはいえ、いずれももどきヒューマノイドには変わりませんから。それに、気分転換も必要ですよ」

「もしかしてトレバー、わたしに外へ出ようって言ってるつもり?」

 目をパチクリさせた桜子が微苦笑を浮かべる。困ったようなその顔は記憶アーカイブにある主君の母御そっくりだった。

「さすが鋭い。そろそろ桜も咲き始めましたし、お昼はピクニックがてら、散策でもいかがかと」

「ダメよ、トレバー。パパにも言われてるでしょ? 天月アマツキの人がどこにいるかわからないから出ちゃいけない、って」

「血族の方々ならどこにでもいらっしゃる。ここは首都であり、創薬最大手〈アマツキ・グループ〉のお膝元でもあります。しかし彼らも、血眼で探している皇女プリンセスがまさか目の前にいるとは思わないでしょう。ジョウコクさまが考えた〈灯台下暗し〉作戦です」

「木を見て森を見ずとも言うよ? 油断しちゃダメ。パパも言ってた。太平洋を渡って気がゆるんでたって」

 テントウムシ型多脚椅子ヴィークルにもたれた桜子は諭すような口ぶりだ。一カ所に加重が掛かり過ぎないよう、座位を微調整するシートに内蔵されたマイクロモーターの駆動音が会話の間を埋める。ヘッドレストにトレバーが結ったシニョンを預け、ぼんやりと見つめる正面には、リビングテーブルの中央、丸い縦長のガラスドームが覆う、真っ赤な一輪の薔薇が花冠をそっぽに向いている。

 桜子の前に張り出した赤地に黒い斑点のポータブルテーブルに目を落とし、トレバーが続けた。

「サクラコさまは、お父上のご実家についてどう思っていますか? その、お祖母さまのことです」

「セキナンおばあちゃまには一度しか会ってないけど、こわい感じの人だったよね」

 海の向こうの新世界に天月の当主が突如あらわれた三年前の冬。その雪がちらつく日を境に、父娘の日々は一転した。

「でも、あの人がパパを貶めたのはいまでも信じられない。だって、わたしの誕生日にはいつもメールくれるし、会社の方針とか、経営とかいろいろ教えてくれてたもん」

「……それは、貴女を後継者にするための口実では?」

 あの冬まで、天月の当主は桜子と連絡を取り合っていた。桜子に見せてもらった当時の文面からは後年の妄執も感じられない。

 そして上国はこのことを知らない。桜子がトレバーに口止めしたからだ。父親から過去の確執を聞いていたからだろう。同じように上国も、当主が桜子を跡継ぎにしたいことをトレバーに口止めしていた。

「わたしのご機嫌とりしてどうするの? あの人、突然やってきて、あることないこと並べ立てパパをて罪人にしたじゃないっ! わたし、パパの仕事を手伝ってからわかる。パパは人のアイディアを盗んだり、お金で脅したりしないっ!」

 毎日のように桜子を仕事場に伴っていく上国親子の姿は、会社の一景になっていた。桜子には、代々、異常なほどの才能ユニーカを発現する天月の血が流れている。上国のあしらえた木製のキーボードを叩き、「キャッキャッ」と喜んでいたら姿勢制御用のコードが完成していても不思議ではない。

「パパはもう『縁を切った』って言ってたのに、どうしてあの人、こんなことするの? わたしがこんな体じゃなかったらパパの代わりに行くのに……」

「いけません!」

 すくっと立ったヒューマノイドに桜子が驚いて顔を上げる。

「トレバー……?」

「あっ、いえ。お嬢さまマイディアのお身体に関わらず、お父上は反対されるかと」

 決まり悪そうにヒューマノイドが腰を下ろすと、桜子が目を細めた。

「……そうね。トレバーも反対?」

「ワタシはお嬢さまマイディアの幸せを一番に願っています」

「またはぐらかすんだから」

「お父上も同じように想っていらっしゃいますよ」

 合金の瞼を打ち鳴らすトレバーの本音だ。妻を亡くして以来、上国はたった一人の娘をなにより大切にしてきた。父娘だけになってから余計、その気が強くなったとトレバーは思う。いっそ盲目的なまでに。

「わかってる。パパはわたしのために頑張ってるって。夜遅くに研究所まで行って、わたしのお薬を開発してるんでしょう? ミズクおねえさんがいっしょでよかった。だってほら、パパって集中すると周りが見えなくなるとこがあるから。でも、パパでも新薬開発は難しいよね」

 ヒューマノイドは嘘をつくことができないが、噓をつかないはいくらでもできる。

「……お父上は今世紀を代表する逸材ですよ。このワタシにも、あの方の思考は理解できないのですから」

 ただ、例外もあった。上国と桜子だ。二人の紫がかった瞳を前にすると、どんな切り返しも付け焼き刃にしか思えない。すべてを見透かすかのような紫貴ロイヤルパープルの瞳は、トレバーのわずかなを見逃さないだろう。

「そうだよね。なんてったってパパ、"風雲児"だもんね。児童って歳でもないけど」

 だが、春の花のように笑う桜子はそれ以上、追求しなかった。母親の特徴を色濃く受け継ぐ凛とした端正な顔の中央で、黒みを帯びた紫の瞳が「信じている」と言っているようにトレバーは聞こえた。

 それなら、と包んだ柔らかな手をポンポンと叩く。

「お花見の下見に行きませんか、サクラコさま」

「だから、出ちゃいけないんだってば。それに、下見って週末にパパが約束してるぶん? さきにわたしたちで見ちゃダメだよ。楽しみがなくなっちゃう」

「予報士トレバーの確率によれば、日曜日に満開の模様ですが、あいにく雨の気配があります。桜流しも風流とはいえ、ジョウコクさまは雨中のお花見をお許しにならないでしょう。今なら、盛り直前の並木を見られます。あの公園は人目も多い。いざとなれば、ワタシがお嬢さまを御姫さま抱っこして……」

「わかったってトレバー。でも、わたしには装甲仕様のヴィークルテントウムシがあるんだから、抱えて街中を走るのはやめてね? あと、お昼には帰ろ? パパが早く帰ったらたいへん」

「御意に。お嬢さまマイディア

 会釈し、机の筆記用具を片付けていく。桜子は久々の"冒険"に鼻唄までハミングしている。リビングテーブルへノートを運ぶトレバーを眺めながら、楽しそうに口を開いた。

「ふふっ。トレバーってば、いつから手品マジックできるようになったの?」

「はて? 確かに、ワタシはエンターテイナーであるよう心がけていますが」

「またまた~。さっきまでミズクおねえさんのバラ、むこうを向いてたよ? 帰ったらタネを見破ってやる~」

 トレバーがリビングテーブルに顔を向けると、透明なドームの中で浮かんでいるような一輪の薔薇が首をこちらへ枝垂れていた。

 美しく折り重なる花びらが、やけに整いすぎている気がした。


*   *   *


変装したヒューマノイドと多脚椅子テントウムシに乗った少女がタワーマンションの正面玄関から意気揚々と出かけた頃。

 直線距離にして三キロメートルほど離れた高級ブティックの立ち並ぶ通りでは、その外観から"タッグビル"の通称が付いた全面ガラス張りのマリンブルーが美しい、ユニーカヒューマノディックスuniHuma日本旗艦店が春の陽差しを反射していた。

 地下駐車場のさらに下、客はおろか従業員でさえ知らない直通エレベーターを降りた先に、上国じょうこくの研究室はあった。

 一つの階が研究に使用する資材置き場となっていて、予備のゲージや実験マウス用に小型化した深眠ディープスリープカプセルの試作機が並ぶ。ロフトの中二階には簡易ベッド、独立した上下水道を流れるシャワートイレブースがアンバランス感を否めない。

 吹き抜けになった最下層の実験室フロアでは、二リットルペットボトル大のカプセル表面をタイピングしながら、シワが目立つ白衣に袖を通した上国が隈の目立つ険しい顔で、まもなく出る結果に固唾を呑んでいた。

 若く見られる精悍な面立ちも、やつれて髭が伸び始め、寝癖の目立つ黒のウルフカットは、秘書さながら横に立つポニーテールの起業仲間に無理やり、切らされなければあっという間にロングヘアになっていただろう。表情の変化が乏しい彼女に珍しく「ご息女はいつまでも若々しいパパがいいのですよ」と眉を吊り上げられては、上国もしぶしぶ従う他なかった。

「これがDSディープスリープ三十日群の最後だ。配合量五.八パーセントのコントロール群は全滅。瑞貴みずく、いつも通り記録たのむ」

「わかりました」

 サイドへ寄せたポニーテールを揺らす女性の左手には、十数枚に束ねた罫線入りの白いノート紙、右手には黒光りする万年筆が金色のペン先を浮かせている。傍らの研究机には流れるような筆跡のページが机上を埋めている。

「たのむぞ……」

 半透明カプセルをなぞりながら、表面に浮かび上がったデータを読み上げる上国の声を瑞貴がスラスラと文字にしていく。記録は、二人と一体トレバー以外に解読されないよう、取り決めたアルゴリズムに則り、瑞貴がリアルタイムに暗号化を施す。深眠ディープスリープのあいだ、マウスモデルに生じた膨大なログを、上国が早口で読み上げ、息切れ寸前まで口は止めない。書き起こすだけでも一苦労の作業を、隣に立つ一廻り歳を重ねた瑞貴は、暗号化しつつ正確無比に記録した。

 一時期、ディープスリープ理論から離れていた上国には、過去と向き合うつらい研究でもあった。

 だが、かつては無力で救えなかった大切な人を、もう二度と失いたくない。それだけに瑞貴の助けはありがたかった。

「……ハッチオープン。リキッドの水位は約三パーセント減少。許容範囲。被験体マウスの蘇生を開始」

 エメラルドグリーンの液体に浸かって微動だにしない黒い毛の塊は死んでいるようにしか見えない。マウス用の小さなマスクを上国が外すあいだも、体よりも長い尾は溺れたミミズのようにぴくりともしない。実際、深眠中はほぼ代謝が止まっているのだから、生物としては死んでいるも同然だ。

「起きてくれよ……」

 小型除細動器のパッチをマウスの体に当てる上国の手が小さく震えている。深眠に欠かせない溶液リキッドの配合を繰り返した肌はふやけ、両手だけ、老爺のようにハリがない。「自分の肌でたしかめないと」、と上国は手袋をはめようとしなかった。

 ピッピッ、と心拍を告げる機械音に上国のうわずった声が重ねる。

「よし、いいぞ! バイタルがもどってきた。さあ、立ってごらん。朝だよ」

 眠気を醒ますようにブルッと頭を振り、マウスがバイタルモニターのコード類を引きずるようにテーブルを進みだした。足取りはおぼつかないが、一歩一歩、距離を稼いでいる。

「瑞貴っ! 歩いているぞ!」

 隈の目立つ笑顔に見つめられて目を逸らしそうになるが、なんとか堪えて瑞貴は頷き返した。

「心肺機能は弱いけど、じき回復するだろう。あとは脳波を調べて……」

 マウスへ視線を戻す上国の声を、モニターのアラートが遮った。

「まてまてっ! どうした?!」

 十センチほど歩いたマウスがパタリと倒れていた。除細動器のパルスでピクッと体が動いても、ぐったりしたままだ。コードを引き剥がした上国がマウスの体を両手で包みこみ、親指で胸部を圧迫。ためらいなく人工呼吸を併せる上国に、瑞貴の手が止まる。

「なにしてるんだっ! カウントとモニターの読み上げ!」

 上国が声を荒げることはめったにない。瑞貴は慌てて計器類に目を戻した。

「すみません。心拍数、依然ゼロです」

「くそっ。帰ってこいっ……死なせてなるものかっ!」


結局、マウスが息を吹き返すことはなかった。

 長期間にわたる代謝の低下は、脳に著しい障害をもたらす。上国の理論では、ディープスリープ二週後から蘇生率も、蘇生後の生存率も急激に落下する。リキッドの配合をさまざま変えてはいるが、向上はみられない。

 上国が考察を読み上げ、マウスの遺骸を焼却袋に入れる傍で瑞貴は記録を取り続ける。

 カチッと、シールドグローブをオフにする音がした途端、枯れた手が飛んできた。

「もういい! どうせトレバーが読むだけだ。彼なら概要はもう飲みこんでる。こんな研究、ログに残す価値もない」

「配合の候補はまだ二十ちかくあります。次はフルオロカーボンの比率を上げて……」

「瑞貴」

 上国が床にばら撒いたノートを拾い上げると、眼鏡越しに紫がかった瞳がまっすぐ向いた。

「きみはどうしてぼくを手伝ったりしているんだ。国外退去になったぼくを会社の地下に匿って、研究の設備まで揃えてくれる。新しいCEOだからって、簡単に手配できるものじゃないだろう?」

「それが上国様のお望みですから」

「よしてくれっ!」

 子どものように両手で耳を覆った白衣が脇をすり抜け、解剖用のブースを出ていく。白い背中を瑞貴が慌てて追った。

 猫背気味の白衣はマウスの蘇生に使用していた机に手をついてうなだれていた。眼鏡を外した横顔は幽鬼のように青白い。栄養を取れるように瑞貴も手を尽くしているが、成果が出ない限り顔色がよくなることはない。それでも彼をわけにはいかなかった。

「連邦取引委員会に呼ばれたとき、ぼくはホッとしたんだ」

 無造作に転がしたポッドやPAEDをテキパキと瑞貴が片づけていく様を眺めながら、上国がぽつぽつと口を開く。

「これで桜子のことに専念できるってね。戦う手もあったけど、結局、いちばん特をするのは弁護士たちだ。宇宙船でも買えそうな訴訟費用があるんなら、開発か、従業員にボーナスで支払ったほうがマシだよ」

「それで、お一人で責任を取った、と」

「一人じゃない。きみもジョンもヤオも、創業メンバー全員、会社に口出しできなくなった。けれど、経営陣の刷新で社はこれまで通り続くんだ。いいほうだとおもわないか」

「ブルはいましたが」

 苦楽を共にした起業仲間の中でも、元アメフト選手の"雄牛ブル"ことジョンは血気盛んだった。取締役の解任を通知されたジョンは酒場で暴れ、一緒にいた瑞貴が手荒になだめたのだった。そんなジョンの姿を思い返し、わずかに上国の表情が緩む。

「そうそう。ジョンを押さえるのに苦労したよな。みんな瑞貴にびっくりしてたよ。武術できたの、だれも知らなかったし」

 裸眼の上国に見つめられ、瑞貴は無意識に視線を外しそうになる。紫がかったこの目は、と同じ血を引いているのだ。

「幼いころ、古武術を学んでいました。護身術と、精神鍛錬に」

 けれど、あのお方よりも、優しく知性的で温かい。彼が人間らしくなったのは、亡き奥方に寄るところが多い。それを強くしたのがご息女だ。あのお方のめいで最初に近づいたとき、上国の目は太陽のように輝き、未来を照らしていた。影に生きる者として、その目はあまりに眩しかった。

 だからかもしれない。一切の感情を捨てたはずの心が容易く揺らいだのは。

 生きていてほしい。人生で初めて、そう思えた。

 だから誓った。彼を生かすためなら、どんなことでもしよう、と。たとえ天命に背き、この身が消えてなくなろうとも、彼が生きてくれるなら。

 だから瑞貴は、女帝と同じ瞳を持つ彼を表情一つ変えず、見返して淡々と言えた。

「養母のおかげです。まさか友を止めるのに使うとは思いませんでしたが」

「そうか。瑞貴は養子だったな。アイビーリーグへ進学するのも親御さんに進められたんだろ? だいじにされてたんだな」

 

 何度、そう叫びたかったか知れない。上国の身に悲劇が降りかかる度、瑞貴は己の罪悪感に焼かれた。いっそすべて打ち明け、彼の手で断罪して欲しかった。

 けれど、そうすれば彼の生も終わる。興が醒めたとばかりに、あのお方は彼の命を刈り取るだろう。彼の最も大切にしている宝物サクラコを奪い去った後で。それだけはなんとしても、止めなければならない。

「上国様、そろそろミーティングに出なければなりません。申し訳ありませんが、記録は……」

「もうそんな時間か。ああ、わかった」

 腕時計に目を落とした上国が眼鏡を掛け直した。やつれた顔に紫鳶の瞳が鈍く光る。太陽のような輝きはもはやなく、不気味なほど落ち着いている。

「いまはきみの会社なんだ。ぼくにイチイチ報告する義務はないよ。きみなら、uniHumaを立派に切り盛りしていけると信じて株式もぜんぶ、譲ったんだから」

「感謝します」

「礼を言うのはぼくのほうだ。これで、アマツキに手出しされる口実もない」

 微笑んだ上国に軽く会釈し、逃げるように背を向けて専用エレベーターを目指す。無機質なグレーのドアが閉まった途端、ポケットの端末がバイブレーションを鳴らした。表示された名前に瑞貴の顔が引き締まる。

「……はい」

「あの子を並木公園でうちの者が見かけました。外出の報告がなかった言い訳は?」

「護衛のヒューマノイドは変装に長けています。自宅内では決して偽装した姿を見せません。これが、作戦実行前の最後の機会です」

「桜子の側にはピエロの恰好をした者がぴったりついていました。公園にいた子どもが群がり、うちの者は近づくことすらできなかった。手の届くところにいたというのに……あれが、"人間もどき"の変装だと?」

「はい、御館様」

 通話越しに伝わる沈黙が、見えない紐のように喉を締め上げる。

 あのお方は、ここで上国が急いでいる研究を知らない。マンションに隠したカメラの映像を眺めることはあっても、上国がどこでなにをしているかまるで関心がない。瑞貴の報告を聞くだけだった。

 それも知られたのだろうか。瑞貴の額を汗がつつっと流れると同時に、通話口から石のような声が命じた。

「明日、甥めに本邸へ来るよう伝えます。おまえも準備なさい」

「それはっ……」

「よいですか瑞貴。人は困難でなく、信じた者に裏切られたときに絶望するのです」

 エレベーターが到着し、開いた扉から生暖かい風が吹き付けた。

 通話の切れた端末を持ったまま、瑞貴の手が震えていた。


春先の天候は変わりやすい。快晴で始まった一日も、上国が帰宅の途についた夕暮れ時には厚い雲が頭上を覆い、冷えた風が疲れに凝り固まった体に堪える。

 ヴェールのフェイスマスクを、あえて不透明な黒一色に設定したの上国は、チャコールグレイのトレンチコートに首をうずめながら大きく迂回して自宅マンションへ向かっていた。くぼみ、カラコンで黒瞳に変わった目が沈んでいるように見えるのは天気のせいではない。顔が引きつらないよう自分へ言い聞かせつつ、用心深く周囲を見回しながら家路を急いだ。

 六十階でエレベーターを降りると、二十部屋あるフロアはがらんとしている。ほとんどの階のは済んでいる。今は最上階ペントハウスの荷物搬出が残っているだけだ。持ち主の資産家は渋っていたものの、先月、上国が購入代金の五倍を提示した後は大人しく退去に応じた。これで全戸が空室だ。つまり、すべてオーナーである上国の所有となる。

 足早に端の部屋へ向かいながら、上国の頭は忙しなく回転していた。流れるようにフードを取る要領でヴェールを外し、研究所を出る際に急いで瑞貴に整えてもらった頭髪を露わにする。坊主頭で桜子を驚かすネタは前に使い、今の上国にはおどける自信もなかった。

「ただいま~」

 玄関へ滑り込むと、リビングのほうから笑い声が聞こえてくる。この家で桜子のあんな楽しそうな声を聞くのは久しぶりだ。日本へ戻ってからというもの、ろくに出かけてもいない。それでも桜子はねだったりせず、詮索もせずに上国の"仕事"を応援してくれている。

「それもあと少しだ」

 自分でも希望的に聞こえない言葉を独りごちつつ、コートを掛けていると、六本脚の「ウィーン」という音が近づいてきた。

「パパおかえり」

「ただいま桜子。きょうも元気にしてた?」

 多脚椅子ヴィークルの背でうれしそうに微笑む桜子を見ているだけで、疲れも苦労も吹き飛んでいく。しゃがんで額に口づけると、ほんのり太陽の香りがした。

「うんっ。元気いっぱい。パパもお仕事、順調だった? あれっ? きょうは瑞貴おねえさん、いっしょじゃないの?」

「あー、うん。瑞貴は社長だからね。しょっちゅう会いにはこれないさ。ぼくが社長してたときもあんまり家に帰れなかったろ?」

 瑞貴は桜子の誕生日には毎年、プレゼントを贈り、日本へ住まいを移してからは上国に代わり、なにかと娘を気遣ってくれた。共に夕食を食べる機会も増え、筋力の低下し始めた桜子の介助を進んで行う姿は、歳の離れた従姉というよりも母親を思わせる。瑞貴といると桜子はリラックスしているように見え、上国としてはよき仲間と巡り会えたことにただ感謝するだけだ。

 今晩も、行きつけの洋菓子店で桜子の好きなティラミスを片手に、瑞貴はマンションを訪れていただろう。夕方、上国宛てのメールさえ届かなければ。

「しょっちゅうというより、パパはいっつも帰りがおそいけどね」

「ははっ……まいった。ごめんごめん。そろそろこの辺の桜も咲くころだろうから、週末までに一段落つけようとおもってね」

「うん、咲いているところもあったよ!」

 あっ、と目を見開いた桜子に気づかなかったフリをして穏やかにカマをかける。桜子はまだまだ純粋だ。それで良いと上国も思う。歳を重ねれば、嫌でも顔を使い分けなければならなくなる。

「……散歩に行ったのかい?」

「ごめんなさい、パパ。でも、怪しい人はいなかったし、ちゃんと迂回して帰ったから……。えっと、パパはまたトレバーのカスタマイズ?」

 このところ、上国がトレバーと自室兼研究室で話し込んでいることは桜子も知っている。ただ、上国が質問をはぐらかしたり、気づかうように上国をチラチラ見るトレバーに、桜子が変だと思っていることは間違いない。

 返事の代わりに柔らかな頬をつまむと、心配そうな桜子の表情が緩んだ。

「お呼びですかサクラコさま? おや、ジョウコクさま。お帰りなさいませ」

 リビングから頭を覗かせたヒューマノイドに上国が手を挙げて答える。カレンデュラのエプロンをしていたということは、夕食の準備中だろう。

「サクラコさま、もうすぐ食事ができます。お父上に手洗しゅせんとお着替えを」

「はーい。パパ、ほら手あらってきて」

 脱ぎかけたワイシャツに桜子がテントウムシの触角マニピュレータを伸ばす。

 刹那、自身の作った機械の腕が、なにもかも奪おうとする石像のような白い腕に見えた。

「渡すかっ!!」

「……パパ?」

 桜子の声にハッと我に返ると、優しい黒みを帯びたロイヤルパープルの瞳が怯えたように揺れている。

「ごめん。……すぐ着がえてくる」

 娘のマニピュレータを払いのけるように、父親はその傍を早足で通り過ぎていった。

 

「……で、桜子とどこまで行った?」

 寝台で仰向けになり、腹腔を開いたトレバーへ、テーブルのディスプレイから目を離した上国が尋ねた。上下、真っ二つの相手を非難がましく問いただすのは卑怯だと上国も思う。ぎこちない空気が流れた夕食の後、桜子は自室で休み、上国はトレバーのディープスリープ機構の最終調整にあたっていた。

 だが、ケロッと金属の瞼を動かした顔は、世間話でもするようにあっさり白状した。

「並木公園です。満開寸前で、大勢がいらしていました。子どもたちもいて、サクラコさまもお喜びでしたよ」

「きみはお得意の変装でしたわけだ」

「ええ。クラシックな道化ピエロ姿は現代でもウケがいい。サクラコさまも歳の近いお友達がほしいでしょうし、その点、幼稚園の皆さんは幼いですが、あれこれ詮索されても答えに困らない。そういえば、遠巻きに熱い視線を送ってきた黒スーツがちらほらいましたね。今どき、目立って仕方ないですが」

「ふざけてるのか、トレバー!」

 まさか、と肩をすくめてみせるヒューマノイドに上国は声を抑えて睨み返す。工房になっている上国の部屋は桜子の部屋の真隣だ。言いつけを破ったヒューマノイドを問いただす場所には向いていない。

「人目につくな、って言ったよな。なのに、ピエロのコスプレして桜の名所に行ったって? たっぷり注目されて、天月の手下にも目撃されたわけだ」

「所持品からは〈アマツキ・グループ〉との関連を示す物は……」

「いい加減にしろっ! やつらに連れてかれてたらどうするつもりだっ!」

 勢いよく立った上国の声が室内に木霊する。かすかに残った冷静な頭の部分で深呼吸し、タブレットを叩いてモニターの桜子へ「ごめん。静かにする」と弱々しく笑ってみせる。上国がタブレットを寝台へ向けると、トレバーも手を振って親指を立てた。

「なにかあったら呼んで」とタブレットを戻す上国に、心配そうな顔をしたまま、「トレバーばかり責めないで。わたしが行くって言ったの!」と必死な桜子。咎めるべきなのだろうが、今の上国には娘に理由を説明する気力も、ましてや、これからのことを話す気もない。

 

 話してしまえばもう、現実に向きあわざるを得なくなる。手を尽くしたところで、娘は後、一年も生きられないという現実に。

 その現実を自らの手で変えるため、地位、人脈、金、役立つだろうすべてを手に入れた。

 だが、どれ一つとして病という現実を前に役立ちはしなかった。

「桜子、もういいよ。トレバーのお説教はおしまい。楽しかったんなら、冒険の甲斐もあったさ。疲れたろうからよく休んで」

 まだなにか言いたげな娘に精いっぱい、微笑んでタブレットを切る。息を整え、テーブルに並ぶモニターに目を通すと表情の読めないヒューマノイドに向き直った。

「帰る前、量子鍵クォンタキー署名付きのメールが届いた。『明日、本邸へ来るように』だそうだ。おめでとう、当主の目を引いたな」

「……では、行かれるのですか?」

「他に選択肢があるか? ディープスリープはまだ詰めが残ってる。時間稼ぎになるなら行かない手はない」

「これが罠という可能性もあります」

「わかってる」

 腰を下ろした上国が手元に目を落とした。

「いや、まちがいなく手練手管でぼくを引き離しにかかるだろうね。下手すれば、可能性だってある」

 ヒューマノイドが親指で喉元を掻き切る仕草をして首をかしげた。

「ああ。ぼくは地に墜ちた風雲児ってことになってるし、いまさら、マンションの下に落ちたところで不審がる人間もいない」

「そして御当主は目的のものを手に入れる、と」

 今度は、親指で桜子の部屋を指すトレバー。

「そうならないようにいま、急いでいるんじゃないか。でも、急いだところで完全深眠には到達できない」

 ヒューマノイドに調整を施しつつ、上国が長期のディープスリープには定期的にリキッドを交換しなければならないことを説明する。作業を手伝いながらトレバーは静かに話を聞いている。こういうとき、記憶力の落ちないは助かる。

「リキッドは各ピットに量をそろえる。交換のときは素早く、だ。一人で作業するのは骨が折れるぞ。手間取ったときは、麻酔を使うといい」

「……ジョウコクさま?」

「なんだ?」

「再確認しますが、貴方こそ、とち狂ったのではありませんね?」

 普段通りの口調で正気を疑うトレバーに上国が露骨に眉をひそめる。

「この際、致死量ギリギリの麻酔剤をご息女に投与することは脇におきましょう。しかしジョウコクさま。サクラコさまの心をお考えになったことは?」

「……すべてあの子のためだ。さびしい思いをさせるかもしれないけど、わかってくれる」

「それは、なのではありませんか?」

「ふざけるのはよせ! こっちは切羽詰まってるんだ。当主と会う準備だって……」

 突然、ヒューマノイドの手が上国の腕をつかんだ。払おうとするがビクともしない。血の通わない人工皮膚オーガスキンの指はゾッとするほど冷たい。

「……なんの真似だ。システムにエラーが溜まってるんじゃないのか」

「エラーはどちらです? 愛娘をしようとしているのは?」

「じゃなきゃ死ぬんだぞっ!?」

 絞り出すような叫びは、隣の部屋に聞かれない配慮よりも、苦悩を吐き出すようだった。上国の放った眼鏡がテーブルの写真立てに当たり、コツンと音を立てる。

 トレバーに顔を近づける血走った目に優しげな鳶色はほとんど見えない。

「あの子の病は治らないんだっ! この十三年、どれだけ医者を回ったとおもう?! 千百三十二人だぞ! 闇医者も含めてだ」

「ええ。御当主にも頭を下げられたのでしょう? 発信元を隠すために太平洋の島まで飛んだ記録が空港に残っていましたよ。ですが、世界最大の創薬会社とそのネットワークも頼りにならなかった、と」

 言葉を引き取るようにトレバーが血走った目を見つめ返すと、視線を逸らされた。無言の肯定だった。

「……ぼくだって医を学んだよ。知れば知るほど、希望が絶望に変わっていった。一朝一夕でどうにかなるレベルじゃない。人間をリバースエンジニアリングできても、人体の構成を制御するのはわけがちがう。時間が……足りないんだ。桜子の進行スピードはきみもよくわかっているはずだろうっ?」

「だからこそ、サクラコさまの傍にいてください。最期のときまで、貴方が見守っていればお嬢さまマイディアは怖くない」

 鳶色の混じる目がわずかに見開く。彷徨う視線がテーブルへ吸い寄せられていく。トレバーは見えないが、上国の目が写真立てを向いているのは間違いない。

 十一年前、北海道の別邸でトレバーが撮ったものだ。山奥にひっそり建つ童話の世界から出てきたようなロッジの前で、家族三人が紛れもない笑顔を浮かべている。桜子の誕生に合わせて植えたエゾヤマザクラの苗木に堆肥と水をやった直後だ。二歳を迎えたばかりの桜子が土を口に入れようとして、上国が慌てたのをトレバーは記憶している。母の秋沙に連れられ手を洗い、地面に三人が寝転がったところをフレームに収めた。球体だったトレバーへ、桜子が伸ばした指先についた水滴まで鮮明に映っている。

 病はすでに発症していたが、状態は安定していた。家族にはまだ希望が溢れていた。

 そしてこの写真が、最後の家族写真となった。

「アイサさまもおっしゃっていました。『どこにいようと、家族はいっしょ。切れることのない絆が証』だと。ジョウコクさまとお作りになった腕輪バングルも、そういう想いがあって……」

「……おまえになにがわかる?」

 上国のつぶやきは地の底から響くように擦れていた。その横顔は明るいはずの室内にあって、さながら死人のように青白い。表情を読むことに長けたヒューマノイドですら、写真立てへ手を伸ばす創造主の心の内が今は、深淵のごとく不気味だった。

「ジョウコクさ……」

「黙れ」

 木目調のフォトフレームを掠め、荒れた手がタブレットに躍る。直後、ヒューマノイドのボディから力が抜け、事切れたように腕を垂らした。人工トレバーの手をもぎ取るように剥がす上国クリエイターの目は赤く、ヒューマノイドを睨みつける顔は写真に映る若々しい笑顔の欠けらもない。

「まがい物に過ぎないおまえに……」

被造物の手を投げ落とすと、創造主は寝台に背を向けた。部屋を出る間際の言葉を、創造主がカメラマイクが捉えていた。

「人の心がわかるのか?」

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