幕間I 〜上国の日記〜
ぼくは眠るのがこわかったんだ。
目を覚ますと、桜子ときみが消えている。家にも、会社にもいない。本家のあの、人を呑みこむような屋敷にさえいない。名前を叫ぶぼくの声だけがどこまでも虚しく耳に残る。
そんな、悪い冗談みたいな光景が、定められた明日のようにぼくの頭から離れない。
夜通し研究を続け、へとへとで近くの椅子にへたり込み、まぶたが鉛のように重たくなって閉じそうになるその瞬間、恐怖で跳ね起きてしまう。胸が早鐘を打ち、リキッド保存のために摂氏十七度に保った室内で、汗が白衣に染みをつくる。吐き出す空気はコルチゾールまみれで臭くて反吐が出そうだ。
たとえ体中の細胞が悲鳴をあげ、シナプスの発火が格段に遅くなっても、ぼくは眠ることができなかった。
だって、ぼくは知っているんだ。あくる日に忽然と姿を消し、二度と会えなくなった人を。
いま、ぼくが止めなければ、桜子は彼女の二の舞になってしまう。そうなれば、きみは迷わず桜子を追うだろう。
そうなったら、遺されたぼくは、どうしたらいい?
「だいじょうぶよ、ジョウ。わたしはここにいる」
はじめてきみに打ちあけたとき、きみは迷いの欠けらすらみせずにうなずいた。
一週間のテスト
「でも桜子は? 叔母は本気だ。あの人は
「あなた落ちついて。桜子はわたしたちの傍にいるわ。いまは隣の部屋でぐっすり眠っている。あとで会いにいってあげてね」
「……ごめん。わかったよ」
「ねえ、ジョウのディープスリープは、そのもしのためじゃなかった? それに、叔母さまは桜子より、
「……もしのときにも役に立たない無駄な研究だよ」
励まそうとしてくれているきみに、ぼくは乾いた口よりよっぽど醜い自己嫌悪を吐いて目をそらす。朝に剃ってくれた青地にあたたかい手のひらを感じて顔を上げると、きみは少し怒ったように緩やかなカーブを描いた眉をつり上げていた。夫のぼくと、娘である桜子くらいにしかわからないきみの表情だ。
「じゃあ、
「やめてくれ
反射的に立ち上がって背を向けたぼくにきみは容赦なく言葉の刃を突き立て続ける。
「あなたは天月の御家でただひとり、自分を理解して、やさしくしてくれた紫苑さんを好きになった。そのことは恥ずかしいことではないし、紫苑さんがいたからこそ、いまの人間らしいジョウがいるんだとおもう。わたしもジョウの初恋の人、会ってみたかった」
「たのむ……よしてくれ……」
「でも紫苑さんは亡くなった。わたしたちが出逢うよりずっとまえに。不幸がつづき、御家の後継ぎが紫苑さんだけになったから、叔母さまは天月家の次期当主として幼かった紫苑さんを日がな一日、本家での後継者育成に……」
枯れ果てたはずの涙がとめどなく流れていく。それ以上は耐えられなかった。
「秋沙っ!!」
振り返り、きみを止めようとしたぼくはけれど、立ちつくした。
想い出のワンピースに染みができるのもかまわず、きみも泣いていたからだ。空になった椅子の傍で両腕を抱き、きみは大粒の涙を瞳から溢していく。
真っ赤になった目から伝う雫をけっして拭おうともせず、ぼくを見つめたまま、きみは震える声を抑える。
「そんなの、かなしすぎるわジョウ。血脈をつなぐためだけに人を……家族をそこまで追いつめるなんて、わたしにはわからない……」
かみ殺した声がきみの悔しさを代弁していた。白くなるほどにきつく握りしめた腕がきみの怒りを訴えていた。
「ねえジョウ……わたし、紫苑さんのことがくやしい。どうしてそうならなきゃいけなかったのか、考えてもわからないの。ただ紫苑さんを追いつめた叔母さまが……あの人がゆるせない」
きみはぼくより強い人で、泣いている姿をほとんど見たことがない。ぼくが知っているきみの泣き顔は、プロポーズしたときと、桜子をはじめて腕に抱いたときだけ。どちらのきみも、涙がまぶしい笑顔だった。
そしてだれに対してもやさしかったきみが歯を食いしばって許せないという人間は、この世界にこれからも増えはしないのだろう。
「ごめん秋沙」
きみの元へ歩いていき、その体を掻き抱く。元々華奢な体はこのひと月でさらにやせ細っていた。そんなことにも気づかないで自己嫌悪にひたっていた自分が途方もなく恥ずかしい。
桜子と同じ、澄んだ花の香りがする髪に顔をうずめ、ぼくは誓った。
「桜子を紫苑さんの二の舞にはぜったい、させない。あの子にはあの子の人生がある。だれに奪われてなるものか……病気にだって手は出させない。ぼくの頼りない研究でも、あの子に時間をつくってやれるのなら、完成させてみせるよ」
「卑下してはだめ。ジョウの発明は、想いを託す立派なものなの。わたしたち一人一人の時間はとても短いけれど、想いのバトンをつなげば時をも超えられる」
ぼくを見あげるきみの目は相変わらず赤い。
けれどきみは、もう泣いてはいなかった。目元に寄せたぼくの手を握りしめ、きみは秋のおわりに赤く咲くサザンカのような気高い微笑みをうかべている。
「そうでしょう? ジョウ」
きみはぼくを励まし、愛し続けてくれた。きみがいなければ、ぼくはとっくにこの世にいなかっただろう。
だからせめてもう少し、きみと日々を重ねていきたかった。
だからぼくは、きみを裏切ったんじゃない。ぼくはただ、ぼくたちの宝物を守りたかっただけなんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます