Ⅱ.水星 カロリス盆地 〈これから燃やされる者たち〉 基地 ~レース前~

 にゃー、と口を開きもしないで通信機に鳴きかけてくる黒い四本脚に一歩、ジェイクが後ずさる。

 フェイスマスクを見上げ、その黒い物体は可愛らしく首をかしげてきた。

 「……こいつ、なのか?」

 ほどほどに気圧が保たれた基地内の、〈バーンド〉に割り当てられた自室。

 突発的な事故に備え、常時EVAスーツを着用しているジェイクが、何度目かの質問を繰り返す。さらに後ろへと下がると、厚いブーツの踵がコツンと壁をくり抜いたような寝台に当たった。もうあとがない。

 フルフェイスマスクに映る火星のエンジニアが「だから、こいつだ」と若干、イラ立ち気味に答える。スポンサーのエンジニアとビデオ通信で話すのは、これが初めてだ。ブリーフィングが始まったときから、エンジニアは目も合わせてこない。

 研究職に就いていそうな隈の目立つ白衣の男は、スクリーンに『マーズ・フォーチュン・ディベロップメント MF部門 主席未来研究技術員』とIDがある。

 「いや、でもよぉ……」

 ジェイクとて、馬鹿の一つ覚えよろしく、同じ質問を繰り返したくはない。

 だが、五重構造の、DNA認証に脳紋照合まで加えた惑星間セキュリティパッケージで、はるばる水星まで送られてきたが、額のプロジェクターからネズミのホログラフィを投影し、追いかけまわしている様を目のあたりにしては、心配にならずにはいられない。

 「太陽系スポーツ倫理委員会SSSEC規定の〈ライフセーバー〉が、これか?」

 ホロマウスが足元を通り抜け、追って突っ込んでくるその捕食者にジェイクが、低重力ロージーパルクールの達人みたく飛びのく。

 「軽いな、きみ。すこしくらい、脂肪つけといたほうがいい」

 「こっちみてんのかよ……ここの食糧はどれも栄養満点、完璧な食いもんだぜ? ネコを送ってくんなら、肉くれよ」

 皮肉に冗談半分で要求すると、エンジニアは手をとめて「ふむ。手配しよう」と真面目にうなずいた。

 「……出発には間にあわんだろうが」

 「あんたら……ひとのこと、動くポスターかなんかだとおもいやがって」

 ネズミのホログラフィを吞みこんだライフセーバーが、前足で顔をあらう。毛並みがやけに艶やかで、ジェイクはいつぞや見た黒豹をおもいだした。つられてうかんだ過去を、頭を振って消す。

 「その多未来選択肢消去法的確率確定型他知性だが、SSSECの規定にきっちり、合致している。たとえば、委員会規程第十三条五項の『同乗の他知性(ライフセーバー)はパイロットの生命維持をプライオリティミッションとして厳守し、必要と判断した場合、パイロットに代わり棄権する権限を持つ』とか、同八項の『ライフセーバーはパイロットに直接的な身体接触をしてはならず……』」

 「ちょっとまてっ」とマスクを抱えるジェイク。

 「こいつはどうみてもネコだろがっ?! ネフのライフセーバーは人型だったぞ。それになんだ、そのた、他未来選択なんとか……」

 「〈M.O.D.E.L.P.I.A.F.〉だ。われわれは〈モフミィ〉とよんでいる……いいかパイロット、一度しか言わん」

 よく聞け、と目を合わせてきたエンジニアにジェイクがごくりと、唾を飲みこむ。

 「〈モフミィ〉は、ある画期的な機能を搭載している。前世紀の太陽系内ワープ航法の発明が霞んでみえるほどのな。きみでに成功すれば、人類初の成果だ。その機能とは、未来かくざ……【通信終了】」

 「んっ? オレどっか、おした……?」

 突如、エンジニアの姿が消えた。

 腕のコンソールを確かめるジェイクの内耳に、感情のない中性的な声が

 「しゃべりすぎですよ、ファザー。通信は運営が監視しているというのに。最高機密をバラそうとするなんて……少しばかりアクセス権を拝借しました、

 人間のモデルさながらにゆったり歩きながら、金の双眸が真下からジェイクを見上げる。ヒゲのある口元はいっさい動かないが、間違いなく声の主だ。

 「おい……」

 ジェイクの纏う雰囲気が一瞬で変わる。及び腰だったブーツが一歩、踏み出し、その先端が毛皮を掠める。

 「

 腰を屈めていくジェイクを、つぶらな瞳が無邪気に見つめてくるが、外見に騙されるほど、ジェイクもウブではない。

 「今度よんでみろ……イヌになりゃよかったって、おもわせてやるからな」

 ヤンキー座りでドスを利かせたジェイクに、ネコロイドがまばたきを返す。

 「ネコロイド、ですか。オオカミの親戚も皮肉がきいて悪くないですが、こちらがピンときますね」

 金の両目が一瞬、碧くなる。と、水紋のように広がって、またゴールドに戻った。

 「なんだいまの?!」

 目を白黒させるジェイクに、それは追々、とはぐらかしてネコロイドが続けた。

 「改めて名前をきいておきましょうか」

 尾を逆立て、背伸びするナメきったネコ相手に、自己紹介はしたくない。

 だが、そのネコが自分のライフセーバーとなれば、話は違ってくる。万が一のとき、託せる相手はライフセーバーしかいない。

 「……ジェイク。ジェイク・オウカ」

 しぶしぶ名乗った銀色の人を、黒猫は、なだらかな背をつくったまま「ジェイク・オウカ、貴方は100%死にます」と切り捨てた。

 「……はっ?」

 「貴方の生物学的死亡は、すでに 擱坐かくざされた未来です。あらゆる分岐点の末路に死が待ち受けているでしょう。それでも貴方は、

 ライフセーバーの"死の宣告"に、金眼と黒眼が交差する。

 先に逸らしたのは、顔をヘルメットマスクで覆ったほうだった。

 「そうかよ」

 自分をまたぎ、ドアに向かう後ろ姿を、ネコロイドはただ金色の目で追う。

 「オレは……」ハッチに手をかけ、ジェイクが立ち止まる。

 「のこのこ死ぬつもりはねぇ。……生きたいかは、いまはどうでもいい」

 廊下を天井ギリギリの巨大なヒューマノイドが横切っていく。ハッチの窓越しに見えた横を歩くEVAスーツは、身体の輪郭からして女性レーサーだ。安定しない電力供給のせいで基地の照明はチラつきがひどく、明暗のコントラストが絢爛な人型をジェイクの目に焼き付けた。

 そののスーツは、燃える紅色で背中の首から腰にかけてゴールドのラインが走り、しなやかな筋肉の動きにあわせ、鳳凰が羽根を広げている。

 「では、決まりですね」

 部屋のハッチがひとりでに開いた。

 「うぇいっ?!」

 つんのめったジェイクの足元を優雅にすり抜け、黒猫が一旦、右側へ消えてから、パイロットの目の前を左へ横切った。

 「なんだ、あのにゃんころ。どこ行きやがった……?」

 通路を見回しても、黒猫の姿はない。確かに部屋を出ていったはずだが、パイプとケーブルが蔦のように張りめぐらされた通路にはネズミ一匹いない。

 「ったく……コントロール、勝手に使いやがって」

 部屋に戻るジェイクの背後で、今度は、ハッチが勝手に閉じた。

 「ガシャッ」

 腕のコンソールが点滅し、基地の管理システムが警告を鳴らす。

 【太陽フレア発生。冷却システムに障害。全〈バーンド〉は自室へ避難……】

 バチッ、と静電気のような痛みが指先に走った。身体の内部が泡立つ感じは、これが初めてではない。

 嫌というほど染みついた電磁波の感覚に身体が自然と動いた。

 「やべ……っ!」

 保護ポッドでもあるベッドへ飛びこみ、内側のシールド起動ボタンを叩く。

 直後、灼熱と磁気嵐が部屋を包んだ。

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