三章 『巣立ち』
午前0:03。
外は真夜中でも、壁と天井、床のあいだから間接照明が喫茶店のようなやわらかい温暖色にリビングをつつむ。三枚羽根のシーリングファンが風を切り、サックスの心地よい嘶きがスムーズジャズを奏でる。食卓につくまえから焼き魚の香ばしさが熱で鈍った鼻をくすぐった。
「うちって、いいね」
三人掛けの円テーブルで隣に座った実伊須と、「きょうのお昼はお魚よー」と長角皿を置く大杏。二人を交互にみてつぶやいたぼくに、「どうした礎風? シミジミしてさ」と実伊須がメガネを押しあげる。
「落ちつくな~とおもって」
節々が痛みだした体を背もたれにあずけ、ぼくはテーブルに隠れた両手を意味もなく動かした。
普段と変わらない光景。ぼくの記憶にある限り変わらない日常。ぼくがこの
余所では、
それを知っていたぼくは、実のところ、本当にはわかっていなかった。
「家、だからな。そりゃ落ちつくだろうさ」
ふっ、と笑った実伊須はまるでなんでもないことのように肩をすくめてから、食卓に手を置いた。角メガネの目の下が影のようにくすんでいる。昼間に仕事をこなす実伊須も、寝る時間を削って真夜中の昼食の席についている。
「うん、そうだね……ありがとう実伊須」
「なにさ改まって。変だぞ? 礎風、熱でもあるんじゃないのか……いてっ! なんでつねるんだよ大杏っ!」
ぼくの額に手を伸ばした実伊須が脇をさする。実に痛そうだった。
実伊須の横、ぼくの斜め向かいに座った大杏は、そんな実伊須をじろりと睨みながら、ぼくをチラチラみていた。掃除道具を取りにきたときのことを気にしているのだろう。そのことも謝らなきゃな、とぼぅっとする頭にメモする。
「めずらしく勘が鋭いじゃん」
ニヤリとしたぼくを実伊須は「一言よけいだよ」と親指で自分の鼻をこすった。褒められたときの癖だ。大杏のほうはいまのぼくの言葉で顔が青くなっている。やはり、
「礎風……まさか」
「うん、ちょっと……というかけっこう、熱がある」
「たいへんじゃないか! すぐメディックに……」
「実伊須、病院にいくよ。
立ち上がりかけた実伊須を止める体力がぼくにはない。じっと目を見つめ、時間がほしいと訴える。
「なにがあった、礎風?」
大杏と顔を見あわせ、実伊須が腰を下ろした。
「朝、じゃなくて陽が暮れてから、庭に出たんだ。創作が行きづまっちゃって。オリーブの樹のしたに薔薇があったでしょ? そしたらあれに引っかかって」
隠した右腕をテーブルにのせる。出来たての料理と作った大杏に申し訳ないけれど、タイミングはいましかなかった。
「そのうで?!」
袖をまくっていくと、大杏の息をのむ声が聞こえた。ここまで傷が酷いのは初めてかもしれない。
「だまっててごめん。自分の体質はわかってたけど、無用心だったよ」
「わかった。じゃ、はやく病院にいこう。ブイエー、ビークルを表に」
「ブイエーは無しっ! まってっ!」
急に立ちあがったせいで頭がクラクラする。テーブルに手を突いてなんとか、体を支えた。肩で息をするぼくを実伊須も大杏も困った目でみている。反応しないヴァーチャルアシスタントに気が回らないのは助かった。
VAのセキュリティは外したままだ。
「いま、ホロオブジェの製作があと少しのこっているんだ。ぼくは……げほっ……仕上げてからいく」
「礎風、おまえの体は感染に無防備なんだぞ。わずかでも長引かせば、深刻なことになりかねない」
ぼくの肩をつかんだ実伊須の表情は険しい。こんな顔で言われたら、かつてのぼくなら言い返せなかっただろう。
頭ひとつぶん、上にある
「ぼくは大丈夫。深刻になるまえに病院へいく。だから今晩だけ、まってほしいんだ。ぼくはやり遂げるし、死にもしない。約束するよ」
いつになく真剣なぼくに、実伊須も困惑しているようだった。焦げ茶色の瞳が迷いと信頼でゆれているのがわかる。
『Eternal Rose』はもう仕上げに入っていた。
一から作り直しになったけれど、苦ではなかった。作業中は傷の痛みを忘れるほどに集中し、自分でも最高傑作になりそうな予感がしている。
ぼくにはもう一つ、病院へいくまえにやりたいことがあった。こっちは言っても絶対に理解してくれないだろうから、
「ねぇ礎風。もしさっきわたしの言ったことのせいなら……」
「ちがうよ、大杏」
ゆっくり大杏に向き直る。
「大杏の言ったことは正しかったよ。あんなこと言ってごめん。ぼくは自分と向きあわないといけない。
「まだ無理しなくていいんだぞ、礎風」
倒れそうになるぼくの肩を支え、実伊須がのぞき込んでくる。
「わかってるよ。でもぼくはもう、外の世界はこわくない……太陽だってね」
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