二章 『分水嶺』

「とりま、これでなんとかなった……のかな?」

 篭手から生えた橙色の花。指の部分を広げて"脚"にし、手を入れる袖口から土を篭手内に詰めてそこへ植えたカレンデュラ。不格好である以上に安定性が著しく低い"篭手鉢"は、いま、立てたばかりのぼくの目の前でまた転けた。

「ダメだな、こりゃ」

 さっきから転倒を繰り返すせいで、普段、ホコリひとつ落ちていないぼくの机には、腐葉土の塊が散らばっている。ディスプレイをみながらチョコレートを食べたところで、この有様にはならないだろう。土塊に隠れていたダンゴムシが一匹、テーブルから這い出そうとしていたので、ぼくはあわててもう一つの篭手を差し出す。結局、ダンゴムシは身投げすることなく、ぼくのテーブルの探検を再開した。

 はぁー、とため息をついて、ズボンのポケットにねじ込んでいたリストバンドの時計を取りだす。時刻は午後9:21。まで、まだ時間はある。この状況をどうにかしないと。

「いっ……つっ」

 無意識に弄った手首がヒリヒリする。消毒し、絆創膏バンドラスドも貼った。"作業"しているときは気がつかなかったけれど、傷口のまわりには結構な量の土が付いていた。

 あいにく、ぼくの部屋に水道はない。キッチンかトイレまで行けば洗えるけれど、間違いなく大杏に見つかる。勘の鋭い大杏には部屋の惨状も隠しきれない。建築家のくせに、「トイレは家族の共同スペースだ!」と宣言して一カ所しか手洗いを設置しなかった実伊須が恨めしい。

「まずは、ちゃんとした鉢からだ」

 "篭手鉢"をズズッと机の隅に寄せ、途中、また倒れてばら撒いた土を手づかみで篭手の中に戻す。磨きあげた篭手の表面も土まみれだ。この篭手プロジェクタはもう使えないかもしれない。そうおもうと、少し胸が痛む。仕事道具をダメにするのは浅はかだったと、冷静になったいま、感じはじめている。特に、顧客からオーダーを受けている状態では。

 アクリルの机に投影されたキーボードを叩き、大手通販サイト『アマゾネス』にアクセスする。

 検索フィールドに「植木鉢」と打ち込むと、8万件以上も結果が出た。大きいものから小さいもの、素材は陶器から布製まである。さすが世界最大のショッピングサイト。『書籍から墓石まで』のキャッチコピーは伊達じゃない。

「プライマリーで絞りこんでっと。即時配達デリバーナウができるのは……」

 有料会員の期限が切れているかも、という不安は、有料会員の青いバッジが吹っ飛ばした。自動更新さまさまである。

「小型がいい、な。んでなるべく高機能なやつ」

 堂々と机にカレンを置いていられれば、普通の植木鉢でもいい。ショッピングサイトのページから据わりの悪い鉢へ目が移る。

 けれど、そこには露出した土と水。そしてであるカレンデュラの株。

 自然免疫すら欠けているぼくにとって、そのどれもが、致死的な結果をもたらす。

「……だからなんだってんだ」

 タイピングを止めたぼくの親指を、机を縦横無尽に駆けるダンゴムシがつつく。意地悪したくなって土の付いた手で閉じ込めてやる。

 このダンゴムシと同じだ。ぼくも自宅という天蓋の下で身じろぎが取れない。いや、取ろうともしなかった。

「でも、外の世界には、こんなきれいなものがあった」

 机の隅で花を咲かすカレンデュラ。薔薇の茂みに埋もれていたこの花を見つけたとき、なぜか太陽がおもいうかんだ。なのに、息が荒くなることも汗が噴き出すこともなく、ただカレンデュラを持ち帰りたい衝動が強くて、ぼくは植物に日光が欠かせないことも忘れて掘り出してしまった。

 そしていま、太陽の映し鏡がぼくをみている。想像するだけで気が滅入っていた、ぼくを妬く太陽をぼくは初めて、正面から考えられるようになった。カレンデュラにもらったこの力を、無駄にしてはいけない。

「ぼくも冒険のときってかい?」

 ダンゴムシが手のひらをつつく。手の屋根を開けると、スルスルッとメタリックな重装甲が駆けていく。

 向かう先は、篭手の中で傾いたカレンデュラ。その花をみてぼくは心を決めた。

「やってみせる」

 

「ホウキ? あるけど、どしたの急に?」

 大杏は菜箸を持ったまま、不思議そうに首をかしげた。数字をかたどったイヤリングがキッチンの灯りにキラキラとゆれている。

「えぇっと……」

 部屋の土を掃くため、とは言えずに口ごもる。大杏はそんなぼくの答えを待ちながら、フライパンを揺すっている。

 養母ははとして大杏はただ、掃除に無頓着だった息子の変わり様を不思議がっているだけだ。いまのところ、疑われてはいないはず。とわかっていても、後ろめたさがぼくの目をおよがせた。

 調理教室が開けそうな広々とした"コの字"型のシステムキッチンで、大杏はひとり、の準備をしていた。うちは三人家族だからキッチンに業務用並みの広さはいらないはずだけれど、大杏は家を建てるときに頑として譲らなかったらしい。実伊須が言うには、「あらゆる料理が作れる」キッチンを求められたとか。

 たしかに、シンクを取り囲うように煉瓦造のピザ釜が鎮座する横で、壺の形をしたタンドールが異彩を放っている。壁には1メートルを超すマグロ包丁が、武具みたくディスプレイされているし、背が2メートル超えの冷凍庫にはいつだったか、ブタの頭がまるまる入っていた。うちの料理は多彩だった。

「ほ、ほら、もうすぐ誕生日じゃん? 十三にもなったら部屋の掃除くらい、できるようになったほうがいいかな~、って」

「えらいわね、礎風ソフ! ついこのまえまで『繊細なんだから勝手に拭くなー』って篭手プロジェクタに触らせてくれなかったのに」

「そ、そうだったっけ……あは、あはは〜」

 もはや拭いたくらいではおそらく、どうにもならなくなっているだろうその篭手プロジェクタ。冷や汗が背筋を流れていく。

「ちょっと待ってね」と言って菜箸を置き、キッチンの反対側へ向かう大杏。鼻唄まじりだの本人は皮肉のつもりが微塵もない。ただ勘が鋭すぎるぶん、すべて見透かされているようでなんとも落ち着かない。

「はい、ホウキとチリトリねー。どっちも滅菌済よー」

 大杏が差し出した掃除道具は

 それが〈ヴェール〉によるコーティングだと気づいたのは、受けとった手にくすぐられるような感覚がつたわったから。腕と同じ長さの柄のホウキと、スコップのような真っ赤なチリトリ。まるで異世界から来たのか、二つの掃除道具にはエネルギーシールドが掛けられ、ぼくの肌に直接触れないようになっている。

「〈ヴェール〉のパッケージ……? もう市販化されてたっけ」

「試作品よ。コスト的にはまだまだみたいね。これは実伊須がね、礎風に試してほしいって前々から用意してたのよ?」

 養父ちちはエネルギーシールド〈ヴェール〉の建築への応用を研究している。建築家でもある実伊須は、窓を〈ヴェール〉で代用するアイディアを認められ、〈ヴェール・ウィンドウ〉は急速に広まってきていた。エネルギーシールドは柔軟に空間をヴェール区画化し、雨風はもちろん、遮光の程度も自由に変えることができる。

「……これぼくに?」

 意外だった。実伊須はどちらかというと、ぼくの引きこもりに反対派を取っている。以降も、実伊須は事あるごとにぼくを外へ慣らそうとしてきた。そんな実伊須が息子のために家で使う掃除道具を、次世代技術で試作するのだろうか。

「あったりまえじゃないっ!」

 大杏がぼくの肩を叩く。なかなか痛い。

「実伊須はね、礎風が使いそうなものすべてに〈ヴェール〉が適応できるか、いま一生懸命試してるのよ? いつの日か礎風がこの家を出て、ひとりでも暮らせるようにね」

「家を出て……灼かれて死ねって?」

 自分でもビックリするくらいの冷たい声だった。大杏がぎゅっと拳を握るのがわかる。こんなことを言うつもりはなかった。

「ねぇ待って!」

 掃除道具を引ったくるようにしてキッチンに背を向ける。どうしていいかわからなかった。

「ちがうわっ、礎風っ!」

 後ろから大杏が呼び止める。

 走りだしたぼくは振り返れなかった。


 *  *  *

 夢のなかにいた。


 見慣れた自分の部屋にはまだ机も、コンピュータもなく、部屋の壁には大杏が撮影した写真が、所狭しと並んでいる。

 ぼくは、まだガラスだった頃の窓のまえに立ち、外を眺めている。庭の芝生が青々と陽の光にゆれているのが、いまより低い背からもみえた。

 それはぼくが二歳の頃、大杏と実伊須の元に来てすぐのことだった。

 鍵のかかっていなかった窓をまえに、二歳児はただ外へ出たかったのだろう。「おそとにでてはいけない」と言いつけられていたとはいえ、二歳児の好奇心に言いつけはなんの効力もない。

 窓から射す太陽光。すでに肌がヒリヒリとしていたにもかかわらず、二歳のぼくは窓に手をつけ、そのの拍子か窓はスライドした。

 開いた隙間に体を入れ、ぼくは脱出に成功する。

 芝生に踏み出し、青空を見あげ、


 地獄が始まった。

 *  *  *

 

「はあ……はあ……」

 開いたまぶたの上を汗が流れていく。心臓が体から逃げ出そうと暴れている。速乾性のボディスーツが吸収しきれないほど、背中はぐっしょりしている。久しぶりのフラッシュバックだった。体は太陽に慣れても、記憶はそう簡単に消えない。

「寝てた、のか」

 体を起こし、ズキズキする手で時計をズボンのポケットから引っ張り出す。キッチンを飛び出してからまだ30分も経っていない。カレンデュラが鉢に収まって安心したのか、ぼくは夢をみるほどにすっかり寝込んでいたらしい。でも体は休まるどころか、直火で炙られたような感覚がまだ残っている。重い体を無理やり立たせ、ふらふらになりながら部屋の反対側を目指した。

 キッチンから部屋に戻ると、完了の通知が時計に届いていた。

 『アマゾネス』の郵送オプション、投下配達ドロップデリは早い。座標を入力してやると、機体にウインクマークのついたドローンがピンポイントで飛んでくる。初期の頃と違って、いまはちゃんと地面まで荷物を置いていってくれる。

 部屋から近い庭の一カ所を投下地点に選んでいたぼくは、今度こそ手袋をはめ、片手にチリトリを持って完全防備でもう一度外に出た。庭の指定した地点に寸分違わず届いたブラウンの土壌還元ダンボールERCから植木鉢だけ取りだし、チリトリで土を掘ってERCを埋めた。数時間で土に還るERCなら、大杏がガーデニングで剥げた芝生を怪しんでも証拠は残らない。

 植え替えで出た土は、机と床をひととおり掃いて(雑巾も借りればよかった)庭に捨てた。相変わらずぼくの机で冒険していたダンゴムシにも庭へ帰ってもらった。

 ホウキもチリトリも柄がある。庭へ出なくても〈ヴェール〉の窓から掃除道具を突き出して降れば、付いた土を落とせる。〈ヴェール〉同士、干渉することもなく元々コーティングされた掃除道具は、簡単に綺麗になった。

「ガタッ……ゴトッ……」

 放ってあったホウキに足を引っかけ、チリトリにつま先をぶつける。倒れずに机まで歩いて最後は背高の椅子に倒れこんだ。ロッキングチェアが大きく軋んでのけ反る。まるで二日酔いだ。

「いっつつつ……っ!」

 椅子にもたれ、右腕をアームレストに投げ出す。途端、鋭い痛みが腕を突き抜ける。トイレで洗い、下ろした袖をたくりあげると傷の有様がよくわかる。

 薔薇の棘で切った傷はミミズ脹れになり、熱を帯びてジンジンしていた。特に酷いのは手首だ。消毒もしたはずなのに化膿している。色白の皮膚に、赤とマスタード色が子どもの絵のように四方に散っている。ぼくはこういう絵は描かない。

「これはちょっと……まずい、かな」

 体がだるいのは、夢のせいだけではない。いま頃、防御機構がほとんどないぼくの体内では、弱い菌も強い菌も盛大に宴を開いているのだろう。残念ながら、宴会を止める警備員は欠員だ。

 ぼんやりする頭をもたれかけ、机の隅で咲くカレンデュラへ目をやる。自動水やり機能の超小型ジョウロが、鉢の縁からせり出して土へ、チョロチョロと蜘蛛の糸のような水を注いでいる。

「どうすっかな」

 掃除のときに床へどけたペアの篭手プロジェクタを拾い上げ、怪我していない左腕にはめる。指を動かすと、映像を投影する結晶が光った。

 宙にうかぶ薔薇の毬。カレンデュラを連れてくるまえに放り出した状態のまま、ドームが取れて薔薇があらわになっている。

 この依頼は断ろうとおもっていた。ダメ出しを食らったからじゃない。顧客の指摘は正しい。

 ただアイディアがうかばず、いまの出来には満足できなかった。

「いや……投げだすもんか」

 フレイム・オレンジの、カレンデュラの花を眺めているうちに、だんだんと頭が冴えてくる。体のから熱くなってくる。

 弱気だった自分にカレンデュラが力を与えてくれる。

「そうかっ!」

 椅子から背を起こす。勢いをつけすぎて目眩がしたけれど、気にしなかった。

必要なんてないんだ」

 弾けたアイディアの光はたちまち次の閃きに火を点け、明確な像を作りあげていく。あれだけ掴めなかった作品の全体が、いまや細部までくっきりとみえるようになった。

「それならっ……!」

 机にあるもう片方の篭手プロジェクタ。中はまだ土にまみれている。掃除はできていない。でも、片手ではホロオブジェに修正を加えられない。

 薔薇のホログラフィと、化膿した自分の右腕を見比べた。まだ、やれる。

「よしっ!」

 やらない理由はいくつでも言える。

 やる理由はひとつだけだ。

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