一章 『出逢い』
夜が明ける10時間ほどまえ、ぼくは朝から機嫌が悪かった。
原因は、ぼくに届いた一通の
「……『花片の色あいにムラあり。テクスチャに均一性がなく、指定カラーコード不一致。〈リトル・ガウディ〉の作として些かリアリティに欠ける』だって?!」
箇条書きで送られてきたフィードバックを読む声が上ずる。椅子から身を乗り出して三度、スクリーン左の文字列を読み返しても当然、書いてある評価は変わらない。そもそも、顧客からのフィードバックは事務局のチェックが入っているから、いたずらや冷やかしの入る余地もないのだけれども。
「好き勝手いうなホント。まぁとりあえず、カラーテストでもするか」
左手でフィードバックウィンドウを払い、右側に出しておいた下書きのイラストをディスプレイいっぱいに広げる。
絵には半透明の球が二つ、分裂直後の細胞のように引っ付きあっている。細胞膜代わりの磨りガラスの中で、緋色の薔薇が咲いている。まるでスノードームのイラストだ。左下隅には、ぼくの手書きで『Eternal Rose』と銘打ってある。
ここまでは二次元の、ただの絵。
「さーてと、
リストバンドの時計兼コンソールを外し、ズボンのポケットにねじ込んだ。時刻は午後8時過ぎ。朝食を終えたばかりのぼくはこれからが仕事の時間だ。陽が昇るまで自分の世界にこもっていられる。
テーブルの端に揃えて置いた、中世の騎士が身につけるような篭手に左腕を通し、手首の裏にあるスイッチを入れる。キュイーン、と高い音がし、指先と手のひらに埋め込まれた無数の結晶が、ホログラフィプロジェクタとして目覚める。右腕にも
そして、ぼくは胸の前の空間を左右から摑んだ。
「どれどれ……」
三次元ホログラフィオブジェとして
左手でオブジェを支え、右手でドームを取り外して中身をあらわにする。
中には薔薇がぎっしり詰まっていた。真紅のミニバラをそのまま毬状に固めた二個のブーケだ。ブーケの持ち手部分はもうひとつの花毬と対を成している。二つのブーケは継ぎ目がないように描いたから、まるで、引き離される瞬間の雫を留めたかのよう。全体を一通り確かめてから花びらのひとつひとつを
顧客の依頼は、「あらゆる角度から満開にみえる薔薇」のホロオブジェだった。
個人アーティストが作品を展示販売するプラットフォームで、ホロオブジェクリエイタとして小遣い稼ぎを始めてから四年が経つ。〈リトル・ガウディ〉こと、ぼくのもとには、時々こうして依頼が入るくらいには知名度があった(とおもっている)。依頼をもとにぼくがイラストとホログラフィを描き、サンプルのホロモデルは無料で顧客に渡す。
ホロオブジェのアーティストは数年前からいるから、特徴を出すためにぼくはサンプルに透かしも入れず、解像度も下げずに顧客に送る。初めのうちはそのせいで支払いをしない客や、そのまま自作として売る人もいた。けれど、ぼくの作品をパクった人間は、ぼくの個性までは盗めない。
おもに花や昆虫を想像のまま描いたぼくの作品が物珍しかったのか、意外に好評で、売れ行きも一ヶ月の食費といくらかを
「こういう質感だとおもうんだけどなー」
サブディスプレイに植物図鑑を出し、ふさがった両手の代わりに視線入力で薔薇の写真をスクロールしていく。
インターネットは便利だ。実際に触れなくても、細かいディテールまでつぶさに知ることができる。
「うわ、ホントだよ。カラーコードちがってんじゃん。なにやってんだ、ぼく。こんな凡ミス」
右手のホロ用のカラーピッカーで抽出した値が宙にポップアップする。顧客の指摘どおり、一部の花びらはオーダーの「ラージャ・ルビー」ではなく「モロッコ・レッド」になっていた。ぼくの場合、カラーリングは手作業なので間違いが起こる確率は自動ペイントよりも高い。これはすべて塗り直すしかない。
ペイントツールを呼び出してふと、顧客の指摘をおもい返した。
「……リアリティ、か」
ぼくにとって
映像としてたしかに目の前にある。テクスチャを振動で再現する
だから、ぼくの作るものはプリントがしづらい作品ばかりだ。3Dプリンタでは出力が困難な形状・素材・手触りを意図的に選んでいる。
「たしかに、なんか……ちがうんだよなー」
色付けは後回しにし、ディスプレイから顔を離した。方向性がみえていない状態での作業ほど苦痛なものはない。
「よりリアルに、かぁ」
椅子の背もたれに体をあずける。両手はまだ机のうえに『Eternal Rose』を投影している。ギィ、とエルゴノミクス設計の椅子が軋んだ。特製ロッキングチェアの快適なゆれも、わざわざ「軋む」ように設計された音も、ノイズにしか感じない。
ヘッドレストに頭を付け、目を閉じる。
いつも鮮明にうかぶ作品のイメージがぼやけ、集中しようとするたび、像が霞んだ。
「あ~もうっ!」
椅子を蹴飛ばす勢いで立ったぼくは、プロジェクタの篭手を摑んで机に叩きつけた。もう片方も強引に腕から引き抜いた。薔薇のホロオブジェにノイズが入ってたちまち、かき消える。
ブイエー、と
「〈ヴェール〉の出力をさげといて。これから庭に出る」
額縁が並んだ部屋の壁には、ぼくが特に気に入ったホロオブジェのイラストが飾られている。
昔は、ここに大杏の撮った写真を額に入れていたけれど、あのことがあって以来、風景写真はすべて壁の中に仕舞った。収納スペースも兼ねている壁の中はクローゼットになっている。
「ふぅー」
はためくカーテンを留めたような、ウェーブした窓のまえに立つと、エネルギーシールドを発生させる高周波の音がかすかに聞こえてきた。
海にうかぶ街、〈
「ソフさま」
傍のウォールインクローゼットを開けたぼくに、
「現在、庭園の
〈ヴェール〉の外は真っ暗でなにもみえない。最大出力に設定された〈ヴェール〉は光を完全に遮断する。たとえいま、気まぐれな太陽が昇っても、やはり真っ暗には変わらない。
VAが言うからにはいま頃、
「だったらUVGIを中止!」
室内は光る壁と天井の間接照明で明るいぶん、窓の向こうは、闇という空間をそっくり切り出してきたかのように黒々としていた。ガラスと違い、光を反射しないエネルギーシールドにぼくの姿は映らない。
「くそっ……! こんなものっ」
クローゼットから取りだした真新しい
「ソフさま、心拍数が上がっております。PTSDの傾向が……」
「うるさいっ! ブイエーはだまってて」
「しかし、アドミニストレータであるミースさまからは、ソフさまの健康状態をたしかめるよう仰せつかっておりますので……」
「ブイエーっ! 個体ナンバーVA-2031A-2!……『
ヴァーチャルアシスタントのIDをよび、ぼくが組み込んだ認証フレーズでシステムのロックを外す。
途端、ピタリと人工音声が止んだ。ブイエーはプログラムでしかない。そしてプログラムは、以前ぼくが書き換えたコードにしたがって無条件に命令を聞き入れるモードに移行した。
「
深呼吸して自分を落ち着かせる。手袋はわずらわしくなって着けるのは止めた。どうせ、なにも触れやしない。
「ぼくは健康だ。だから、アドミニストレータにはそうやってレポートしておけ」
「……かしこまりました」
低い声がそういうと、ブーン、というエネルギーシールドの音が小さくなっていく。外は相変わらず暗いけれど、少しずつ黒の中に輪郭がみえてきた。限りなく黒に近いオブシディアンの絨毯は芝生だ。
「ふうー」
きちんと積み上げられた手袋と、着替えのボディスーツのうえに鎮座する、ライダーが使うような仰々しい密閉ヘルメット。それを被ると、空気の抜ける音がしてフィルター越しの真新しい空気が肺を満たした。滅菌処理された只の空気は消毒剤の匂いがする。
ヘルメットの内部では、ぼくを検知したシステムが起動シーケンスを終わらせたところだった。二秒ほど文字列が走ったあとは、ヘルメットを被っていないときと同じくらいに視界が広がる。裸眼の視界と違うところは、右下に『UVインデックス:1未満』と白い文字が透かしのように入っていること。インデックスが2を超えるとアドミニストレータへ自動的に警告が行く。
「いくぞ」
〈ヴェール〉に手のひらを押し当てた。スピーカーを触ったかのように手のひらを細かい振動がくすぐる。
手に力を入れると一瞬、〈ヴェール〉が押し返した。すぐさま、ぼくの左手を飲み込む。
手首から先は外の世界。まるでぼくを誘うように、素手を風がなででいく。
一歩、踏みだしたスニーカーのつま先が〈ヴェール〉に消えた。
靴底から芝生を踏みしめる感触がつたわってくる。スニーカーも、手袋並みに密閉性の高い靴下も脱ぎたくなった。ヘルメットさえも脱ぎ捨てて芝のうえで転がりたい。
その光景を想像していると、太陽がイメージに割りこんでくる。美しいとおもう間もなく、すべてを光で塗りかためる明るすぎる光の星。
「……あっちいけっ」
ヘルメットを振ってビジョンを頭から追い払った。目の前に集中する。
ぼくはリアリティの調査に来たんだ。遊びで真夜中の庭へ出たんじゃない。
「オーバーナイト・センセーションは……こっちだったっけ」
かつて、宇宙へも運ばれたという名高い薔薇。『Eternal Rose』を製作しはじめた際、ネットで薔薇を調べたときに一発で名前を気に入った。大杏に植えてもらったあのミニバラは、そのときから場所が変わっているかもしれない。庭を足早に進んでいく。
サッカーフィールド並みの面積を有する
探索の結果、わかったのは大杏のガーデニングが少々、気まぐれだということだった。樹木以外の花卉はしょっちゅう植え替えられ、まるで毎回、知らない庭を散策している錯覚におちいる。
「チェックポイント到達っと」
さいわい、この数日はあまり庭へ手を加えていないらしい。芝から突き出た
きょうは満月らしく、青白い光が舌の形をした葉をつつむ。
「やっぱりここか」
目当ての薔薇も、植えたときと変わらず大柄な薔薇に埋もれるように大樹の下で茎を伸ばしていた。茎から先がバッサリなくなっているものは咲き終わって切られたのだろう。すべての花が剪定されたわけではなく、数輪、自然の折り重ねた芸術品である花の冠が残っている。月光を浴びた薔薇は色が褪せ、ルビー色からほど遠い代わりに、花びらは上物のシルクのよう艶やかだ。
「さて……テクスチャを検証するためだ。いいよねー」
仕事のためだと自分に言い聞かせ、薔薇の茂みに手を突っ込む。手前の枝が思いのほか丈夫で、オーバーナイト・センセーションになかなか届かない。伸縮性に優れた長袖に棘が引っかかって余計、動きが鈍る。
「邪魔っ!」
一旦、手を引き抜いてから思い切って右腕の袖をまくり上げた。たくれた生地が自ら検知し、製麺するようにシワが伸びて片腕だけ七分丈に変わる。そうやってあらわにしたぼくの腕は、薔薇の横で咲いているスノーフレークの鈴よりも白い。もう一度、腕ごと右手をイバラに差し込む。
「もうちょい……いてっ!」
滑らかな花びらに触れた瞬間、チクッと痛みが走った。
反射的に腕を引っ込め、刹那、間違いに気付く。
「……っっ!?」
真っ白だった腕と手には赤い筋がいくつも入っていた。特に手首は、薔薇の棘を勢いよく擦ったせいで生命線を引き伸ばしたように、3センチほどの傷から血が滲んでいる。
はやく消毒をしないと。
肌身離さず持ち歩くよう、実伊須に何度も言われた救急キットは持っていない。自宅の庭で、しかも薔薇の棘で手を切るなんて。実伊須が知れば当分、笑いぐさだ。
「なんだよまったく! きょうはツイてなさすぎる」
短くなった袖を引き伸ばして傷を覆い、このくらいの傷ならバレないかもしれないなどと考えながら引き返そうとしたときだった。
顔を上げたそこに彼女がいた。
ヒマワリのような放射状に広がった、たくさんの花びら。
夜でもわかる明るい橙色。
花の中心、丸い
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