18.解決しない悩み

 学校から家へと帰ると、桐谷春香は自宅と垣根の狭間の細い隙間に自転車を止めた。

 玄関のドアを一度引くと、扉は開かずにがちゃっと大きな音を鳴らした。恐らく家の中に誰もいないのだろうことを察して、ポケットの中から鍵を取り出すと、玄関の鍵穴へと差し込んでくるっと回した。すぐに金属的な鍵が開く音が響く。ドアを開いて、玄関の中へとはいると、土間から一度後ろへと振り返って、廊下との段差へと腰を掛ける。靴へと手をかけてすっと脱がすと、玄関の土間に並べて、そのまま廊下へと上がった。

「ただいま。」

 家の中に誰もいないと分かっていながらも、そう声をかけて家の中へと入っていく。玄関から直接繋がっているリビングを抜けて、また別の廊下に出ると、右側に曲がって二つ目のドアを開く。そこが自分の部屋だった。扉を閉めて部屋の奥まで足を向ける。壁際に置かれている勉強机へと鞄を置いた。

 椅子を引いて腰を掛けながら、鞄の蓋を止めている金具を回して開いてしまうと、中から一枚のプリントと、幾つかのパンフレットを取り出して、机の上へと置いていく。一応と言うように筆記用具も取り出して、蓋を閉じると机の横に飛び出ているフックへと鞄の持ち手を吊り掛けた。

 机の上に置いたプリントは進路希望調査書で、結局、先生と話をした後も何も書けないまま志望先の欄は空白のままだった。金曜日提出と書かれた文字に何となく気が重くなり、目を反らしてしまうと、その代わりに進路指導室からもらって来た専門学校のパンフレットの一つを手に取ってパラパラとページをめくっていく。パンフレットは全てカラーページで、カラフルに色づけされた時間割とともに、ページの中にはコックの格好をして鍋を振るっている姿の女性や、スポンジケーキにクリームを塗っている男性の写真が載っていて、パンフレットを翻して表紙を見てみると調理専門学校と書かれていた。

「コックとかケーキ屋さんとか……。それも良いかな。」

 吐き出すようにそう言いながら、料理店の厨房を想像していく。調理服を着てキャベツや玉ねぎや肉やの食材をどんどんと刻んでしまうと、大きな炎の立ち上るコンロへとフライパンをかけて一気に炒めてと想像が膨らんでいく。

 綺麗に皿へソースを盛りつける所まで想像して、それをテーブルに座る楓の前へと置く光景が目に浮かんできてしまい、思わず溜息を漏らしてしまう。

「なんでここで出てくるかな。」

 持っていたパンフレットを閉じると、他のパンフレットの重なっていた上へと放り投げた。

 机の横へと吊り掛けた鞄の蓋を開いて、中から文庫本を一冊取り出す。

 今週、学校の図書室に入荷された新しい本で、貸出履歴には自分の名前しかまだ記録されていない。挟まれている栞紐を端から引っ張って、読んでいた途中の本の内容へと視線を向ける。――主人公の女性は新しく引っ越してきた部屋で奇妙な声が聞こえてくることに気が付く、その声に最初は幽霊の存在も疑ったが、声はいつも同じ方向から聞こえ、その声のもとを探すうち部屋の中で虚ろな穴が開いているのを見つけた。その穴へと耳をそばだてると――そこまで読んだあらすじを思い出しながら、つらつらと書き並べられている文字へと視線を滑らせ、内容が頭に入ってこないことを感じて、足を小刻みに揺らしてしまう。

 本当はこんなことをしていないで、さっさとプリントを書いてしまわないとと言う考えが頭の中にちらついてきてしまい、集中できずに結局手に持っていた本を閉じる。筆箱のチャックを開いて、中からシャープペンシルを取り出すと、その頭を数度ノックして芯を出す。

 適当な大学の文学部でも書いておけば、先生も親も一応は納得でもしてくれるだろうか、そう考えながらプリントへと向かってペンを立てるが、書く気になれず、数度ペン先でプリントを叩きながも、紙の上に何個も点をつけただけで手を置いてしまう。

 溜息をついて机へと突っ伏してしまう。机の表面に頬を当てながら、顔を横へと向けると、重ねられたパンフレットが目に入って、その中から一冊へと手を伸ばすとその中のページを開いた。生徒を紹介するいくつもの写真の中に、カメラを構える生徒が載せられているのが目について、不意に楓が道で写真を撮られていたことが脳裏に浮かんでくる。

「やっぱりなあ……。」

 今度は諦めの溜息を漏らして、机に突っ伏したまま目を瞑ってしまう。

 この前に彼女と一緒に美術館へ行ったころから、ふとしたことで彼女の姿を思い浮かばせてしまう。進路先でも楓に何かしてあげる姿を思い浮かべると、楽しくはなってくる。開いていたパンフレットを閉じて頭抱えこんで髪の毛をかき乱す。机の上で顔を右へ左へ転ばせながら足を何度も揺する。

「これは仕事じゃないよね。」

 楓に何かをしてあげたいと言うのは、夢にはなるかもしれないが、それで仕事にはならない気がする。

 そんなことを考えながら、体を起こすと、そのまま椅子の背もたれへと体重を寄りかからせて天井を眺める。少し椅子を傾けながら足を延ばしていると、不意に鞄がぶぶぶっと音を出した。驚いて椅子から滑り落ちそうになってしまい、慌てて肘掛けを握りしめた。ずるずると体を持ち上げながら、椅子に座りなおすと、机の横に掛けていた鞄を取って中を開き、スマートフォンを取り出す。画面を確認してみると、楓からのメッセージが来ていることに気が付いた。

『明日、遊べないかな?』

 アプリに吹き出し風に表示された、そのメッセージを見て、返信を打っていく。

『良いよ。』

 それだけ打ち込んで、返信を送る。すぐにぶぶっとスマートフォンが揺れて、アプリの画面が更新される。ハートをいっぱい浮かべて喜んだ表情を見せる熊だか犬だかわからない不細工なスタンプが帰ってきて、くすりと笑ってしまう。

「なにこの動物。」

 ふっと笑って息を切り、ほうっと溜息をついた。

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