14.マニキュアを巡って

 がやがやと騒がしく人の行きかう教室は、朝の角度の低い日差しを受けて、一瞬、室内全体が目が眩みそうなほどやけ明るく見えた。全てのものが視線の的になってしまうような、そんな感慨を覚えてしまい、教室のドアをくぐる直前に、少しだけ足を止めてしまう。小さく息を吸って、呼吸を整えると、右手を握りしめながら、誰にも見られないようにと何ともないような素振りで教室の中へと入っていく。

 ロッカーの中へと荷物を突っ込んでいるクラスメイト達の間をぬって、誰にも挨拶もせずに、すぐに窓際にある自分の席へと向かう。いつものようにと心がけながら進む足取りは、自分ではどこか妙な歩き方をしてしまっているような気がしながらも、結局誰からも話しかけられることもなく、席へと辿りつくことが出来た。

 ほうっと、小さく吐息を溢れさせてしまいながら、椅子へと座る。

 部活をしていない自分の登校時間は遅めで、登校してきている友達と話をしている人もいれば、既に部活を終えて教室の中で制汗剤を吹きかけている人もいて、今更必死に授業の宿題をやっているような人もいる。登校用の鞄を机の横にかけると、その中から今日使う分の教科書とノートを取り出して引き出しの中へと入れていく。

 最後に、昨日買った本を取り出して、机の上へと置いた。

 朝のホームルームが始まるまで読んでいようかと思いながら、なんとなくその本を見ていると昨日のことを思い出して、握りしめていた右手を宙へと出して大きく広げてみた。その指先の爪は、昨日と全く同じように淡く可愛いピンク色を呈していて、やっぱりパッと見にも目立って感じられてしまう。

「お風呂入っても、意外と取れないものなんだ。」

 指先を揺らしながら、色んな方向から眺めていくと、マニキュアの光沢なのか、窓から入る朝の陽射しを受けて爪の先がキラッと輝いてみる。

 一晩過ごしても、塗ってもらった時と変わらずにきらきらと光るマニキュアの様子に、なんとなく感心していると、ふと傍らに人が寄ってきたのを感じて慌てて顔を上げる。

「桐谷さん。それってマニキュア?」

 声のした方へと視線を向けると、クラスメイトの柚木悠さんが、こちらの右手の爪先へと視線を向けていた。

 なんとなく一番見られたくない相手に見られたような気がしてしまった。別に彼女は性格の悪い子ではないように思っていたけれど、話好きで、どちらかと言えばみんなの注目を集めたがるから、この爪をみられてしまって他の人に伝えられるのが嫌で、開いていた手をそれとなく握りしめて隠してしまう。

「う……うん。」

 曖昧に頷いて、慌てて言い訳をしようと更に口を開く。

「マニキュアだけど、友達に塗られちゃって。」

「そうなんだ、良いな。可愛いね。」

 可愛いと言う彼女の言葉に、思わず眉根を顰めてしまうと、その表情をすぐ柚木さんに見咎められてしまって、逆に彼女は訝し気にこちらの顔をのぞき込んできた。

「なんで、その顔?」

「いや、だって可愛いとか……。」

 自分には似合わない言葉にしか思えなくて、唇を歪めてしまいながら視線を反らしていた。

「えー、可愛いよ。可愛いって褒めでしょ?」

 僅かに声の大きな柚木さんの言葉に、誰かに聞かれやしないかと、周囲へと視線を巡らしながら首を振る。

「そんなことないよ……。」

「そんなことあるよー。」

 改めて呑気な声でそう言ってくる柚木さんに、何とも言いようがなくなって、ぎゅっと右手を握りしめてしまう。こう言うのが嫌だから隠してきたのに、本当に不味い人に見られてしまった。そんなことを考えていると、私と柚木さんの会話に気が付いたのか、目の前の席に座っていた木槿さんが、ふいにこちらへと振り返ってきた。

「どうかしたの?」

 不思議そうな顔をして尋ねてくる木槿さんに、何と答えようかと思っているうち、傍らにいた柚木さんがすぐに口を開く。

「桐谷さんが、マニキュアしてきてて。」

 柚木さんの言葉に、木槿さんはへえっと興味深そうに声を挙げて、こちらの手へと視線を向けてくる。

「桐谷さんってマニキュアするんだ。」

「いや、自分で塗ったわけじゃなくて、友達に塗られただけ。」

 慌ててそう言うと、木槿さんはむしろ興味深そうな表情を浮かべる。

「そうなんだ。私も見せてもらって良い?」

「……良いけど。」

 彼女ならクラスメイトに向かって騒ぎ立てるようなこともないだろうと、そう考えて頷いた。

 指の先を木槿さんの方へと伸ばしてみると、彼女はその爪を見て、再びへえっと声を漏らして、

「凄いね。」

 と、呟いた。

「凄い……かな。」

 やっぱり何か気恥ずかしくて顔を顰めてしまうと、木槿さんは「だって」と言葉を続ける。

「その友達が頑張って、こんな綺麗に塗ってくれたんでしょ。」

「まあ、それは……。」

 言われてマニキュアを塗り終わったときの、ちょっと微笑んでいた楓の表情を思い出して、ふいに頬が緩んだ。

「なんで葵ちゃんに言われると、嬉しそうになるの?」

 少し不満そうな口調でそう言ってくる柚木さんへと、慌てて首を振る。

「いや、別にそう言うわけじゃないよ。友達のこと思い出して。」

「仲良いんだね。その友達と。」

 不満そうな柚木さんとは対照的に、何故だか終始にこやかな笑顔を見せてくる木槿さんの言葉に、ちょっとだけ迷いながら頷き返した。

「中学の頃は、ずっと一緒に居たかな。昨日、久しぶりに会って。」

「別の高校の人なの?」

「うん。多分。そう言えばどこの高校だったっけ……。」

 そこではたと、楓の学校がどこであるかを知らないことに気が付いて、何となく呆然としてしまう。

 傍らで、そんなことを気にもしないように柚木さんは、顎に指を当てて口を開いた。

「マニキュア塗って大丈夫なのは聖林学園とかかな。あそこは、オシャレな子多いよね。」

 思い出す様に呟いた柚木さんの言葉に、木槿さんも頷く。

「確かに、聖林は試合行った時もマニキュアとかメイクとか、綺麗な格好してる子が多かったかなあ。」

「え?葵ちゃん、聖林の中に行って来たの?」

 羨ましそうに尋ねる柚木さんの表情を、木槿さんはちょっと不思議そうな表情で受け止めながらも、小さく頷く。

「一年の時にだけどね。また今度練習試合に行くし。」

「良いなあ。他の学校に行く時だけ部活って羨ましいと思う。」

 柚木さんが呟くと、木槿さんはちょっと興味の湧いた表情を浮かべて彼女の顔を覗き込んだ。

「じゃあ柚木さんも、何かの部活に入ればいいのに。バスケ部もいつもマネージャーとかも募集してるよ。」

「んー、私は先生に指示されてやらされるのって苦手だから……。ほら、桐谷さんだって部活入ってないよね?」

 勧誘を躱すように柚木さんは矛先をこちらへと変えて視線を向けてきた。木槿さんも一緒になって視線を向けてくるのに緊張しながら曖昧に頷く。

「私も部活は苦手かな。それに部活やる時間で本読んでいたいし。」

「えっと文芸部とかは?」

 木槿さんは人差し指をくるくると回しながらどこか言葉を選ぶようにそう言った。

「文芸部はどっちかって言うと書く方だね。」

「そうなの?」

「美術部だって、絵を見に行く部活じゃなくて絵を書く部活でしょ?それと同じじゃない。」

「まあ、そっか。そう言うものなんだ。」

 妙に感心したように木槿さんは頷いている。

「まあ、少なくとも部活行ってたら、さっき言った友達とは会えてなかったかな。」

 言いながら右手へと視線を向けてみる。

 どうにも可愛い爪の色なんて自分には似合わないと思うけれど、ムラもなく丁寧に塗られたピンクの綺麗なマニキュアに、楓が頑張って塗ってくれたのだろうことは理解できて、なんとなく嬉しい気はしてくる。ゆっくりと指を揺らして、ピンク色をした爪を眺めていると、不意に柚木さんが「あ」と小さく声をあげた。

「って、そう言えばさ、うちはマニキュア駄目だけど大丈夫?」

「え?そうなの?」

 初めて聞くことに驚いてしまって柚木さんの方へと顔を向けると、彼女はむしろ意外そうな顔をしてこちらを見つめ返してくる。

「だって、みんなしてないでしょ?気にしないで化粧山盛りの子はたまにいるけどさ。」

 言われてみれば確かにクラスでマニキュアをしている子は見かけたことがなかった。柚木さんの指先を見てみると、丁寧に爪が磨かれているようではあったけれど、色などは全く付けられていないことに気が付く。いつも可愛らしいものを身に着けてる彼女ですらそうなのだから、校則として、なあなあでは許されるようなものでもないのだろうと何となく察せられた。

「そうなんだ、全然気にしてなかった……。」

 全くの本心でつぶやくと、柚木さんはどこか呆れたように私の方へと視線を向けてきた。

「そもそも興味がなかったと……。」

「うん。まあ……それで、どうしようかな。これ。」

 一目見れば傍目にもマニキュアまみれと分かってしまう有様の自分の爪を眺めながら、どうすれば良いものかと思わずため息をついてしまう。

「削る?」

 ぱっと出てきた柚木さんの言葉に、即座に「それは嫌」と首を振る。

「それならさ。」

 木槿さんは、自分の鞄へと手をつっこむと、がさがさと教科書がノートの間を指先で選り分けながら、何かを探し始めた。

「あ、あった……じゃあ、手袋でも嵌めておく?」

 こちらの表情を覗き込んでくるようにして木槿さんは鞄の中から一枚の手袋を取り出して机の上へと置いた。白くて薄手の布手袋で、たまにチョークが苦手な先生が嵌めているようなものだった。

「手袋……なんて良く持ってるね。」

「最近、機械とか触るようになったから、友達がくれたの。」

「これで誤魔化せるかな?」

 机の上に置かれた手袋を手に取ってみると、傍らから柚木さんが顔を覗かせてくる。

「あー、桐谷さんなら、大丈夫じゃない?そう言う人って見えて気にしないかも。」

 悪戯っぽい調子で柚木さんは軽く笑う。

「そう言う人って?」

「俺の右手が疼く……系の人。」

「私って、そんな風に見られてる?」

「冗談だって。」

 軽い口調で言いながら、それでも柚木さんはこらえきれないようにくすっと笑う。思わずため息をついてしまうと、目の前で木槿さんはどちらかと言えば、少しだけ困ったように、はにかんでいた。

「木槿さんはどう思う?」

「え?あ……まあ、大丈夫だと思うよ。桐谷さん真面目だから。先生も信頼してると思うし。変なこと隠してるとか詮索しないんじゃないかな。」

「そうかな……。じゃあ。まあ、ちょっと借りてみる。」

「ん。」

 木槿さんは小さく頷いた。

「あ、もう先生来たよ。」

 ふいに柚木さんがそう言ったのにつられて、教室の入口へと顔を向けると、丁度担任の露口先生が入ってこようとしているのが見えた。

「あ、木槿さん、手袋ありがとう。」

 慌てて木槿さんに礼を言うと、彼女は首を振りながら、「気にしないで。」と、黒板の方へと顔を向けた。

 先生が教壇に立つ前に借りた手袋へと手を突っ込む。

 少しだけ大きくて、ちょっとぶかぶかしている感じだったけれど、一度二度手を握ってみると、上手く手に馴染むような気がしてきた。布ごしに見えなくなったマニキュアを見つめるつもりで指先を眺めると、何となく楓ことを思い出す。ただちょっと、その記憶の記憶の中に出てくる楓の顔が朧なことに気が付いて、次に会った時に、ちゃんと彼女だと分かるだろうかと、少し不安になりながら、起立の号令に合わせて席を立った。

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