13.カフェで手を取って

 まだまだ日が高い時間。量販店の立ち並ぶショップ街の、人の疎らに行き交う通りに面した有名なコーヒーチェーン店の、そのテラス席の一角。直射日光の当たらない日陰の席へと、楓は店内で買って来た珈琲の紙タンブラーを置いた。店の屋内は満員と言った盛況だったけれど、夏の暑い時間なこともあってテラス席はそれなりに空いているようだった。

 学校の終わった後の時間なせいなのか、屋内の方には自分たち以外にも高校生がそれなりに見かけることが出来た。逆に制服姿の人が多い分だけ、隣にいた楓は私服姿が目立つこととその容姿が相まって、時折女子高生たちがこちらへと視線を向けてくるのが分かる。

「この席で良い?」

 尋ねてくる楓に、頷いてみせながら同じ席の向かいの椅子を引いてそのまま座席へと腰を下ろし、持っていた鞄を床へと置いた。向かいでは楓が羽織っていた上着を脱いで、彼女の持っていたバッグと一緒に空いている席の背もたれへとかけていた。

「ごめんね、遥香ちゃん急に声かけて。用事とかなかった?」

 向かいの席へと座りながら、どこか申し訳なさそうに訪ねてくる楓に、首を振って答える。

「ううん。丁度終わったところ。」

「そっか。」

 どこかホッとしたように表情を緩ませて楓は、手に持っていたカップへと口をつける。合わせるように自分も珈琲のカップへと口をつける。一口飲み込んでみると、途端に、口の中に渋さと苦みが広がってきて思わず顔を顰めそうになってしまう。それを誤魔化す様にして小さく息を漏らしてしまうと、それに気が付いたのか楓は、ちょっとだけ意外そうに眼を丸くして、こちらを見てきた。

「遥香ちゃん、こういうの苦手だった?」

 彼女の言葉に一つ頷いて、珈琲のタンブラーを机の上へと置いてしまう。

「こう言うの買ったの初めてだったから。ちょっと。苦いかな。」

「遥香ちゃんなら普段から、珈琲とか飲んでるかと思ってた。」

「そんなことないって。」

 肩を竦めて首を振った。

 本当に他愛のない会話だけれど、それだけで、なんとなく昔と同じような雰囲気になれた気がして嬉しくなる。何しろ、彼女は見た目が中学校の頃とは全然違っていて、写真で見るような華やかな姿をしていたから、こうして会話をしてみるまで、本当に同級生の紅葉谷楓なのか、どこか信じられない気持ちと、そして少しの緊張があった。

「それにしても声かけられたときは、全然楓って分からなかったよ……。本当に何か変わったね。」

「中学校の頃は、私、地味だったからね。」

 恥ずかしそうに楓は自分の髪を撫でる。

「地味って言うか、普通だったかな。周りと同じって意味でね。その髪だって、ほら黒かったし一本髪で。」

 言いながら髪へと視線を向けると、楓はくすぐったそうに笑って自らのボブカットの茶色いショートヘアを撫でた。緩い髪がふわりと揺れて、今にも良い匂いが漂ってきそうな雰囲気すら感じられる。

「今は、変かな?」

「変じゃないよ。良いと思う。」

 もう一口だけカップを口元へと運びながら、さっぱりと言ってしまうと、楓はどちらかと言えばむしろ恥ずかしそうな、はにかんだような不思議な表情をみせてくる。

「遥香ちゃんは。そう言う所も昔と変わらないよね。」

 今度は自分の方が、くねくねの髪を掻いて尋ね返す。

「変わってない……かな?」

「うん。外見も中学の頃と同じように見えて。だからさっきも目の前通ったときに一目で分かったし。」

「なんか中学から成長してないって言われてるみたい。」

 言いながら自分の体を見直してみる。身長は少し伸びたし、胸も少しぐらいは大きくなっているはずだった。

「良い所がずっと残ってるってことだよ。遥香ちゃんは、ずっと個性的だったし。私なんかと違って。」

「そうだった?」

 個性的などと言われるのが多少心外な気持ちで尋ね返してみると、楓は珈琲カップを口につけながらこくこくと可愛らしく頷く。

「そうかな……まあ私はともかく、楓は今は凄い個性的でしょ。こんな……。」

 改めて楓の格好を上から下へと視線を向けた。柔らかい雰囲気で揃えられていた彼女の服装は、綺麗に整った彼女の優しい顔と良く似合っていて、チェーン店のカフェの席に座っていてすらも、雑誌に載っている写真の一枚の様にサマになって見える。

「うん……。自分を変えたくて。今はこんな感じ。」

 どちらかと言えば気後れしているかのように、こちらから目を逸らして、手に持っていたカフェのカップを手の中で何度も弄りながら楓は言った。

「何かあったの?」

「何かって程じゃないけど……きっかけはあったかな。」

 僅かに言い淀んで、楓は一瞬だけこちらへと視線を向けてくる。僅かばかり視線が重なったかと思うと、彼女は慌てて視線を外しながら口を開いた。

「でも……中学の時もずっと自分を変えたいって思ってたよ。」

 楓の横顔は、どこか切なそうに目を細ませていく。

「そうなんだ、結構一緒にいたのに、そんなこと全然知らなかった。」

 そう言ってみると、楓は首を振る。

「私も言ってなかったしね……。まあ、それでなんだけど。今は読者モデルみたいなことやってるの。さっきまで撮影してたんだけどね。」

「うん。道でちょっと見かけたかな。」

「遥香ちゃん、転びそうになってたよね。」

 髪をかき上げながらくすりと笑う楓の表情に、転びそうになた時に変な声を挙げたのを思い出して恥ずかしくて、ちょっと顔が熱くなってきてしまう。

「やっぱり見られてたんだ。目が合ったし。」

「でも、そのお陰で、また会えたし。良かった。」

 ふわりと緩く笑って楓は目を細める。

「ん……。」

 小さく頷いて、恥ずかしさを誤魔化すつもりでカップへと口をつける。やっぱり口内に広がってくる苦さに眉根を顰めてしまいながらも、なんとなくふわふわと落ち着かなくなっていた気持ちが収まっていくような気がして、ゆっくりと口を開く。

「それにしてもさ。私、モデルの撮影って初めて見たけど、あんな感じでやってるんだ。」

 ああっと楓は頷く。

「たまにね。あそこらへんであんな感じで写真撮ったりするよ。あの時に一緒にいた男の人がカメラマンさんで、女性の人がディレクターみたいな感じ。」

 言われて楓の他にいた二人の顔をぼんやりと思い出す。

「ディレクターって……テレビとかで聞いたことあるけど、実際何する人?」

「えっと、指示出したりする人?」

 ちょっと首を傾げて斜め上へと視線を向けながら楓はそう言う。

「人?って私に聞かれても。」

「そうだよね。えっと、何だろう、ポーズとか構図とか、どの写真使うかとか、何か色々決めてるよ。」

 そう言うものなんだと、ふうんと小さく呟く。

 楓は、それよりも、と言うように、テーブルへと手をついてこちらへと少しだけ体を乗り出してきた。

「遥香ちゃんは、こっちに何しに来たの?」

「私……?私は本を買いに来たんだけど……。」

 綺麗な楓の顔が寄ってくるのを、僅かに緊張してしまってむしろ体を引いてしまいながら彼女の質問に答える。ふわりと鼻先に甘ったるい香りがしてくる気がして、僅かにどぎまぎとしてしまう。

「というか、私、本屋から出てきたでしょ?」

「あれ?あそこ本屋だったっけ?」

「本屋だよ。それでこれを買ってきた。」

 ポケットに手を突っ込んで、その中に入っていた文庫本を出すと、そのままテーブルへと置く。紙のブックカバーがついているのを、外して見せると、興味深そうに楓はその表紙を覗き込んできた。

「これって小説なの?」

「うん。丁度、好きな作家の新刊で出てたから買ってみた。」

 ふうんと楓は感心したように声を漏らすと、本を眺めながら目を細める。

「遥香ちゃんって、本当に本が好きだよね。」

「まあ、好き……かな。」

「大好きでしょ?今もその本を触りながら、なんだかそわそわしてるし、本当は今すぐでも読みたいんじゃない?」

 楓にそう言われて、自分が、テーブルに置いていた文庫本を何度も指で弄っていることに気が付いた。慌てて手を離すと、楓はくすりと笑った。

「読んだら良いんじゃない?」

「いや、流石に楓と話してるし。」

 そう答えると、楓はえっ?と何か私が変なことを言ったかのように不思議そうな表情を見せる。

「中学の頃、私と話してる時も、ずっと本読んでたでしょ?」

 言われて、思わず「え?」と素っ頓狂な声を漏らしていた。

「えっと、そうだった?」

 あまり自覚がなくて思わず問い返すと、楓は軽い調子で頷いた。

「うん、いつも本読んでたよ。」

「それは。なんていうか、ごめんね。」

 思わず謝ると、楓はむしろ楽しそうなことを思い出すように口元を緩めて首を振った。

「良いの、私は別にそれで楽しかったし。だから遥香ちゃんが今本を読みたいなら読んでよ。」

「でも、本を読んでる間、楓はどうするの?もう帰っちゃったりする?」

 尋ねてみると楓は首を振って、こちらの顔をじっと見てくる。

「ううん。私は遥香ちゃん見てる。」

「え。変なこと言うね。」

 思わずそう言ってしまうと、楓は困ったような表情を浮かべるから、すぐにそれが冗談だと気が付いた。

「まあ、私は珈琲飲んでるから。遥香ちゃんは本読んでよ。」

「本当に良いの?」

「うん、飲み終わったら教えるから。」

「ん、じゃあそれまで読んでる。」

 少しだけ気後れしながらも、本を手に取ると、表紙を開いて左手だけで本をもつ。

 掌で本を支えながら、親指で左側のページを支えて、小指を動かしてページを動かしていく。こうすると片手だけで本が読めるから、慣れてしまっていつでもこんな風に読むようになってしまった。

「昔も思ってたけど、その読み方器用だよね。」

 楓の言葉に反応して、ちょっと本から視線を上げる。楓の目は私の左手の方へと向けられていた。

「そうかな。こうしてると、本読みながらテレビ変えたりとかできるし、電車とかで立ちながらでも読めるし、楽だよ。」

「本読むのが何よりも優先ってのが凄いよね。あ、ごめん。本読んでて。」

「話がしたいなら良いよ?」

「ううん。あ、でも、そう言えば右手って空いてるの?」

 そう言って、楓はこちらの右手へと視線を向けてくる。

 確かに本を読んでいる間は右手を使うことは殆どなくって、空いているといえば空いていたけれど、ただ、どうしてそんなことを訪ねてくるのかが良く分からなかった。

「うん、まあ、本読むときは空いてるかな。」

「じゃあ、本を読んでる間、触ってても良い?」

 えっ、と思わず声を挙げて、本へと戻し始めていた視線を彼女の顔へと向け直していた。その表情は、冗談めかしたような雰囲気ではなくって、全く普通のことを言っているような顔をしていた。

「良いけど……。」

「やった。」

 頷いてみると、嬉しそうに楓はこちらの手へと腕を伸ばしてきて、そっと包むようにして掌を握ってきた。

 温かくて、酷く柔らかくて、滑らかな心地よい感触が掌に伝わってくる。その感触が懐かしい感じがして、ふと、朧げながらに中学校の頃を思い出していた。

 楓に言われた通り、確かに彼女の前でもずっと本を読んでばっかりだったけれど、そんな時には、こんなふうに指を弄られていたような憶えがあった。すっと掌をの指先でなぞられる感触に、ちょっとだけこそばゆく感じながらも、本へと視線を落としていき、書かれている文へと意識を向けた。


 ふと、仄かに肌寒く感じて顔を上げる。気が付くと日陰にあったはずの席にはライトが向けられていて、僅かに明るくなっていた。空を見上げればゆったりと流れていく雲は鮮明な紅色に染まり切っていた。随分と時間が立ってしまったと思いながら、楓はどうしたのかと視線を巡らせると、彼女は私が本を読み始める前と同じ席に座ったままで、今もまだずっと私の右手へと触れていた。

 ただ、彼女が、伸ばしたこちらの指先に何やら小さな筆で塗っているのに気が付いた。

「楓。なにやってるの?」

 尋ねると、はっと気が付いたように楓は顔を上げた。こちらが見ているのに気が付いて、目が合うと、ふわっと楓は笑顔を見せる。そう言えば、中学の時にもこんな風に笑っていたと、そんなことを思い出してしまいながらも、今は見た目が全然違うせいなのか、どうにも彼女の笑顔が妙にこそばゆく感じてしまう。

「本、読み終わった?」

 何か指先へと動かしていた筆を止めて楓が尋ねてくるのに対して首を振る。

「ううん。まだ、全然だけど、それ何してるの?」

 握られている指を、ちょっと動かしてアピールしてみると、彼女は僅かに舌を出して悪戯っぽく目を細める。

「実はマニキュア塗ってたの。」

「マニキュア?」

「うん、見てみて。」

 ぱっと楓が手を離したので、握られていた右手を目の前に持ってきてみると、野暮ったいはずの自分の爪が薄くピンク色に変わっているの気が付いた。形は元々整えていないから、よくよく見れば綺麗なものではないけれど、パッと見には自分がおしゃれしているように見えて、何故だか気恥ずかしくなってきてしまう。

「なにこれ。」

 思わず眉根を顰めて楓へと視線をむけてみると、彼女はこちらの不満など気にもしないように、すました表情で楽しそうにこちらのリアクションを見つめてきていた。

「モデルの時のメイク道具もってきててね。遥香ちゃんの指見てたら、なんかやりたくなっちゃって。」

「やりたくなっちゃってって……。」

 桜色になってしまった爪を見つめながら、思わずため息をついてしまうと、楓は両手を合わせてこちらへ申し訳なさそうに首を小さく傾けた。

「ごめんね。嫌だった?」

「嫌っていうか、私には似合わないから。」

 言い捨てるように言うと、途端に楓は強く首を振ってきた。

「似合わないことないよ。遥香ちゃんの指、細くて綺麗だし。爪の形は整えられなかったから、私のマニキュアだと変に見えるかもしれないけど……。」

「あ……楓が下手ってことじゃないよ?綺麗な色だと思うし。でも、なんかマニキュアしてるって見られるの恥ずかしいかな。」

「そう?」

「そう。」

「そっか……。」

 寂しそうに楓が呟くのでちょっと申し訳なく思いながらも、言葉を続けた。

「だから、折角塗ってもらって悪いんだけど。取ってもらっても良いかな。」

「ん、うん。ちょっと待ってて。」

 言いながら楓は机の上に置いていたポーチの中へと手を突っ込むと、かちゃかちゃと化粧品がぶつかる音をさせながら顔を覗き込ませる。しばらくそうしていて、中々見つからないのかと思っていると、楓は、ふいに「あっ」と声を漏らした。

「楓、どうかした?」

 尋ねると楓は申し訳なさそうに俯きがちな顔でこちらを見上げてきた。

「ごめん、除光液持ってきてなかったかも……。」

「除光液って、もしかしてマニキュア落とすやつ?」

「うん。いつも家で落とすから……。」

「えっ……。」

「ごめん、本当にごめん……。」

「私、除光液とかそんなの、家にもないよ。」

「えっと、お母さんのとかは?」

「勝手に化粧品使うの怒られそうだし、なにより、どう使えばいいのか分からないし……。」

「そっか……あ、じゃあ。」

 何かを良いことを思いついたのか、ぱちんっと音をさせて両手を合わせた楓は、何故か嬉しそうな表情を浮かべた。

「遥香ちゃん、明日もここに来れる?」

「まあ、来れるけど……。」

「じゃあ、明日も会おう?明日はちゃんと除光液持ってくるからっ。」

 せがむ様に楓はこちらを見つめてくる。突然言われて、少し困惑しながらも、右手のマニキュアを見て仕方ないかなと頷いた。

「うん。分かった……じゃあ。明日会おうっか。」

「ホント?やった。」

 そう言った楓は、顔を染めて今日一番の笑顔をみせていた。

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