遥香と楓の場合

12.久しぶりの再会

 整然と机の並べられた教室の中で生徒たちは自分の席へと座り、総じて教壇に立つ担任教師が話す声に静かに耳を傾けていたが、先生が明日の授業日程の変更を喋っていく中、桐谷遥香きりたにはるかは窓辺の席で本へと視線を向けていた。

 既に帰りのHRを終えたクラスがあるのか、廊下には幾人かの生徒が往来をして、それががやがやと雑談しながら歩いているものだから、その五月蠅さに負けないようにと教壇に立つ担任の露口つゆくち先生の声は次第と大きくなっていった。煩わしいと思いながら本に書かれた文字を眺めていると、ふいに目の前に数枚の束になった紙が現れる。顔を上げてみると、前の席の木槿さんが紙をひらひらと揺らしてこちらの顔を覗き込んきていた。どうやら先生が配ったプリントが前から回ってきていたようだった。

「ん。」

 木槿さんが、小さく短い声で促してくるのに頷いて、ひらひらと揺れる紙を受け取った。

「ごめん。」

 束の内の一枚を抜き取ると、そのまま残りの紙を後ろの席へと回す。内容に興味もなかったけれど、一応と言うつもりで紙に書かれている文字へと目を向けてみると、一番上には進路希望調査票とゴシック体の太文字で大きく記されていた。そうして末尾には米印で再来週の金曜日の日時が提出日として記されているのを確認し、その二つだけを見てプリントを折りたたむ。

「期末テストの後には三者面談をするから、提出日に遅れても期末テスト前までには出すようにね。」

 露口先生がそんなことを言っているのを、意識半分で聞き取りながら再び本へと視線を向けると、すぐに学級委員長から「起立」の号令がかけられてしまい、溜息をつきながら本を閉じて立ち上がる。

 続いて、

「ありがとうございました。」

 と、クラスメイト達の声が響く中、頭だけ下げてそのまま椅子へと座りなおすと、読みかけだった本を開いて再びその内容へと目を向けていく。周囲のクラスメイト達は、すぐに鞄を取って教室から出ていくのを感じる。廊下を歩く他のクラスの生徒達の声だけで五月蠅かったけれど、クラスの中まで騒がしくなってきて、本を読んでいるこちらの耳に煩わしい程に響いて来た。

 読んでいる本の内容で言えば、章の区切りにも達していない途中だったけれど、五月蠅さに辟易してしまい、休憩のつもりで顔を上げてみると、ふと、前の席の木槿さんが、スマートフォンを取り出して、なにやらメッセージを打っているのに気が付いた。

 少し前の頃なら、彼女はすぐに教室を出て部活に向かっていたけれどと違和感を覚えながら、最近はそう言えば、こうやって暫くスマートフォンを打っている姿も見ないではなかったと思い直す。

「木槿さん。部活、行かないの?」

 どこか気になって、声をかけてみると、スマートフォンの画面へと指を伸ばしていた木槿さんは動きを止めて、こちらへと顔向けて来た。

「部活にはこれから行くよ。ただちょっと、先に友達と連絡しようと思って。」

「友達?別のクラス?」

「うん、最近仲良くなって、それで、今日一緒に帰ろうって。」

「そうなんだ。」

「うん。」

 頷いた木槿さんは屈託もなく嬉しそうな表情を浮かべた。

 そのままスマートフォンの画面へと視線を向けなおして、メッセージを打っている間も、どこか楽しそうに笑顔を浮かべている。

 どうしてもその笑顔が不思議に感じられてしまう。それは彼女はいつも昼休みにみんなでお弁当を食べている時や、休み時間に他の子達と話をしている時も、どこか曖昧な笑顔を見せながら、妙に冷めた雰囲気でクラスメイト達と接していて、クラスの中でも微妙に浮いている感じがしていたからだった。

 それが今は普通に何の気兼ねもないような笑顔を浮かべているものだから、どこか雰囲気が変わったように思えてしまい。スマートフォンを見詰める彼女の横顔を眺めながら、なんとなく寂しいと言う言葉が胸中に浮いてきた。

 その感覚に気が付いた時、はっとして咄嗟に首を振る。

 ちょっと突発的に変な行動をとってしまい、恥ずかしくなりながら木槿さんへと視線を向けると、彼女はもうメッセージを送信し終えたのか、指を画面の手前で止めたまま、じっと画面を見つめつづけている。こちらが何をしたのかとか、全く気が付いていない様子だった。

 良かったという気持ち半分で溜息をついて、読みかけだった本を閉じてしまうと、机の横へと吊るしていた鞄の中へと仕舞い込んで、そのまま鞄を持ち上げた。

「じゃあ、私は帰るから。お先に。」

「うん、さよなら。」

 木槿さんがちょっと顔を上げて、微かな笑顔を浮かべたかと思うと、ふいに彼女の握っていたスマートフォンが軽く揺れて音が鳴った。メッセージが返ってきたのだと察して、彼女がほうっと安堵の吐息を漏らしたのが分かる。その友達とか言う人と、酷く仲の良いのだろうと言うことを感じながら、手に持っていた鞄を担いで、教室の入り口へと向かう。

 廊下へと出てみると、丁度、人波が途切れたのか、さっきまでざわついていたのが少し静かになっていた。遠く階段の方からはしゃぐ声が聞こえながらも、廊下には私と同じように人混みが嫌いな生徒達がまばらに帰っていくのだけが見える。

 教室近くの階段を下りて、一階にたどり着くへと、降りた目の前に玄関が見える。所々に錆びた鉄製の下駄箱へと近づくと、その中の自分の名前が書かれた扉を開き靴を取り出した。入れ替わりに上履きを仕舞いながら、学校指定のローファーをコンクリート地面へと放り投げると、ちょっと踵を踏みつぶし気味に足を入れていく。これをすると母親に怒られるけれど、ちゃんと履くのも面倒でもう片方の靴にも適当に足を突っ込む。

 つま先を地面へと、とんとんと叩きつけて靴の履き心地を直しながら、外を眺めてみると、もうすっかり夏になって日が高くなってきたせいなのか、下校の時間になっても、まだまだ嫌になる程に外の景色は明るくて、なんなら玄関の中にいる今ですらも照り返しの日差しで、肌から汗が出て来そうな雰囲気すらあるぐらいだった。

 玄関を出ると降り注いでくる直射日光を避けて、すぐに校舎の裏手へと回ると、そのまま駐輪場のある方へと向かう。

 建物の作る日陰のかかった校舎脇の道を歩いていると、ふと後ろから大きな声が近づいてくるのに気が付いて、足を止めながら顔を振り返らせる。歩いていた道の後方から、ランニングをしているらしきソフト部の生徒達が集団で走ってきている姿が見えた。

 僅かに校舎側へと身を寄せて道を開けると、その空いたスペースをソフト部の女子達は、誰も彼もが皆、額に汗を浮かべ「いち、に」と揃った掛け声を上げながら走り抜けていく。全員が一様に汗をかいて通り抜けていく彼女達に、暑苦しさを感じながらも、眺めているとどこか羨ましさのようなものが湧かないでもなかった。

 校舎脇を通り抜けて、駐輪場へとたどり着く。

 自分の自転車を見つけて、一応前と後ろのタイヤを指で押して空気が抜けていないかを確認した。学校に自転車なんかで通っていると、いたずらでタイヤのパンクさせていくような生徒が、たまにいたりして、その被害を受けている子は良く見かけた。そして、パンクしているまま気づかずに走り出したりすれば、中のチューブがずたずたになって余計なお金がかかってしまう。

 何度かタイヤを指で押して、穴の空いていないことを確認すると、自転車へ乗り込む。周りに誰もいないことをいいことに、ペダルを思い切りに踏みこんで一気に走り出した。

 更にペダルをこいで加速しながら駐輪場から一番近い裏手の校門をくぐると、すぐにその先は坂になっていて、自転車は学校裏手の道を下り始めていく。校舎の建てられた丘が日陰を作ってくれるお蔭で、涼しい風の吹く坂道を勢いよく下りながら、横目に見える斜面の下の住宅街を眺めていく。少し顔を上げると、住宅街が切れて寂れた商店街が見えてくるのに、どことなく寂寥としたものを感じて、ふと教室で感じた寂しさのことが脳裏に浮かんで胸の中で気持ちが重なっていく。

「シンパシーでも感じてたのかな。」

 一つ吐息を漏らしながら呟いていた。

 いつもどこか冷めているように見えた木槿さんに対して、私は勝手に共感のようなものを感じていたのかもしれない。

 だから、学校で楽しそうにしている木槿さんを眺めながら、何となくクラスの中で自分一人だけが寂しい人間のような気がしてきたのだろうかと思えた。

 そうまで考えてしまうと、それが何か嫌な気分になってきて、坂を下る勢いで勝手に回っていたペダルへと足を踏み込み、無理やりに漕ぎだして更に加速させる。勢いよく近づいてくる坂の分かれ道で、考えるよりも先に家へ向かうのとは別の方向へとハンドルを切っていた。

 黒だの灰色だの色取り取りに屋根をした並びに協調性のない住宅街を走り抜けると、そのまま量販店の多く並ぶ市街地へと入っていく。近くにある駅の駐輪場へと自転車を止めてしまい、人混みを避けながら駅の構内をショップの少ない北出口へと抜けていく。栄えていて大型のチェーン店があって歩く人も多い南口とは違い、すぐ様に人通りの少なくなっていく北口の町並みを歩きながら、大きな通りのカツ丼屋のあった角を一本細い道へと曲がる。すると、小奇麗で落ち着いた店の立ち並ぶ一角に出た。

 この通りにある本屋は品揃えが極端に文芸書に偏っているけれど、その分だけ自分の気に入るような本が見つけられる可能性が高くって、何か適当に本が買いたいという時に重宝していた。

 小奇麗な店と店とに挟まれた通りを歩いていると、ふと本屋の手前、白いビルの壁際で妙なポーズをとっている一人の少女が居るのが目についた。

 首を僅かに傾げながら笑顔を浮かべ、白く丸い帽子を被った茶髪の少女の服装は、まるでデパートで展示された服のように「綺麗にコーディネイトされて」いて、上下から靴から髪型まである種の美意識でもって揃えられているように感じられた。その格好は何となく眺めていても「完璧」と言うべきか、全て衣服や装飾が過不足なく整えられているかのように見えた。

「あんな人いるものなんだ……。」

 妙に目に付いてしまい、歩きながらも、その姿をよくよく眺めていると、彼女の周囲にカメラを構えた男性が居て、その隣で目端の切れ上がったこれまた別の意味で美人の女性が居て、その女性がポーズをとっている少女へと「靴を持ってみよっか」とか「バッグを手前に持ってきて」等と指示しているのに気が付いた。

 そこでようやく、彼女達が雑誌か何かのモデルとして写真を取っているのだろう事を理解した。

 ファッションモデルならば、あれだけ綺麗でもあり得るのかもしれないとも思いながら、それでも何となく視線を外せず少女を眺めながらに歩いていると、ふいに足元が突っかかる感じがした。

 そう思った次の瞬間には、歩道の段差につま先を突っかけていて、思い切りに体のバランスを前方へと崩していた。

「わわっ。」

 咄嗟に躓いた足を近くの地面へと踏み直し、大仰に手をわたわたと振り乱しながら崩れたバランスを取りなおすと、なんとかかんとか体勢を取り戻すとたたらを踏む様にして、その場でたたたっと二三度足を踏みなおしていた。

 ほうっと安堵の溜息を洩らしながら、ちょっと恥ずかしくて周囲を見回す。殆どの人は気にしていないようで、自分の方へと顔を向けてすらいなかったけれど、ただ一人だけ、壁の前でポーズをとっていたモデルらしき少女だけは、こちらへと視線を向けてきていて、目を丸くして大層に驚いた表情を見せてきていた。

 ずっと眺めていた彼女に気付かれてしまったことが何故だか妙に恥ずかしくて、思わず顔を背けると本屋へと向かう足を速めていく。

 ほんの一軒分離れた所にある本屋の入口へと駆けこむと、恐らくはあの少女から見えなくなっただろうと感じて、ふうっと吐息を漏らしながら肩の力を抜いた。店内にはまばらに人の居るぐらいで、それも各々に棚へと並べられている本を眺めているだけだった。至って静かでいつも通りの店の雰囲気に、心持ち平常心を取り戻すと、ブラウスの胸の布を僅かに握りながら、気持ちを落ち着けて店の奥へと進んでいく。

 適当に棚の間を歩いていき、平台に置かれている本の表紙を見て回り、特に気になるものはないかなと感じながら店を一周してしまったところで、ふと文庫の新刊が置かれているコーナーに、気になる名前を見つけて足を止めた。

「紀本先生の新刊出てたんだ。」

 新刊として目立つように台の立てかけられていた本を一つを手に取ると、ひっくり返して裏表紙に書かれているあらすじへと目を向ける。そこに書かれていたのは――遊牧民として生まれ、奴隷の剣闘士として活躍し果ては奴隷戦争を引き起こしたローマの剣闘士スパルタクスの波乱万丈な一生を描いた――と言うような内容だった。

「前に読んだ紀本先生の本は面白かったし。」

 何となく興味も沸いて、これを買ってしまうことにした。

 本を持ってレジへと向かうと、カウンターには緩い雰囲気の女性が佇んでいた。髪が長く、ゆったりとした服を着て俯き加減のその女性は、暗い雰囲気ながら整った顔立ちをしていて、ぱっと見にアフガンハウンドのような印象があった。一目に美人ではあったけれど、さっき見かけたモデルの少女ほどではないかなと考えた所で、どっちが美人だとしても自分には関係ないだろうけれどと苦笑いしながら持っていた本を差し出した。

 会計を済ませて、紙のブックカバーをかけてもらった文庫本をポケットの中にそのまましまい込むと、店の外に出る。自分達の高校の、制服の大きめのポケットは見た目に少しダサかったけれど、文庫本がきっちり入るのは便利だと思ってしまう。

 店から一歩外に出ると、目の前を物凄い勢いで自転車が駆け抜けていった。

 思わず足を止めてと、

「遥香ちゃん?」

 と、ふいに自分の名前が呼ばれた。

 声のした方へと振り返ってみると、さっき白いビルの前で写真を撮られていたモデルの少女がそこには立っていて、なぜか酷く嬉しそうな笑顔で、こちらへと手を振っていた。

「え?」

 もしかして自分の後ろに誰かいるのかと振り返るが、当然そこには誰も居なかった。何より自分の名前を読んでいたのだし、自分のことを呼んでいるのかと、恐る恐る少女の顔を見ると、彼女は真っすぐにこちらを見詰めてきていることに気が付く。

「遥香ちゃん……だよね?」

 こちらが余りにも反応できずに呆然としているせいか、さっきまで笑顔を見せていた彼女は急に不安そうな顔になって、躊躇いがちに尋ねてきた。

「確かに遥香ですけど、えっと……貴女は?」

 そう尋ねると、モデルの少女ははっとした表情を見せる。

「あ、ごめんね。分からないかな。私、楓だよ。中学の時に一緒だった紅葉谷楓もみじだにかえで。」

 その名前には聞き覚えがあった。同じ中学校で三年間同じクラス、しかも良く一緒に話をしていた同級生だった。ただ、その少女は目の前に居るような華やかな格好をした子ではなく、おさげの似合う地味な少女のはずだった。

「え?楓?」

 余りにも印象が違いすぎて、戸惑いながら指をさすと、少女は嬉しそうにコクコクと頷いた。

「うん。楓、楓だよ。」

 彼女は綺麗な顔を満開の花のように綻ばせていた。

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