9.帰り道に咲く花の名

 日の暮れ始めた校庭に周囲に植えられた樹が長い影を作る頃、学校の校門で一人空を眺めていた。細かな雲が幾つも流れていき、その二つ三つが分かれて、さらに小さな塊が生まれかと思うと、すぐにくっついて、また塊を大きさを取り戻していく。夕に焼けた日差しを受けて紅色に染まった校舎の方からはブラスバンドの演奏が流れて来て、ざわざわと風に揺れる近木の羽音と妙な調音を響かせていく。トランペットは音調の外した下手な音を鳴らして、オーボエが掠れ掠れの音を響かせて、暇に飽いて小耳を傾けていても、すぐに飽きてしまうくらいの短いメロディフレーズの反復が続く。

 手持ち沙汰になってスマートフォンをポケットの中から取り出すと、スリープ状態を解除して明るくなる画面へと視線を落とした。起動させていたメッセージアプリには待ち合わせの時間を話し合った会話が最後のまま、何も新しいメッセージが来ていないことだけを確認して、溜息交じりに再びポケットの中へとスマートフォンをしまい込む。

 顔を上げて、僅かばかり空を流れる雲を眺めた後、またすぐにメッセージを確認したくなって、ポケットの中のスマートフォンに手を伸ばしてしまう。そうして、見ても仕方ないと思いなおし、ふうっと大きく息を吐いて首を振るいながら手を離す。

「待ち合わせの時間、もうちょっと早くても良いかな……。」

 門柱を眺めながら呟いていると、人の居なかった校庭に足音が響いてくるのが聞こえてきて、すぐに視線を校舎へと向けた。

 そこには、大きなリュックサックを背負って、昨日と同じように上下に大きく揺れながらわたわたと走る柊さんがこちらへと向かってくるのが見えて、思わず表情を緩めて、ふわりと綻ばせてしまう。僅かばかりして、柊さんも、こちらに気が付いたのか、走りながら大きく手を振ってくるのが見えた。

 軽い足音を鳴らして校門までやってくると、少しだけ息を切らしながら彼女は目の前で足を止めた。こちらの顔を確認して、そこで漸く私だと確信したのか、ふわっと柔らかい笑顔を浮かべた。

「柊さん。おつかれさま。わざわざ走ってきたの?」

「少し帰りの支度に時間がかかってしまって、遅れそうだったので。」

「ちょっとぐらい遅れても、私は別に気にしないよ。」

「いえっ、そんなわけには……あ、今日もよろしくお願いします。」

 どこか鯱張った様子で、ぺこりと頭を下げた。その途端に、リュックサックががちゃりと音を立てたかと思うと、柊さんはぐらりと姿勢を崩しそうになって、慌てて顔を上げた。

「ふふ、こちらこそよろしくお願いします。」

 こちらからも、頭を下げて見せると、柊さんは余計に恐縮したように、また頭を下げてきた。

「それじゃあ、帰ろっか。」

 軽く笑いながら、地面に置いていたスポーツバッグを持ち上げて歩き出す。頷いて一緒に歩き出した柊さんは、ふと、学校から響いてきたブラスバンドの音に校舎の方へと顔を向けた。

「まだ、練習してるんですね。」

「大会が近いらしいよ。」

「でも、もうすぐ最終下校時間ですよね?」

「なんか、部活とかで先生に許可貰ったら残っても良いとかは聞いたことあるかな。」

「そんなことできるんですか。」

「バスケ部はやったことないけどね。まあ、だからあんまり勝てないかもしれないんだけどさ。」

「情技部は勝負とかないので、一度も勝ったことないですよ。」

「そりゃそうだろうねー。」

 冗談めかして言う柊さんの言葉に、くすりと笑ってしまう。

「私はエンジョイ勢だから良いんだけどさ。3年生の先輩は張り切ってて、怖かったりするなぁ。」

「えっと、エンジョイ勢ってなんですか?」

「知らない?なんていうのかな。勝たなくても、プレイできれば良いって感じ。」

 へえっと声を挙げて柊さんは感心してるようだった。

「じゃあ、私もエンジョイ勢です。」

「そうだね。」

 二人してくすくすと笑ってしまっていた。

「だから、ブラスバンド部みたいに夜まで残るとかしたくないかな……。あ、そう言えば、柊さんは音楽室の噂とか聞いたことある?」

「噂ですか?なんでしょうか?」

「なんかね、誰も居ないのに音楽室から喋り声とか曲が聞こえてきたりするんだって。」

「音楽室から曲……ですか?」

「うん、誰も居ないのに。小学校のころからそうだけど、音楽室って怪談とか多いし、だからブラスバンドってちょっと苦手なのかも……。」

 軽く言ってみたけれど、私の横で柊さんは何か難しい顔をしていた。

「あの……もしかしたら私のせいかもしれません。」

「え?ブラスバンドが苦手なのが?」

「いえっ、あの、幽霊の方の話です。」

「ん?どういう事?」

「ちょっと、大きなスピーカーで、アカリさんの喋るのが聞いてみたくて、学校のスピーカーにアカリさんを繋いだことがあるんです。ただ、変な所にもつながってたみたいで……。」

「それで音楽室からアカリさんの声とか、柊さんが聞きたかった曲が流れてきた……とか?」

「そう……だと思います。何度かやっちゃった後で気が付いて、慌てて接続を切ったんですけど……みんなに聞かれてたんですね。」

 狼狽えているのか、柊さんの声はどこか微妙に揺らいで震えていた。並んで歩く横目に見える彼女の顔が、どこか赤く見えるのは夕陽の赤さじゃなくて、恥ずかしくて紅潮してしまっているのかもしれない。

「大丈夫、柊さんのしわざかなんて誰も分かんないよ。」

「だと良いんですけど。」

 気弱な声でそう言いながら、それでも落ち着かないのか、彼女のリュックの揺れる音が大きくなっていて動揺しているのが窺えた。

 茜指す夕暮れの中、曲線を描く山際の下り道を降り切って、堤防沿いの道に入ると、道の端にはいくつもの背の高い植物が生えているのが見えて来る。ぺんぺんした細長い単子葉類の草が幾つも生えている堤防の斜面の中に、ぼてっと大福のように丸くって浅い紫色をした花が生えているのが見えた。

「変な花。」

 思わず呟くと、隣で歩いていた柊さんが顔を向けてくる。

「え?なんですか?」

「あれ、なんか変な形した植物ない?花、なのかな。」

 手を伸ばして花のある方向へと指をさす。指先の示す方へと柊さんは顔を向けて、じっと目を細めた。

「えっと……。」

「ほら、あの紫色の丸いの。」

「ああ。」

 花を見つけて、それだけで何か分かったように柊さんは頷いた。

「あれは、アザミですね。」

「アザミ?何か聞いたことある名前だけど、アザミってあんな花なんだ。」

「はい。確かアザミは葉っぱに棘があるんですよ。花に触ろうとするとひっかき傷ができちゃったりするんです。」

「へー。ね、柊さん。もしかして、この花とかも名前分かったりする?」

 歩いていく中、ふと、足元に小さな白い花があるのが見えたので、それを指さしてみる。柊さんはちょっと身を屈めて、その小さな花をまじまじと見つめると、ほうっと息を吐いて口を開く。

「これは……ユキノシタでしょうか。植物は、あんまり詳しくなくて。」

「ううん、全然詳しいよ。」

 これで詳しくないとしたら、本当に詳しいものはどれぐらい知ってるのだろうか。

「私。小さいころから図鑑ばっかりみてましたから。」

「へぇ。そう言うのってなんか理系っぽい。あ、あっちの大きい花生えてるけど、何て言うの?」

「なんでしょう……。見たことはあるんですが……アカリさんに聞いてみましょうか。アカリさん。」

『なんでしょうか?』

 柊さんの声に反応して彼女の耳につけたイヤホンから声が響いてくる。

「アカリさん、花の名前とか分かるの?」

『キーワードを指定してください。検索します。』

「あ、そういう。」

 なるほど、と思ってしまう。確かに柊さんが倒れた時にも、そういうこと助けてくれた。

「アカリさん、白い花、六枚の卵型の花弁、一重咲きの花の名前を検索してください。」

『検索の結果、一番上に来たワードはクチナシです。』

「ああ、そうでした。クチナシです。」

 あの僅かな情報を聞いただけで答えを出してしまうアカリさんに、へーっと感心してしまう。

「やっぱり凄いね。アカリさん。」

「凄いんですよ。」

 自分が褒められたように柊さんはにへらと嬉しそうに笑った。

 堤防沿いの道から信号を渡って、住宅街の中に入っていく。もう夕食の準備が始まっているのだろう、なんだか温かい出汁の匂いやカレーの匂いとかが漂ってくる。

「でも、クチナシかぁ、食材として聞いたことあるかな。クチナシって花なんだ。」

「たしか……実を料理の色づけに使うらしいですね。あと、食べると迷子にならなくなるとか。」

「そうなの?」

「何かの本で読みました。迷信ですけれど。」

「本当に何でも知ってるんだね……。」

 多分、一緒に昼ご飯をクラスメイト達に聞いても、どれも知らないって言いそうな気がした。

「じゃあ、柊さんさ。さっき見た花の中だったらどれが好き?」

「あー……どうなんでしょう?」

「どうなんでしょう?」

「なんていうか、あんまり花をそういう風に見たことなかったので……。」

「へえ?そうなの?……そんなことあるんだ。」

「変でしょうか?」

「あ……いや、どうなんだろう。でも柊さんっぽいかな。って思うよ。」

「そう……ですか?」

「うん。っぽい。あ……そろそろ。」

 言いながら一つ家の角を曲がって、いつも自分が電車に乗る最寄りの駅へとたどり着いてしまった。

「あ……。」

 隣で寂しそうな柊さんの声が聞こえた気がした。

「じゃあ。また明日ね。」

「あ、はい。また……あ、あの。」

「うん?」

「あの……どの花が綺麗かとか、そういうのは良く分からないですけど。あの、木槿さんが綺麗なのは分かりますから。」

 それだけ言うと、柊さんは「また明日」と頭を下げて、そのまま行ってしまった。

「え?」

 思わず呆然としてしまって、ようやくはっと気を取り戻した時、その言葉だけがようやく口から洩れでていた。

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