8.二人の約束

 一時限目、二時限目と授業を受けながら、どこか呆けた心持で木槿葵は黒板を眺めていた。

 教壇に立つ先生達は、廊下まで響くような大きな声を張り上げて一生懸命に講義する人や、ぼそぼそと前の席の生徒にしか聞こえないような声で喋るけれど板書の綺麗な人やら、授業を真剣に進めていてくれたけれど、殆ど何を言ってるのか何を書いているのか理解できないまま、真っ白なノートを開いて、ただ黒板を眺めていることしかできなかった。

 窓から机の上へと差し込んでいた光が作る影が境目を徐々に移動させて行き、完全に机が電灯の明かりだけに照らさられるようになった頃、教室の中に間延びのしたチャイムが鳴り響く。クラスメイトのみんなは、思い思いに席を立ったり、机を移動させ始めていく。

「葵ちゃん、お昼ご飯食べよう。」

 いつもの軽い調子で声をかけてきて、そのまま机を寄せてくる柚木さんと他のクラスメイト達を見上げる。そこではたと、自分はようやく四時限目の授業が終わったことに気が付いて、思わず席を立ち上がると柚木さんたちに首を振った。

「ごめん、ちょっと用事があって。」

「また?」

「あ、えっと……お弁当は一緒に食べるから、待ってて。」

 筆記用具を机の中に突っ込んで慌てて教室から出ると、近くの階段を段飛ばしで駆け上がって、最上階にある技術準備室へと向かった。妻女会は昼休みでも人っ子一人も影がなく、他の階の賑やかな生徒達の声が遠く聞こえた。肩の上下する荒い息を整えながら廊下を進み、技術準備室の手前で立ち止まると、一つ息を整えてドアノブに手をかける。

「あれ?」

 ガチャッと音のして、ドアノブは回ったけれど、扉が何かに引っかかっている感じで開けることが出来なかった。何度かドアノブを回して、ガチャガチャとやって、はたとそこで鍵がかかっているのだと気が付いた。

「もしかして柊さん、来ていないの……。」

 昨日、あんなことがあったんだ。今日は彼女が学校に来ていないかもしれないという考えが頭を過って、思わず何も考えられなくなって、扉を拳で殴りつける。木造の扉が揺れるのをゴンっと深い音を響かせるのを感じながら、自分は、なんとなく、一瞬、視界が揺らいで意識が遠くなっていく気がしてた。

「あれ、木槿さん……?」

 目が霞むように感じていく中、ふいに声のかけられたのに気が付いて、慌てて振り返ってみると、そこには柊さんの姿があった。いつもような癖の強い髪の毛をぼさぼさにして、そうして、いつものようにどこかきょどった様子で、柊さんは視線をしきりに左右へと揺るがせている。

「柊さん……。」

 ほうっと安心からくる吐息を漏らしてしまうと、その息の音に少しだけ柊さんはびくりと反応しながら、おずおずとしながら、こちらの顔をのぞき込んできこんできた。

「木槿さん……どうして、こちらに?」

「それは……。」

 問われて、思わず思っていたことを全て口にしてしまいそうになった。

 ただ彼女のにそれを言って何になるのかと思い、すぐに口を噤んだ。

 中学校の頃に彼女が虐められていたことを知ってからと言って、それを目の前に立って何と言えば良いというのだろう。そのまま、素直に「虐められていたの?」なんて聞いたとして、そんなこと、ただ柊さんを傷つけるだけでしかないなんてことは明らかで、それこそ、昨日倒れた時のように、ここで倒れ込んでしまうかも知れまないと思えた。

 そう考えると、何も言葉が出てこなくて、こんなところまでわざわざ来たのに、口を噤んだまま自分の手を握りしめて俯いてしまうことしかできなかった。

「あの……とりあえず中に入りますか?」

 突然黙ってしまった自分に気を使ったのか、そう言いながら柊さんは技術準備室の扉へと鍵を差し込んだ。くるりと彼女の細い指が鍵を回すと、ガチャリと重い金属の音が鳴った。ドアノブを回して開く扉とともに、柊さんは部屋の中へと入っていく。ぱちりとスイッチの押された音が鳴ると、ちかちかと電灯が瞬いて、すぐに部屋の中が明るくなっていき、通路の見渡せるようになった室内へと足を踏み入れて行きながら柊さんは、振り返ってこちらへと視線を向けてきた。

「どうぞ、入ってください。」

「あ、えっと……お邪魔します。」

 何も言えないままで気後れしてしまって、少しためらいながらも誘われる言葉に頷いて準備室の中へと足を踏み入れる。昨日と変わらない、雑多な荷物の、ごちゃ混ぜ置かれた混沌とした部屋の中。それが今の自分の心の中とリンクするようで、目が回るような気持ちになってくる。

 柊さんもどことなく戸惑った様子で、近くに積んであった本の山へと手をかけなけながら、こちらへと眼差しを向けてくる。

「邪魔なんてこと、なんにもないですよ。」

「そうかな……。」

 扉を閉めて、軽く唇を噛みしめる。このまま、押し黙っていることも変でしかなくて、ぐるぐるとかき乱されていく頭の中で言葉を探した。

「あの……柊さん。もう体調は大丈夫?」

 不意に言った、その言葉に、柊さんは一瞬きょっとんとした顔を表情を見せた。

「え?」

「昨日、体調悪くなってたでしょ?貧血だったっけ?」

「え……あ、はいっ。もう全然大丈夫です。」

 明るげな声で笑いながら仄かに口角を挙げた柊さんの表情は、それでもどこかぎこちなく見えて、じっと視線を向けると、目の周りが隈のように黒みを帯びてさえいた。明らかに空元気で言ってるのを感じ、思わず視線を逸らしてしまいそうになる。

「あの……昨日はすみませんでした。ご迷惑をかけてしまって……。」

「そんな……それこそ迷惑なんてことないから……。でも、元気なら良かったよ。アカリさんも元気?」

 多分、室内のどこかに置いてあるアカリさんのスピーカーへと声をかけてみると、すぐに準備室の大きなスピーカーから声が出て来た。

『動作に問題はありません。』

「なにそれ。」

 自分達二人とは違って、全くいつもと変わらず至極真面目な言葉を返してくれるアカリさんの声に、少しだけ頬が緩まる気持ちで軽く笑ってしまった。

「あの、木槿さん。もしかして心配してきてくださったんですか?」

「え……。」

 問われて僅かに言葉に詰まってしまいながらも、すぐに頷いて、そうだと言うことにした。

「うん。流石に昨日の今日だし、気になって。でも、心配し過ぎだったかな?」

「いえっ。嬉しいです。そんな心配して貰ったの初めてで……。」

「そ、そうなんだ。」

 嬉しそうに柊さんは言っているのに、その内容が寂しくて、なんと返事をするのが正しいのか分からずに乾いた笑い方をしてしまう。

「それだけだから、今日はお弁当とか持ってきてないの。期待させたりしてたらごめんね。」

「そんな気にしないでください。」

 音が出るほど大仰に柊さんは首を振るった。

「でも、それでしたら、私がパンを持ってきてるので……もしよかったら、一緒に食べませんか?」

「あー……ごめん、お弁当は教室にあるから。」

「そ、そうですよね。お弁当はありますよね。」

「う、うん。でも、そうだ。」

 ふと思い出して、僅かばかりに緊張しながら、ずっと柊さんに言おうと思っていたことを口にする。

「柊さんってスマホにメッセージアプリ入れてる?LINEとかさ。」

「えっ……あ……。」

 軽い調子で言葉に出してみたけれど、柊さんの顔が僅かに曇るのがわかった。柚木さんのメッセージアプリにも回されていた中学の時の動画が原因だろうと理由は察せられて、慌てて言葉を取り繕っていく。

「いや、ほら、一緒に帰る時間とか連絡とりたいし。二人だけのグループで。」

「あ……また一緒に帰れるんですか?」

 うつむき加減になっていた柊さんの顔が上がって、少しだけ緩んだ表情になっていく。

「柊さんが良いのなら。」

「ぜ、全然大丈夫ですっ。あの……それでしたら。」

 それでも、ちょっと緊張した面持ちで柊さんはスカートのポケットの中からスマートフォンを取り出す。自分も取り出したスマホを差し出してアプリを起動させる。お互いに緩くスマホを振るうと、アカウントの交換が成功した明るい調子の電子音が鳴った。その音を聞いて、柊さんはふっと口角を緩ませていた。

「そうだ。もし、ここにいるときにさ。昨日みたいに体調が悪くなったら連絡してね。迎えに行くから。」

「あっ、ありがとうございます。やっぱり……心配してくださったから、アドレス交換してくれたんですね。」

 体調が悪くなったこと云々は、本当に今思いついただけだったが、そう言うことにしておこうと言葉を合わせることにした。

「えっと……うん、そう言う意味もあるかな。じゃあ、また後で帰る時間のこととか連絡するね。」

 ちょっと慌てながら捲し立てると、柊さんの返事もまともに聞かずに部屋のドアを開いた。

「じゃ、じゃあね。」

「あっ、木槿さん。」

「う、うん?」

「あの、ありがとうございます。その、わざわざ来てくださって……。」

 ぎゅっと手を握りしめながら言う、柊さんの頬は赤く染まっているようで、せめてもと言うように見せてくれていた笑顔は、彼女の過去を知っているせいだったからなのか、なぜだか儚げに見えた。

「ううん、気にしないで。本当に……。」

 口から出る声が震えているのを感じながら、部屋の扉を閉めていく。きいっと蝶番の軋む特有の音を鳴らしながら扉と壁との隙間から見える柊さんの姿は狭まっていき、かちゃりと金属音を響かせて完全に閉じた。

 途端、私は廊下を走り出して階段へと向かっていた。あふれ出てきそうな涙を堪えるために唇を僅かに噛みながら、階段を駆け下りていくと、すれ違う人達は怪訝そうな顔で視線を向けてきたけれど、それよりも柊さんの顔が見れたことと、彼女とアカウントを交換できたことに、痛いと感じるほどに心臓が高鳴ってしまって、とてもじゃないけれど、ゆっくりと歩くことはできなかった。

 あっという間に、自分の教室まで辿りついてしまう。中をのぞき込むと、クラスメイト達は、すでに机をくっつけて弁当へと箸を伸ばしていた。

「あ、戻ってきた。」

 クラスメイトの一人が自分が教室に入ってくることに気が付いて、のほほんとした緩い調子の声をかけてくる。そのいつもの雰囲気に、少しだけ気持ちが落ち着いていく。柚木さんもこちらへと顔を向けて、手招きしてくる。

「お弁当残してたから、戻ってくると思って机くっつけておいたけど。」

「うん、ありがとう。」

 礼を言いながら席へと腰を下ろした。鞄の中から弁当を取り出して、残った昼休みの時間で早く食べてしまわないとと箸をとると、クラスメイトの一人が、興味深そうにこちらの顔色を窺っていることに気が付いた。彼女の口にしようとしていることは直ぐに分かった。昼食の間の会話のネタがほしいんだろう。

「どこ行ってたの?」

「えっと、別のクラスの友達のところ。」

「本当?」

「本当?ってなに?どういうこと?」

 ちょっとぎくりとしながら尋ね返す。

「いやー、みんなで、葵ちゃんに恋人でもできたんじゃないかって話してた所でさ。」

 柚木さんが横から口をはさんできて、その言葉に苦笑いしてしまう。

「そんなの、欠片もないよ。」

 曖昧に笑いながら返事をすると、他のクラスメイトもくすくすと笑って頷いた。

「だよね。知ってる。」

「だよねって言われるのも腹立つわ。」

 わざとらしく、やれやれとため息をついて肩をすくめて見せて、弁当の中から卵焼きを一つとって口にすると、からからとクラスメイト達は笑った。その笑い声に、自分も曖昧な笑顔を浮かべながら、小さく溜息をついてしまう。

「そう言えば、2組の足立がさ、三浦と付き合い始めたんだって。」

「うそ。まじで。」

 すぐにクラスメイト達の話題は私のことから外れて、より興味の話へと流れていく。助かった気持ちをしながら、弁当箱からミートボールを取って口へと運びながら、そう言えばと思い出して、ポケットの中からスマートフォンを取り出すと、さっき交換して作ったグループへとメッセージを書き込んでいく。

『今日も一緒に帰らない?』

 そう書き込んで送信すると、ちょっと間の空いて、すぐにぶるっとスマートフォンが震えた。画面にはポンッと跳ねるような動作で新しいメッセージが現れる。

『よろしくお願いします。』

 たった、それだけの簡素な返事だけが返ってきた。

 それも、なんか柊さんらしいと思っていると、隣のクラスメイトが肩を小突いて来た。

「なにスマホ見て、にやけてんの。やっぱり恋人出来た?」

「出来てないって。」

 何度も肩を小突いて来る手を払って、嫌そうに言いながらも、その時自分が口がにやけてしまっているのは、なんとなく分かった。

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