6.放課後の帰り道

 ロッカーの立ち並ぶ更衣室の中、汗まみれになったユニフォームを脱ぐと木槿葵はスポーツバッグから取り出したハンドタオルで自らの肌を拭った。腕は既に日焼けの黒みを帯びて、指先で触れれば熱を持ち、タオルで拭った感触でわずかにひりひりと痛むのを感じた。ユニフォームで隠れていた二の腕の半ばあたりでくっきりと白と黒の境目を作り出して、日の下での練習の跡が明らかに見て取れる。

 タオル手のままに顔の触れてみると、顎のライン辺りが特に痛みを感じて、ユニフォームで拭いすぎたせいなのだろうかと思えた。

「焼けちゃうのは嫌だなあ。」

 脱いでしまった服をぐるぐるに丸めてレジ袋にっつこんでしまい、スポーツバッグの仕舞い込みながらそう言うと、隣で同じように服を脱いでいた麗菊は同意するように頷いた。

「わかる。焼けるの嫌だから室内っぽい部活にしたのになあ。」

 騙されたと、愚痴っぽく言いながら麗菊も、ハンドタオルで自分の体を拭き始める。私よりも背丈は小さいけれど、体の肉付きはよっぽど良くて、彼女の手が胸を拭こうとすると、その膨らみがたゆんたゆんと揺れるのに、傍らから見ていて圧倒される気持ちなってしまう。ただ、それを言うと、彼女は自分がデブと言われているようで気に食わないらしく、あまり口にはできない。

「公立は辛いよね。良い私立とかだと、部活ごとにコート持ってるとかいうし。」

「なんかそこまで行くと贅沢すぎて想像できない世界だよね。」

 言いながら、麗菊は体へとしゅっと制汗剤を吹き付けた。ふわりとシトラスの鼻につく匂いが漂ってくる。更衣室の中では他の子たちも、スプレーを使って体に制汗剤を吹き付けていて、アッという間に室内が果物と汗とのごちゃ混ぜになった奇妙な匂いがあふれかえっていく。この匂いが苦手で、ちょっと顔を顰めてしまいながらも、自分も仕方なしにと腕を上げて脇の下や腰と言った汗がたっぷりと流れていた箇所へと制汗剤を吹き付けていく。

「コートはともかく、シャワー室だけでもできないかな。」

「それ一番贅沢じゃない?」

 呆れたように言った麗菊は、使っていた制汗剤のスプレーを上下に揺らした。中身がなくなり始めているのだろう、先ほどの吹きつけていた勢いも何かガスが抜けてるようにかすかすだった。

「もう、新しいの買わないとダメなんじゃない?」

「そうっぽいね……。あ、そうだ、葵。ついでにさ今日一緒にコンビニ寄って行かない?雲雀ケ丘の方の。」

「んー……なに?今日、何かあった?」

 スポーツバッグの中から新しいショーツを取り出して、その片方の裾へと足を通しながら麗菊へと顔を向けると、彼女はにまりと嬉しそうな顔をしていた。

「新しい肉まん出たからさー。食べてみたくって。」

 弾んだ声を上げて麗菊は抱えるように自分の胸をブラジャーの中へと納めていた。

「ふーん……でも、やめとくわ。ちょっと用事あるし。」

 自分も支えるほどもない胸ながら、屈みこんでブラジャーを付けると、よっと体を持ち上げて、ホックを留めた。

「そう?」

「んー。ごめんねー。」

 軽く言いながら制服のシャツを羽織ってしまい、手際よくボタンを留めていく。すぐにスーカートをはいてしまうと、さっさと道具やら何やらをスポーツバッグへと突っ込んでいった。

「んじゃ。」

 よっと老人みたいに声を出して、重いスポーツバッグを抱え上げると、麗菊とその隣で静かに服を着替えていた咲良へと手を振った。

「えー、早くない?」

「さっきも言ったけど、用事あるから。」

 ぶーと顔を膨れてみせる麗菊を横目にして、更衣室を出た。外は既に日が傾いていて、きっと日が暮れたと思う間もなく夕闇に沈んでいくのだろう。こちらがユニフォームから制服へと着替え終わっても、まだ野球部は練習をしていて、金属バットの音ともにへばり切ったダミ声が響いているグラウンドの横の、心ばかり整備された小さな脇道通って、校舎へと向かう。

 グラウンドから校舎へと続くアスファルトの道を通り過ぎ、玄関に入ってみると、丁度、文化系の部活も活動を終えたのか、幾らかの生徒が下駄箱に集まって、がやがやと話し込んでいるのが見えた。その横を通って、シューズから上履きへと履き替えてしまうと、ちょっと急ぎ足で玄関の近くにある階段を駆け上がる。

 一気込んで、最上階まで登ると、さすがに息が切れてしまって、肩を上下させながら、辿りついた廊下へと目を向ける。

 日の傾いて茜色に染まり始めた西日を受けた最上階の廊下は、どこか異空間のように緩く暗い雰囲気を漂わせていて、やはり、というか、なんというか、その空間の真ん中あたりに、グラウンドから眺めた時に見かけた特徴的なシルエット、癖の強いぼさぼさの髪をした、あの柊さんが居るのを一目に見つけた。

「柊さんっ。」

 思わず挙げた声は、想定していたよりもよっぽど大きくて、他に誰もいない廊下へとわんわんと響いてしまい、わっと慌てて口を押えた。廊下にしゃがみ込んでいた柊さんは、その声の大きさに体をびくりと震わせると、まるで音に驚いたネズミのようにきょろきょろと左右へ首を回すと、ちょっとして、こちらに気が付いたのか顔が私の方へと固定された。

「木槿さん?」

「うん。私のこと憶えてた?」

「憶えてますよぉ。今日のお昼会ったばかりじゃないですか。」

「そうだね。」

 軽い冗談に真面目に返してきてくれる柊さんの言葉に、ふふっと軽く笑ってしまう。

「柊さん、ここで何してるの?」

 立ち上がってスカートの裾を払った柊さんの元へと近づいてみると、それまで気が付かなかったけれど、何か見たことのない道具やらが床に散乱していた。

「えっとですね……あの、廊下の床で、壊れてるところがあったので、ちょっと直してるんです。」

「直してる?」

「ここ見てもらえますか?」

 言いながら柊さんが指差すので、その指の先にある床へとしゃがみ込んで覗いてみる。

 よくよく視線を凝らしてみると、廊下の床のシートが割れて居る所に、白いクリームが塗られていることに気が付いた。

「あ、ここって。」

 そういえばと思い出すと、昨日イヤホンを直してもらうために初めてここに来たとき、この床が割れて居ることに気が付いて、ちょっとだけ気にしていたはずだった。帰る時には気にしなくなっていたけれどと、改めて眺めてみると、確かに昨日見た割れを満たすようにして床とは違う白いクリーム色の部分があることが分かる。

「割れてる所に、こうやってパテを塗って、乾いた後に磨くと綺麗になるんですよ。」

 そう言うと柊さんは、床の割れた部分を満たしていた白いクリーム色の部分に、紙やすりを当ててゆっくりと擦り始めていく。ざりざりと荒い砂が擦れあう音が廊下に響いていく。こんな見た目の違う部分が残っていて、どうやって綺麗になるんだろうと思って眺めていると、気が付けば、いつの間にか境目が見えないほどに、すぐに廊下とクリーム色の部分が馴染んでいく。

 思わずへえっと感心した声を漏らすと、傍らで柊さんは

「そんな大したことじゃないですけど」

 と、恥ずかしそうに癖毛だらけの頭をかいた。

「ううん、大したことあるよ。こんな綺麗になるもんなんだね……。」

 そこではたと、部活中にこの廊下で柊さんが何かをしている姿を見つけたことを思い出した。

「もしかして、今日ずっとこんなことしてたの?」

「えっと……そうですね。そういえば、そんな感じですけど。どうしてですか?」

「えっとね。部活中にさ、ちょっとこの廊下の方を眺めた時に、柊さんがココに居るの見えてさ。だから、もしかしたら、ずっと、やってたのかなって。」

「あー、そうですね。割れてるところがいっぱいあったから、今日まるまる一日かかっちゃったんですよ。」

「こんな割れてるとこが他にもあったの?」

「えっと……。こんな大きいのじゃないですけど。」

 しゃっがんでいた柊さんは、ちょっと体をねじって後ろへと振り向くと、窓とは反対側にある幾つか床のプレートを指差した。

「こことか、こことか、小さい割れ目がいくつかあって、大きなパテが渇くまでの間に、色々と先に直してたんです。」

「どこ?」

 言われてけれども見当たらなくて、目を細めてしまう。

「ここです。あと、木槿さんの足元とかもそうですよ。」

「え?」

 言われて慌ててて顔を向けると、足元の床へと目を凝らした。パッと見には全く分からないけれど、よくよく目を凝らして見てみると、確かに、小さな割れ目の様な線が入ってるように見えなくもない。それは雷のように、一本の基点からいろんな方向へと枝分かれして、一部ちょっと大きめに割れていたようで、玉のような部分がパテとやらの色で満ちていた。

「ホントだ……。」

 そっと指先で撫ぜてみるけど、全く引っかかりを感じずに、床とパテとの違いは分からなかった。

「でも、凄い大工事みたいなことだけど、こんなことしちゃって大丈夫なの?」

「一応、先生に先に許可は貰いました。」

「えっ。」

 と、思わず驚いてしまって、小さな声が漏れた。

「そんなことまでして、わざわざ直したんだ?」

「え?ええ……。」

「凄いんだね……。普通はそんなことしないよ。」

 何の気なしに、そういうと、柊さんはちょっと曖昧に表情を陰らせると、手の平で口元を隠した。

「そうですね……普通ではないのは知ってます。」

「え?いや、違くて。」

 こちらの言葉が柊さんにどう感じられたのかを察して、すぐに首を振って否定した。

「そう言う意味じゃないよ。そうじゃなくて、単純に面倒くさくなかった?ってこと。」

「あー……でも、壊れているの知ってたのに、誰かが転んだりして怪我したら嫌じゃないですか。誰かが嫌な気持ちになって欲しくないって思いませんか。」

「うん、そうだね……。そう思う。そうだよね。」

 曖昧に言葉を詰まらせそうになりながら、そう答えると、ふいに、柊さんは悲しそうに眉尻を下げて、唇を真一文字に結ばせた。

「あの……私なんか変なこと言っちゃいましたか?」

「え、どうして?」

 彼女の言っていることの意味が分からずに、思わず問い返していた。

「だって、木槿さん、凄く辛そうな顔してるので……すみません、私全然言って良いこととか分からなくて。」

 そう言われて、自分がどこか表情を強張らせていることに気が付いた。

「ううん違うの、嬉しいだけ……。」

 それは本心ではあった。本心ではあったけれど、他人のためとか学校のためとか、そう言うことを真面目にすると周りの子達からは嫌われて、だから、そう言うことをしている人に笑顔を向けるのもできなくなっていただけだった。

「えっと……。」

 不思議そうに眉尻を下げて柊さんは言葉を困らせているようだった。

 それは、本当に感情がそのまま表情に現れているようであり、彼女が感情を隠すことが出来ない人なのだと伝えてくれるようだった。そして、だからこそ、恐らくは、自分のように周りに合わせて表情を作ることなんてしないだろうし、理由も分からないだろう。

 ただ、柊さんは、そう人で良いと思えた。

 強張っていった表情を、無理やりに笑顔にして、話題を変えようと口を開く。

「ね、これってあとどれくらいで終わる?」

「今日はこれで終わりにして、残りは明日やるつもりですけど……。どうしてですか?」

「昨日一緒に帰ろうって言ったでしょ?」

「え……?あ、あー……。」

「もしかして、忘れてたりした?」

「す、すみませんっ。誰かと一緒に帰るなんて久しぶり過ぎて……。」

「そうなの?」

「恥ずかしながら。」

 頭をかきながら言った柊さんの言葉が、何か武士みたいな物言いだと思ってしまって、ふっと笑ってしまうと、一瞬ぷつっとノイズのような音が耳元に響いた。

『マスター、もうすぐ最終下校時刻になります。』

 突然に響いてきた、聞きなれた電子的な少女の声に驚いてしまう。それは、昨日今日も話をしたアカリさんの声だった。

「アカリさん?居たの?」

『肯定です。ずっと会話は聞いていました。』

「え?でも、あのスピーカーとかないよね?」

 周囲を見渡してみても、柊さんと彼女が床の修理につかっていただろう道具しか見当たらない。そう思っていると、柊さんはぱっと顔を上げて嬉しそうな表情を見せる。

「あ、実はですね、イヤホンから他の人にも声が聞かせられるようにしたんですよ。」

『ver.1.00.07です。』

 ちょっと得意そうな響きのあるアカリさんの声が、柊さんの耳あたりから聞こえてくることに気が付いた。

「うわ、恥ずかし……。」

「え?どうしてですか?」

「いや、だって柊さんと二人きりだと思って気を抜いてたから……。」

 何というか、内緒話を聞かれていたような恥ずかしさが湧いてきて、段々と顔が熱く感じられてしまう。不意に湧いてきた、顔の汗をぬぐおうとしたところで、ふとアカリさんが伝えてきた言葉を思い出した。

「……って、もう最終下校時間?」

『肯定です。残り10分を切りました。』

「やば、柊さん早く帰んないと。」

「あっ、はいっ。ちょっと待っててください。」

 慌てて立ち上がった柊さんは、そこら辺に散乱していた道具を雑に抱え込むと、部室へと駆け込んでいく。様子が気になって、部屋の中をのぞき込もうとすると、すぐにリュックサックを抱えた柊さんが扉から出てきた。

「早かったね。」

「用意とか全然いりませんからね。私なんか。」

「そうなんだ。じゃ、早く帰ろっか。」

 自分も床に置いていたスポーツバッグを肩に抱えると、廊下を小走りでさっき昇ってきた階段へ向かう。パタパタと上履きの床を叩く足音を立てながら、階段まで駆けて、振り返ってみると後ろを柊さんがわたわたと慌てるように付いてくるのが見えた。

「急げ、急げ~。」

「は、はいっ。」

 6人ぐらいは横に並んで通れる広いの階段を一段飛ばしで、とっとっとっと降りて踊り場にたどり着いて後ろを振り返ると、柊さんは、急ぎながらもおぼつかない足取りで階段を下りてきて、べたべたべたっと大きな足音を鳴らして踊場へと追いついて来る。

「す、すみません。先に行ってください。」

 自分があまりにも遅いことに気が付いたのか、柊さんはこちらの顔を見て悲しそうに首を振る。

「大丈夫だって。柊さんのペースで良いから一緒に行こ。」

「あう……ありがとうございます。」

「気にしないでっ。」

 言いながら先に下の階まで階段を下りて、柊さんが降りてくるのを待つ。

「ねえ、柊さんってさ。」

「はっ、はい?」

 わたっわたっわたっと相変わらずに不器用に降りてきながら、柊さんは顔を上げた。

「いつもこれぐらいまで残ってるの?」

「え?いえ、今日は熱中しちゃって、時間見るの忘れちゃってたんですけど、いつもはもうちょっと早いですかね。」

「そうなんだ、私部活でそのまま帰っちゃうから、こんな時間の校舎の中って初めてで、何ていうか……。」

「……なんでしょう?」

「なんか、特別な感じがするね。」

「あ、分かります……。誰も居ない校舎って変な感じですよね。」

「うん。あ、でも、もしかしたら柊さんと一緒だからかも。」

 そう言って軽く笑ってみると、何とかかんとかと言うように3階まで必死に下りてきた柊さんは大きく首を振る。

「そんな、私なんか関係ないですよ。」

「どうかな。」

 軽く笑いながら、ちょっと恥ずかしくなって階段を2段飛ばしで降りていた。

 先に階段を下りて柊さんが追いついてくるのを待って、そんなことを繰り返してようやく玄関まで辿り着くと、それぞれの靴箱に別れて、靴を履き替える。校舎を出て見ると、目の前に広がる空はいつの間にか、少しだけ暗くなり始めていて、僅かばかり夕焼け色に染まった雲の端を烏の黒い影が横切っていくのが見えた。

 ついで柊さんが玄関から出てくると、丁度、最終下校時刻の5分前を知らせる予鈴が学校全体に鳴り響いた。

「うわ、早く校門でないと……。柊さん、走れる?」

 駆け飛ばすようにして階段を降りてきたせいなのか、俯いて、肩を揺らすほどに息を切らしながらも、柊さんは大きく頷いた。

「な……なんとか……。」

「良かったら、柊さんのリュック、私が持とうか?」

「いえ、大丈夫です。私、頑張りますから。」

 無理やりと言った調子で声を上げた柊さんは、ばっと顔を上げて、そのまま校門に向かって走り出した。遅れて走り出し、その背を追い始めるけれど、十歩もいかないうちすぐに柊さんへと追いついてしまう。柊さんは必死に走っているようだったけれど、その走り方は抱えたリュックサックをがちゃがちゃと中身の荷物が音を鳴らすほどに、上下に大きく揺れていて、あまり前には早く進めていなかった。その傍らを自分もスポーツバッグを揺らしながら並走して声をかける。

「柊さん。ガンバって。」

『マスター。ファイトです。』

 合わせたように柊さんの耳についたイヤホンからアカリさんの励ます声が響いてくる。

「は、はいぃ……。」

 二人分の励ましに、もう根を上げそうな顔をしていた柊さんは、ちょっと情けない調子で声を上げた。

 校舎からコンクリートで舗装された道を、二人でどたばたと音を立てながら駆けていくと、視線の先にようやく校門が見えてきた。幸い、まだ閉められていないようで、門は開かれていたけれど、その傍らでは女性の先生が一人腕時計を眺めながら柵に手をかけていた。体育の教師で、女子バスケ部の顧問でもあるその先生は校則や時間に厳しいことで知られていて、もしチャイムに遅れたら、バスケ部員にも拘わらずと言うことも含めて、ちょっとぐらいは小言を食らってしまうと思えた。横で走りながら顎の上がってしまっている柊さんの背中へと手をばして、支えるつもりで僅かながらに力を加えた。

「柊さん。もう少しだよ。」

「ひぃ……ひぃ……。」

 情けない声を挙げながらも、柊さんがチャイムが鳴る寸前に校門へとたどり着く。こちらが走ってきているのに気が付いていたらしい先生が苦笑いしている横を、二人で走り抜けた。

「ギリギリだな。次はもう少し帰れよ。」

 さっぱりとした声で言った先生の言葉に、息を切らしながら手を振って返事をする。

「はーい。先生さよならー。」

「気をつけて帰れよ。」

 先生が言うのと同時に、最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴り響いた。生徒の殆ど帰ってしまった静かな校舎に寂しいげな鐘の音が鳴り響くのを背にして二人で帰り道を歩き始めていく。ただ、柊さんは息が切れ切れなようで、肩を未だに大きく上下させながら、ふうふうと呼吸を乱しきっていた。

「はぁ……疲れた。ね?」

「わ、私の足が遅いせいで……ギリギリになって、スミマセン……。」

「ぜんぜん。そんなこと気にしないでよ。」

 からからと笑ってみせるけど、柊さんは気にしているようで、どこか背の曲がって俯きながら歩いているように見えて、何か気分を変えてしまおうと会話の話題を探す。

「あー……柊さんはどこの中学だった?」

 問われて、柊さんは顔を上げた。

「わ、私ですか?私は……。」

 困ったように眉尻を下げて柊さんは言葉に困っているようだった。

『マスターの出身中学は向ヶ淵中学校です。』

 言うのに困ってる柊さんの代わりに、アカリが口を挟んできた。その言葉に、柊さんは困惑しているようだった。

「アカリさん……。」

「向ヶ淵かぁ。ちょっと遠いよね。柊さんの家があるの安小路だっけ?そこからだと逆方向じゃなかった?」

「そう……ですね。だから同じ中学の人も殆どいないです。」

「ふーん、でも、どうしてこっちに来たの?あっちにも高校あるんだよね?」

「はい。あっちにも聖林高校とかありますけど……。こっちに来たのは公立で学費が安かったからで。あとは……。」

 そこでふと言葉を詰まらせた柊さんの顔は一瞬全ての表情が消えたように固まった。

「ん?」

 どうしたのだろうと声をかけると、狼狽えながらも柊さんは表情を取り戻す。

「あ……いえ……入れるところを選んだって感じです。」

「そうなんだ……。」

 言い淀む柊さんの口調に、それだけじゃない何かがあるんじゃないかと感じたけれど、あまりにも切羽詰まった雰囲気に、それ以上は強く聞けなった。

「あの……木槿さんは?」

「私?」

「はい。木槿さんの中学校は。」

「私はね。白鶴中。」

「えっと、白鶴って……たしか。」

「うん。大分遠いよ。中学からだと駅で4本ぐらい離れてるかな。」

「あの。どうしてこっちに来たのかとか。聞いても大丈夫ですか?」

「うん、別に大丈夫。私は、何ていうか馬鹿だからさ。ここぐらいしか入れるところがなくて……って、柊さんとかもそうだってわけじゃないんだろうけど。」

「いえ、私も同じようなものです。」

「うそー、だって柊さん凄い勉強できそうだよ?アカリさん作ったんだし、すごいじゃん。」

『同意します。マスターは凄いです。』

「もう。アカリさん。変なこと言わないでください。」

『事実です。』

「うん、凄いと思うよ。」

 アカリさんと二人して褒めると、柊さんは癖毛の頭をかいて恥ずかしがる。

「私は……理数系は良いんですけど、歴史とか国語が本当に苦手で……。」

「あー、なるほど。そう言うのってあるよね。私はね、国語だけなら得意だよ。」

「国語ですか?」

「意外?」

「そんなことないですけど、国語が得意って言われると、そんな感じがするかもしれません。」

「なにそれ。」

 分かるような分からないような言葉に、くすりと笑ってしまう。

「七教科以外なら、体育が得意かな。」

「あ、それは分かります。木槿さん、バスケ部ですもんね。」

「あれ?知ってた。」

「あ……すみません。部活で練習しているの見てました。」

「やっぱり。今日、こっち見てたよね?」

「はい……ごめんなさい。」

「どうして謝るの?私は別にいいけど。」

「勝手に見てるのって、なんだか失礼かなって……。」

「そんなことないよ。私は別に……もしかして、目が合った時に隠れたのも、そう言うこと?」

「あ……えっと……。」

 なんだか柊さんは頬を染めて、ちょっと言葉を詰まらせた。

「あの……そうかもしれないです。」

「ふうん。もし次、目が合っても隠れなくていいからね。ああ言うときは手を振ってくれたら嬉しいかなー。」

「は、はいっ……。」

 少しばかり言葉をこわばらせながらも、柊さんはふわりと笑顔を見せてくれた。

 そうして、話は得意教科や最近の授業のことへと戻り、そうこうと話をしているうちに、流れる雲を茜色に染めていた夕日は完全に顔を隠して、空は黒く幾つか星の見えるようになってきていた。話が私の担任の悪口になるころには、いつの間にか駅へと辿り着いてしまっていた。

 駅前のロータリーの歪な楕円を描いた歩道に差し掛かり、二人ともなんとなく足が止まった。道行は電車に乗りに向かう生徒たちやらと、駅舎から出てきて家に帰るのだろう会社員やらでごちゃごちゃと人があふれていて、ロータリーに停まっているバスが、それを吸い込んだり吐き出したりしている。

「あ、駅……に着いちゃったね。」

「着いちゃったってこともないと思いますけど。」

「着いちゃった……かな。」

 なんとなく、もう少し一緒に居たかった気がして、そんなことを言っていた。

 一緒に電車に乗ってくれないかなとか思いながらも、もう帰らなくちゃいけないのだと理解して、わざとらしく顔に笑みを浮かべる。 

「じゃあね。また明日。」

「あ、はい。じゃあ……。」

 言いかけた柊さんの顔が、ふいに酷く強張っていた。

「柊さん?」

「……あ……いえ……。」

 言葉を途切れ途切れに漏らしながら、柊さんは体を震わせて酷く狼狽えていた。

 その視線が、こちらへと向いていないことに気が付いて、顔を振り向かせる。

 そこには行きかう人々と、並木の近くで屯ろする別の高校の制服を着た女子高校生の集団が見えた。

 彼女たちの制服は、たしか駅で何個か先のところにあるはずの高校だったはずで、本来ならこんなところに何にもいるはずはなかったけれど、みんなスポーツバッグを持ってきているのが見えて、近くにある運動競技場に部活の試合に来ているのだろうと察せられた。

 みんなスマートフォンを眺めたり、雑談をしている様子で、帰る前の生徒だけのミーティングのようでもあった。

 集団の中、一人だけグループのリーダーの様なショートカットの女子がいて、その人に向かって、柊さんの揺れる視線は向けられていた。

「あ……うぁ……。」

 短髪の少女を見つめながら、柊さんは何度も小さい声を漏らして息を乱していた。

「柊さん、大丈夫?」

「だ……大丈夫です。」

 そう言いながらも、どんどんと柊さんの顔が真っ青になっていくのが分かった。

「えっと……。」

 どうにか休めるところはないかと、慌てて左右を見渡して、近くに横に長い木製のベンチがあるのを見つけた。

「とりあえず、あそこのベンチに座ろう?」

 朦朧としている柊さんを支えようと、脇から手を差し込んで体を寄せると、彼女の足はがくがくと途端に体を寄りかからせてきた。震えて立つのも覚束ない体を抱き留めながら、ベンチまでなんとか歩かせる。

 倒れ込むようにして柊さんをベンチへ座らせると、彼女はがくりと上半身を俯いてしまって、浅く早く、酷く辛そうに何度も呼吸を繰り返していく。

「ねえ、柊さん。どうしたの?」

「なん……なんでも……ないです……。」

「なんでもないことないよ。」

 ベンチの傍らに自分も腰を下ろして、今に出も倒れてしまいそうな柊さんの体を抱きとめる。

「アカリさん。柊さんどうしたの?」

 柊さんの耳元へと声をかけると、ザザッとノイズの音が走った。

『返答不能。質問が不明瞭です。』

「柊さんの、体調が悪いみたいで、顔が真っ青で、呼吸が急で、めまいをしてるみたいなんだけど。何か分からない?」

『wait...……ネットでの検索結果の第一候補は貧血です。』

「貧血?でもこんな急に……。」

『立ち眩みの他、緊張やパニックなどの精神的要因で急性に引き起こされることがあります。なお、体調不良の際には医療機関へと受診し自己判断しないことをお勧めします。』

 機械的に告げて来るアカリさんの言葉を途中から聞き流して、胸元で辛そうに呼吸している柊さんへと目を落とす。彼女の唇が紫になるほど、顔の血の気が引いていて、指先は両手ともぶるぶると震えていた。今にも体が砂となって崩れ落ちてしまいそうなほどに脆そうで、見ているだけで胸が辛くなっていく。

「精神的要因って……。」

「すみません……すみません……。」

 がくがくと震えているのに、絞り出すようにして柊さんは、そんなことを言った。

「そんな……謝らなくて良いから。」

 だから、早く元気になって欲しいと願って彼女の背中を撫でた。浅い呼吸とともに細かく上下するその背中は、想像していた以上に弱々しく館弄られて、思わず彼女の掌を握る。ひやっと感じるほどに指先は冷え切っていて、くっと唇をかむと、自分の無力感が悲しくて、覆いかぶさるようにして彼女の体を抱き寄せていた。

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