魔王軍北進せよ

第30話:イスタニア上陸作戦


***


 ──古代の哲人いわく。

『怒りは無謀を以て始まり、後悔を持って終わる』



***



 8月末日。夕方。

 創痍と弾痕に彩られた、ネア・ポリス大聖堂の本堂にて。

 一人の男──ベリアルは、黙想に更けていた。その表情は、赤紫の仮面のために窺えない。

 目の前には、腰から上が砕け落ちた聖母像が立っている。引き倒された祭壇は、豪奢な織布を剥ぎ取られ、木目を露わにしている。他に、金製の杯や燭台の類いが見当たらない。恐らく、先行したエルトルトの部下たちが略奪したのだろう。


「……」


 ベリアルは黙想した。過去の罪を問い直し、今の罪に目を向け、そして、未来の罪を自覚するために、必要な心の処置を、彼は求めていた。



 今朝方。ベリアルは4万の兵を率いて、煉獄海を渡った。イスタニア打倒の使命を帯びた諸兵たちは、第3機動軍を中核とする精鋭たちだ。彼はイスタニア半島の南西部──港湾都市ネア・ポリスに上陸した。ネア・ポリスは、古代文明の名残を伝える、由緒正しい都市だ。白いレンガと青い海。平らな道と豪奢な商館。金貨と宝石が絶えず取り交わされ、小麦と磁器が惜しげもなく船に積み込まれ、荷馬車と使用人がせわしなく往来し、貴婦人と詩人が優雅に交わる。風光明媚を体現した、煉獄海の至宝と呼ぶに相応しい街だった。

 魔王軍が誇る旗艦──三段櫂船「リヴァイアサン」は、人気のない波止場に着岸した。煌々とした夏の日差しが迎える中、完全武装のベリアルは樫製のタラップを降りた。重度の船酔いで陰鬱とした表情を仮面に隠しながら、彼はネア・ポリスを遠望した。


「……っ」


 そして、ベリアルは言葉を失った。象の胴体にも劣らない、太い濃緑色の蔦が、折り重なるようにネア・ポリスの家々を呑み込んでいたのだ。どこから生えているのか、もはや分からない。折り重なるように伸び散らかした緑の腕たちは、所々で枝分かれを見せ、二階の窓や天井を突き破り、縦横無尽に青空を遮っている。


「──お待ちしておりました。ベリアル様」


 波止場には、手勢を連れたエルトルトが待ち構えていた。彼女は普段の官服に、防魔法使用の白色ローブを纏っていた。


「エルトルト。……あの植物は何だ?」


 ベリアルは、純粋な疑問をぶつけた。


「モンスタープラント、とでも言っておきましょうか。……ディアボロス様は有事に備え、魔王軍の創建に尽力される傍ら、生物兵器の開発にも着手していました。今回、わたくしが親衛隊に使わせたモノは、そういった新兵器のうちの一つです」

「……あれには、どういった効果があるのか?」


「瞬く間に街を制圧・占領し、食料や家畜、人間を養分として吸い上げることで、短期間の内に実を結びます。その実は友軍の水と食料になります。橋頭堡と兵站の拠点を同時に確保できる、非常に有用な兵器です。おまけに、死体の処理までしてくれます。デメリットがあるとすれば、生育異常を注意することくらいでしょうか。適当に火で炙ってあげないと、無尽蔵に蔦を伸ばす傾向があるようです」

「……なるほど」


「それと。イスタニア王国はこちらの侵攻に備え、1週間ほど前に住民の大部分を地方に疎開させていたようです。残念ながら、今現在モンスタープラントの肥料になっているのは、大半がイスタニア王国の守備兵です」

「そうか。……」


 ベリアルは、二の句を躊躇した。


「……ベリアル様」

「何だ」


「……よもや、この景色を見て気分を害されているわけではありませんよね?」


 エルトルトは、試すような口調で問うた。

 その唇は、薄気味悪い笑みを帯びていた。


 ベリアルは、仮面越しに目を背けた。


「……無論だ。……──アークフィート!」


 ベリアルは、船に向かって声を上げた。


「──はい」


 船橋から、黒い略式甲冑を身に着けたアークフィートが、ひょいと波止場に飛び下りてきた。


「遠征軍の兵士を、順次ネア・ポリスに下ろす。差配はお前が取れ」

「はい」


 ベリアルは、ふらりと歩き出した。


「将軍は、どこに?」


 アークフィートは、呼び止めるように訊いた。


「巡察に向かう。カイロサンドリアとの補給ラインが完成次第、北上を開始する。それまでは、全軍をネア・ポリスに留めておく」

「了解です」


 ベリアルは、エルトルトに歩み寄る。


「エルトルト。此度の活躍。真に大儀であった」

「恐れ入ります」


 エルトルトは、恭しく頭を下げた。


「……時に。親衛隊の指揮権は、魔王に直属すると聞く。相違ないか?」

「はい」


「お前の口ぶりから擦るに、上陸作戦の主体はテンプターの兵ではなく、親衛隊であったようだな」

「……指揮系統は、テンプター殿にありました。親衛隊は、モンスタープラントの運用にのみ関与しております」


「であれば、──今後も何とぞ、親衛隊にはモンスタープラントの水やりを御願いする。……と、お前の口から伝えておいてくれ」

「御意。……」


 ベリアルは、エルトルトの背後に立ち並ぶ、10人余りの親衛隊員を一瞥した。彼らは一様に黒いローブを羽織り、足下からは、鉄の脛当てが見え隠れしている。表情は、一切推し量ることはできない。


「……」


 ベリアルは、街の深部へと向かった。



「……」


 ベリアルにとって、血なまぐさい戦場や油臭い廃墟は、初めての経験ではない。むしろ、20年来慣れ親しんできた職場であると言える。

 しかし、青臭い戦場というのは、初めてのことだった。死体のない、死んだ街。戦争で蹂躙された都市というよりも、時に犯された遺跡に近いような気がした。


 大蛇の如き緑の蔦に締め上げられ、のし掛かられ、組み伏せられ、押し潰されたネア・ポリスを巡察したベリアルは、街のシンボル──大聖堂の跡地を訪れた。

 いくらかの魔道士が、屈強な抵抗を試みたのか。大聖堂の周りには、モンスタープラントの魔の手は伸びていなかった。その代わりに、無垢だった白壁は、乾いた血糊と苛烈な矢玉の痕で穢されていた。


「……」


 ベリアルは、扉のない入り口をくぐり抜ける。扉は蹴破られ、金属飾りと蝶番は剥がされていた。彼を迎えたのは、半壊した聖母像と、蹴り倒され、打ち砕かれた礼拝席の残骸だった。彼は木片を踏み分け、破壊を免れた席を見つけ、そこに腰を下ろす。

 そして、息を吐く。


 彼は余計な感情を封殺し、必要な事情だけを考えるように心がける。


(──朗報と凶報は、それぞれ2つずつある。……朗報の1つ目は、無事に上陸を果たすことができたこと。朗報の2つ目は、敵味方の民間人が戦場にいないこと。無駄な損害を抑え、無駄な殺戮を避けるためには、この上ない環境だ)


(──凶報の1つ目は、2つ目の朗報の裏返しだ。……民間人がいない。それは、軍人しかいないという狂気の空間が生まれることを意味している。敵味方、互いに遠慮をする必要がない。目に入った敵は、すべからく殺しても構わない。その手のメンタリティは、戦闘を無用にエスカレートさせる一因になる。結果として、双方が支払う血の量は増大する)


(──凶報の2つ目は……)


 ベリアルは、天井を仰いだ。


「……怒りは無謀を以て始まり、後悔を持って終わる。か」


 ベリアルは、その昔に読んだ、伝記の一節をそらんじた。

 そして、腰を上げた。


(──ロムルス・ポリスを制圧し、魔力異常が終息すれば、その時点でこの戦争は終結する。それまでの間に、無駄な戦闘を控えれば、自ずと流血は抑えられる)


 ベリアルは、大聖堂を後にした。

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