196 家族写真

「……あ、それの話?」


 琴葉の名前が出たので、てっきり置いてある昔の参考書や問題集のことを言われているのかと思ったが、コンテンツ観賞記録ノートのことだったらしい。


 すると、そこで中野が姿勢を少しだけ正して体の角度をずらし、手元のスマホを見せる。どうやら見てもいいということらしい。いや、見ろということかもしれない。


 しかし、ポジション的に俺は彼女の後ろ。スマホ画面を見るにはかなり近づいたうえで、上から覗き込むことになる。つまり、ちょうど鼻先に彼女の後頭部が来る感じだ。日頃から丁寧に手入れされていることがわかる艶やかで長い黒髪は、もともとこの部屋の中にいいニオイを振りまいているのに、至近距離になるとさらに容赦なく鼻腔へと流れ込んでくる感じ。


 軽く息を止めつつ、後ろから覗き込むと表示されていたのは写真。勉強机の下を中心に並べてある、コンテンツ観賞用ノートたちが写っていた。


「いつの間に……これ盗撮だろ」

「若宮くんの許可を得ていないから盗撮には当たらないと思うけど」

「日本語が無茶苦茶だな。弱いとかのレベルじゃないぞ……で、いつ撮ったんだ?」

「琴葉がお泊まりしたときよ。若宮くんが琴葉をお風呂に連れて行っている間に、布団に残った琴葉の残り香をかごうとしているときに偶然見かけて」

「残り香のくだりめっちゃ気になるけど今は一旦置いておこう」


 俺は凹型のイスに座った。中野はなおも、なぜか意味ありげな目つきのままで、微笑ましそうに笑っている。


「若宮くん、妙に冷静ね。私が勝手に覗き見たのに」

「べつに隠してるワケじゃないからな。あんなのただの感想だし石神井よく読んでるし」

「……あ、そうなんだ?」

「うん。もしかしてしてやったりとか思ってた?」


 そう尋ねると、中野ははぁ……とため息をついた。落胆を隠さない、というか隠す気のない態度である。


「なんだ。つまんない……」

「残念だったな。もし俺が設定ばっか書いた中二病なろう系異世界ファンタジーを書いてたらウハウハだったろうに」

「そうだったら永遠にイジってイジってこすり続けたでしょうね……」

「やめろ怖い」


 中野の声色がマジだったので、俺もマジな声が出た。設定だけ書いたノートを見られるとか、心に与えるダメージが大きすぎるだろ普通に。


 しかし、問題はそのあとだった。


「でも、まあノートの中身は面白かったけど」

「えっ?」


 中野がそんなことを言ったのだ。


 俺が思わず聞き返してしたのは言うまでもないことだったが、彼女は丁寧にもこう続ける。


「感想だけど、細かい分析とかストーリーの改善点とかあって面白かった。若宮くん、勉強できるだけあるなって。あと役者をしているとどうしても演技に注目してしまうから、『ああ、こうやって観る人もいるんだ』って思えたのもあったかな」

「……そうなんだ」

「ま、若宮くん自身が面白いから、その意味での驚きはなかったけどね」


 そう言うと、中野はチラッとこっちを見て、優しく笑った。


 その仕草には俺への気遣いやサービス精神のようなものは感じられず、本当にそう思っていることがわかって、俺としては混乱してしまう。


「んーっ……!!」


 そして、話が終わったかのように中野がイスのうえで背伸びをする。彼女らしく、ずっと喋っているので気付かなかったが、疲れこそ見えないものの、元気ではない感じだった。イベント仕事で忙しかった夏休みの疲れが抜けていないのかもしれない。


 なので俺は尋ねる。


「最近また忙しいのか?」

「そうね。来年1月クールの作品のオーディションが始まっていて」

「あ、もうそんな時期なんだな」

「ちなみに明日もあるわ」

「え、土曜なのに?」

「最近結構多いのよ、土日のオーディション。アニメの制作本数が多いせいで、きっと平日にスタジオがおさえられなかったんでしょうね」

「そりゃ大変だな……」

「でも受けられるだけでもありがたいし、文句を言うつもりはないけどね。テープオーディション止まりで、スタジオまで行けないことも普通にあるから」


 これまで何度か書いていることだが、声優はよほどの大御所や原作者による指名などがない限り、アニメではオーディションで役が決まることがほとんどだ。


 そして、複数回審査されることも多く、テープオーディションを経てスタジオオーディションへとつながる。前者は所属事務所にあるスタジオで録った音源でふるいにかけられる系の審査で、中野のような人気声優であっても、ここで落とされてしまうケースも多いようだ。


「もうそんな経つんだな……」


 俺が漏らすように言うと、中野はとくに大事でもないという感じで言う。


「3ヶ月だからね。あっという間よ」


 たしかに前にオーディションラッシュと言っていた時期から、ちょうど3ヶ月経っていた。アニメって1クールが3ヶ月だから、オーディションラッシュもそれくらいの感覚で来るのだろう。高校生の3ヶ月なんてなんの変化も起きないが、こうやって疲弊する中野の様子を見ていると、声優は3ヶ月ごとに就活している感じだな……と思ってしまう。


「でもね、若宮くん」


 その細くしなやかな脚を組みながら、中野が俺をどこか挑発するように見る。


「もとはと言えば、私をここまで忙しくさせたのはあなたなのよ」

「……?」

「だって、あなたと知り合わなければ、私は大学進学するつもりはなかったから。今忙しいのは、来年仕事をセーブすることを見越した結果なの」

「それは……受験、勉強でか?」

「それ以外になにかある? 私が90日間の地球一周自分探しツアーに行くとでも?」

「そういう意味で聞き返したんじゃないけど、まあ琴葉とイチャイチャするって可能性はあるかな、シスコンだし」

「……」

「素で考え込むんじゃねーよ冗談だよ」

「受験をすると決めた以上、手は抜けないからね。完全に声優業を休止するかは不明だけど、いずれにせよ稼げるうちに稼いでおきたいのよ」

「だから今、無理しておこうってか」

「そういうこと」


 なるほど、自分で稼いで暮らしている彼女らしい話だ。


「1月クールは、レギュラー5本を目標にしていて」

「それってもしかして、かなり多いのでは……?」

「今どき5本もレギュラーとれる人はほとんどいないわ。大御所か、超人気声優だけ」

「ほぅ……大変そうだな。受かるのも、受かったとしても」

「そうね、体はたしかにしんどいわ」


 俺の言葉を認めつつ、中野はこう続ける。


「でも不思議と気持ちは前向きなの。今まではなんとなく、自分はこのまま声優として生きていくんだろうなって思ってたけど、大学生になるって決めたことで、新しい目標が出来たというのかな」


 そう話す中野の口ぶりは、実際にやる気に満ちているように感じた。


 決めるまでにはきっと色々思い悩んだんだろうが、決めたあと、行動に移すのははやい。それが彼女なんだろう。はっきりした口調に、もう迷いは少しもなかった。


「まあでも、無理して体壊さないようにな」


 すると、中野はフッと笑う。


「私を誰だと思っているのかしら、若宮くん。もう10年以上、仕事を学業を両立しているのに」

「……そうだな。余計な一言だったな」


 そう言うと、中野はふたたびスマホへと視線を戻す。


 だから、俺も視線を別の場所に移したワケだが……そうやって周囲をぐるっと見回していると、窓の横に複数の額縁があるのに気付いた。そのなかには写真が入れられている。家族写真だ。


 あるものは中野の両親らしき人と、まだ幼稚園児のときの朋絵さんの写真。その横の写真は中野らしき赤ちゃんを抱く朋絵さんとそれを横で見守る両親の写真で、そのまた横には琴葉らしき女の子を抱く中野とそれを横で見る朋絵さん、両親……というふうに、かつての中野家の様子がおさめられていた。


(もしかすると、中野がこの部屋で台本を読んだり、リフレッシュするのは、防音とか好きなものに囲まれてるとか、そういう理由だけじゃないのかもしれないな……)


 俺はそんなふうに思いながら、本棚に並んだマンガやラノベを物色し始めたのだった。

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