194 朋絵のバイト事情

 そんなこんなで中野家にプリントを持っていくことになった。ここ最近、こんなんばっかりな気がするが、もともと高校入学まで友人どころか、知人すらほとんどいなかった俺だ。きっとそれまでに経験すべきだった分を今、回収しているのだろう。そうじゃないとこの無償労働を納得させることができない。


 溝の口駅を通り抜け、俺は歩いて中野家へと向かった。本当なら東急田園都市線に乗って、梶が谷駅で降りるのがはやいのだが、定期圏内ではないので歩くことにしたのだ。9月になったとは言え、長い坂道にはまだまだ夏のニオイが残っており、夕陽がそれなりの威力で照りつけてくる。


 そんなふうにして中野家に向かう、ちょうど3分の2くらいのところに差し掛かった頃だろうか。


「あれ、若宮くん?」


 女性の声が俺を呼び止める。呼ばれた方向を見ると、ゴルフウェアを着た朋絵さんの姿があった。正確に言うと、ピンク色のタイトなポロシャツに、チェック模様のスカート、そして膝丈のソックスという出で立ちである。


 場所は中野家に行く途中にあるゴルフ練習場。の入り口付近。朋絵さんはじょうろを持って、花壇や植え込みに水を撒いているようだった。


「その服……もしかして朋絵さんですか?」

「え、なんで今、服で私って判断したの? むしろこういう服装、家でしてたことないよね? 顔で判断してよ顔で」

「もしかしてバイト中ですか?」

「そう。遊んでるように見えた?」

「いえ遊んでるようには見えないですけども……バイトしてるって言ってましたけど、ここだったんですね。てっきりもっとオシャレな感じの店かと」

「あ、それちょっと嬉しいかも」


 朋絵さんがふふッと笑う。


「大学入ってからずっとここ。他にもやってたことあるんだけど、働くの大変だし行くの面倒だしってことで、いつの間にかここだけになったんだ」

「すごく消極的な理由ですね」

「でもやっぱ楽って大事だよ。ここは徒歩3分走って1分だしシフトの融通効くし、あと仕事って言ってもおじさんの相手するくらいだから」


 最後のおじさんのくだりだけ、2オクターブくらい下げて朋絵さんは言う。わざとなのはわかるが、ニッコリ笑顔なので普通に怖い。


「あー、朋絵さんっておじさんウケ良さそうですもんね」

「そうそう。私ってわりとゆるふわな女子大生って感じだけど、話すと意外と気さくだから人気出ちゃうんだよね」

「なんかもう清々しいな」


 そんな話をしていると、入り口の自動ドアが開いて、中からゴルフバッグを持った、おじいさんの手前くらいのおじさんが出てきた。


「おぅ、朋絵ちゃん水やりか!」

「そーなんですぅ! 私の担当なので。山下さんはもう帰っちゃうんですかー?」

「あんまり長居するとカミさんが怒るからな」

「あら奥さん想い! 素敵です……私も山下さんみたいな奥さん想いな男の人と結婚したいなあ」

「こらこら、年寄りからかうんじゃないよ。じゃ、また明日な!」

「はい、お気をつけて~!!」


 おじさんが車に乗り込んで去って行くまで、朋絵さんはニッコリ笑顔で手を振り続けた。その様子は彼女の普段の姿を知っている俺から見ても、なるほどかわいい。男ウケというより、おじさんウケしそうなのがすごく伝わってくる。


 と、そんなことを想っていると、朋絵さんが俺のほうを向き、悪い笑顔を見せる。


「ま、こんな感じのバイトかな?」

「いや、それ絶対募集要項とかに書いてないやつじゃないですか……」


   ◯◯◯


 その後、朋絵さんがちょうどバイトが終わる時間だったことが判明し、俺は彼女と一緒に帰ることになった。本当は野方先生から託されたプリントを朋絵さんに託したい気分だったのだが、「せっかくだしおいでよ」と言われ、断れず……という流れであった。


 玄関に入ると、中野がいつも履いている靴が、先程まで履いていたという感じで並んでおり、つまり整えられずに置かれていた。


 しかし、リビングに入っても、空気清浄機と除湿器が小さな音を立てているだけで、中野・琴葉の姿はともに見えない。


「あれ、いないっすね。いる気がしたんですけど」

「琴葉はたぶんスーパーに買い物に行ってるんだと思う」

「たしかそんな家事分担でしたね」

「で、ひよりちゃんはいると思うよ。さっき、靴あったかかったし」

「いや、なんですかその刑事が犯人のアジトに踏み込んだみたいな発言」

「この時間に家にいるってことは資料部屋だな。自分の部屋じゃなく」

「資料部屋?」

「またの名を書斎と呼ぶ」


 そう言われ、俺は脳内で検索をかける。


 で、いつの日か、中野が家に資料部屋があると話していたことを思い出した。


「あの2階にあるっていう?」

「そっか。若宮くん、まだ入ったことないんだね」


 俺の言葉に対し、朋絵さんは地味に驚いた表情を浮かべる。


 入ったこともないし、よく考えれば階段をのぼったこともまだなかった。中野家にはもう何度も琴葉に勉強を教えるために足を運んでいるが、俺が到着する頃には琴葉・香澄のふたりが準備を済ませてリビングで待機していたので、2階にあがる必要も機会もなかったのだ。


 すると、朋絵さんがいたずらっぽい笑みを浮かべ、肩を俺の肩に軽くぶつけてくる。


「行っておいでよ」

「いいんですか、勝手に入って」

「許可は私が与える」

「信用できないやつですね」

「責任は私がとる」

「余計に信用できない」

「まぁそれはさておき、楽しいと思うから」


 ね? と小さく傾けられたその首の角度は、かわいらしさと断りにくさを絶妙に両立しており、俺は天井を見上げるしかなかった。

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