191 琴葉の夏1

 問題が一応の解決を見せ、俺たちは解散。


 俺が自宅マンションにたどり着いたときには、もう夜の19時だった。


「ヤバい、ごはん作らないと……」


 たしか絵里子、今日は病院の日だったはず。暑いからサボった可能性もあるけど、もしちゃんと行ってたら、今ごろ疲れてバタンキューしているはずなので、なるだけはやく作ってやらないといけない。


 そんなことを思いつつ、玄関のドアを開けると、なかからなにやら美味しいニオイがしてくる。


「あれ……」

「あ、そうちゃんお帰りっ! 遅かったね」


 キッチンで絵里子が料理を作っていた。鍋に茶色いものがはいっており、よく見ると、いやよく見なくてもニオイでわかる。


「カレー……?」

「そう。病院の帰り道にスーパー寄ったの」


 その言葉を聞き、俺は絵里子のおでこに手をあてる。


「ひゃあっ! なになにっ!?」

「……絵里子、体調悪いのか?」

「いやなんで。体調いいからお料理してるんじゃん」

「いやいや熱がなくて料理なんてしないだろ、絵里子の場合」

「ちょっとー! そうちゃんにとって私ってなに!?」


 と、またしても彼女のような言葉を発したのち、


「まー、でもそう思われるのもしょうがないよねー。お母さん、ちっともお母さんらしいことしてこなかったし」


 と、絵里子はクスッと笑う。


「体調悪くないのはホントなんだな?」

「うん。まあ、作ったのカレーだけどね」

「そうか……」


 まさかの展開に、俺の思考はフリーズ寸前だった。だって絵里子、もう10年近く料理なんて作ってなかったんだぜ!?


 実際、体調がずっと優れてなかったから仕方なかったし、俺自身、それを不満に思ったこともなかった。そういうものとして、諦めて受け入れてたから。だからこそ、絵里子が料理を作ったということに、俺は驚かざるを得なかったのだ。


 そうして食べたカレーは点点正直言って、普通のクオリティだった。


 しかし、俺にとっては絵里子が自分で料理を作ったことが重要で、普通にこ○まろの味なのに、神保町の古書店街の奥にある名店で食べたような旨さを感じてしまう。そんなカレー屋、一軒も行ったことないのだけど。


「うう……アカン、涙が出る……」

「そうちゃん、そんなにマズかった?」

「いや、美味しくて……絵里子がまさか自分で料理を作る日が来るとは」

「美味しいのは嬉しいけど、でもそれを息子に言われてるってのは、母親的にはちょっと傷つくかも……」

「あ、いや、そんなつもりじゃ」


 慌てて弁解しようとするが、絵里子はすぐに笑顔に戻り、


「うそうそ! じょーだんだよっ!!」


 と言いながら、俺のほっぺに手を伸ばす。どうやらお米つぶがついていたようで、なにも言わず、絵里子はそれをパクンと食べた。だから彼女かって……。


「それよりそうちゃん、今日はどこ行ってたの?」

「どこ? いや、べつにどこってワケじゃ……」


 急な質問だったため、返答を用意していなかった俺は困ってしまう。でも、琴葉をいじめてきた相手を……とか言えないよな。言ってもいいかもしれないけど、琴葉に許可とったワケじゃないし。


「んー、まあ石神井と会ったりしてた」

「じつは見ちゃったの……公園で琴葉ちゃんとか香澄ちゃんとかとも一緒にいるところ」

「えっ……」

「前に琴葉ちゃん言ってたでしょ、学校に通ってないって。それだったのかなって」

「……」

「図星、なんだね」


 言葉はなにも言っていない。しかし、態度で正解だと告げてしまう。 


 まさか、こんなところに目撃者がいたとは。引きこもりなのに、なんでそういうとこは遭遇しちゃうんだよどんな確率だ。


 正直、琴葉の了承を得ずに話すのは気が引けたが、でももう、これってしょうがないよね……?



   ○○○



「そっか、琴葉ちゃん、そんなことに……」


 俺の話を一通り聞き、絵里子が肩を落とす。


「よくある話だと思うけど、でも、身近な人がそんな目にあってるって、悲しいし辛いし、最悪だよね」

「そうだな……」


 正直、少し前までの俺なら、こういう話を知ったら身を引いていたと思う。中途半端に関わってしまうと、生来のお節介モードが発動して、関わらないと悪いような気になってしまうから。


 でも、ここまで深く関わってしまった今、もう後戻りはできないし、後戻りもしたくない……そう思うのだ。


「そうちゃん、おかあさんになにができることないかな……」

「なにかできることって……俺たち、他人だし」

「うん、それはわかってる。でもさ、ひよりちゃんの力になれたらいいなって思うんだあ。だって、あんなに頑張ってるんだもん」


 絵里子が、真面目な表情で訴える。その顔は、これまで一緒に暮らしてきて、初めて見る種類のものだった。


 と、そんなとき。プルルルル……と俺の電話が控えめな音を立てる。見ると、電話をかけてきた相手は……香澄だった。


「あれ、どうしたんだろう……」


 香澄とは琴葉を入れた勉強会でちょくちょく連絡を取っているため(あの勉強会のあとも何度か開催したのだ)、メッセージのやり取り事態はちょくちょくやっていたが、電話をかけてくるのは初めてだ。


 絵里子にアイコンタクトし、俺はベランダに出る。


「もしもし?」

「惣太郎さん、さっきぶりです。今ちょっとお時間大丈夫ですか?」

「ああ。どうしたんだ。電話なんて珍しいな」

「えっと、ちょっと……解散したあと、琴葉と少し歩いて帰ったんです」

「途中まで方向一緒だったもんな」

「それで、江古田さん? が好きな男の子の話になったんですけど」

「そうなんだ。どんな子だって?」


 本天沼さんのおかげで、一応、話はついた。少なくとも、これで女子から嫌がらせはなくなり、琴葉も少しは学校に通いやすくなるだろう。だからこそ、男女の揉め事の一因だった、相手の男の子については話を聞く必要がない……と思っていたのだけど。


「私、じつはその男の子と知り合いで」

「え」

「というか同じクラスでして」

「同じクラス……香澄って琴葉と学区違ったよな?」

「……明日の放課後って時間ありますか?」


 香澄は俺の問いに答えることなく、そう尋ねたのだった。

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