186 美人女子大生と過ごす夏休みも捨てがたい3

「もしかして、テスト期間中のときのこととか思い出してる?」


 ぱっちり二重で大きな、それでいて聡さを感じさせる朋絵さんの瞳が俺を捉える。


「あー、はい」

「そりゃあのときは、さすがのひよりちゃんも疲れてたと思うよ。1日2時間睡眠とかだったし」

「2時間っ!? 俺、高校受験のときもそこまでじゃなかったっすよ?」

「中間テストでだもんね」


 朋絵さんは苦笑する。姉という立場だが、気持ちだけを言うと俺のほうに共感している……という感じだ。


「……でも、進学校通ってテスト勉強して毎日収録して、もちろんその前には練習もきっちりして、いろんなオーディション受けて土日はイベント出て……ってなると、1日24時間だと足りないんだよ、どう頑張っても」

「だから睡眠時間を削ると」

「うん……いや、違うな。ひよりちゃんがもし、手抜きできる性格ならもっと普通に寝られるかもしれない。Vチェックって言って、アフレコの前に映像をもらって内容を確認することが声優さんにはあるんだけど」


 俺の頭には高寺家で見た台本が浮かんでいた。自分のセリフにマーカーで線が引かれ、余白のところには秒数が書き込まれ、カットがどこからどのタイミングまで表示されるのかわかるようになっていた。きっと、中野もああいう作業をするのだろう。


「あの秒数とか書き込むやつですか?」

「そう、その作業なんだけど」


 朋絵さんはニコリと肯定すると、こう続ける。


「ひよりちゃんは毎回必ずそれに3時間かけるの」

「30分の作品に、ですよね」

「もっと言うと正味21分だね」


 となると、21分に180分かけていることになる。声優的にそれが多いのか少ないのか俺には判断できないが、出ている作品数が多いとかなりの労力になるのは間違いない。


 たしかにそれだけ時間をかけて、収録をして、学校に行ってテスト勉強をして……と考えると、睡眠時間が2時間になってしまうのも無理もないと思った。高校受験前でも体験したことのない、俺にとっては未知の領域だ。


 この時点で正直俺は中野の努力のすさまじさを再確認していたが、朋絵さん的にはまだまだ序の口の話だったよう。頬杖をつき、遠くを眺めるようにしてつぶやく。


「ひよりちゃんが中2のときだったかな。ある日ね、寝る前にトイレに行ったら、書斎から音が聞こえてきたの。あ、うち2階に書斎があるんだけど」

「書斎……初耳です」

「たぶんそのとき12時過ぎたくらいだったんだけど、見たらひよりちゃんが台本をずっと読んで練習してて。私もそのときは浪人生だったから刺激受けて、勉強してたんだけどそのまま寝ちゃってさ。机のうえで。それで朝4時くらいにトイレに起きたんだけど……そしたら、まだひよりちゃんが練習してたの」


 中2の時点で明け方まで練習する……想像するだけで怖いが、中野だと自然に想像できる。それがまた怖い。


「さすがにこれはダメだと思って声かけたんだけど……あの子、集中力スゴいのね。話しかけても全然反応しなくてそのまま部屋に戻ったの。それで朝になってリビングに出たら涼しい顔で朝ごはん食べてて。明け方まで練習してたようには全然見えなくて」

「涼しい顔……ですか」

「そうなると私が今まで見てきたひよりちゃんも、もしかしたら『朝まで練習してたひよりちゃん』だったのかなとか思えてきて。我が妹ながらさ、ちょっと怖くなっちゃって」


 そう語る朋絵さんの横顔には、畏怖にも似た感情が見て取れた。


「ひよりちゃんがスゴいのは、見えないところでも絶対に手を抜かないことなんだよ。だから厳しい声優の世界で10年も売れ続けてる。もちろんこの先、お仕事がうまくいかなくなるときもあると思うけど、その努力だけは否定しちゃいけないなって」

「第一線で活躍し続けるって、本当に大変なんですね」


 哲学堂先生に会ったこともあり、自然とそんな言葉が出る。


「あ、でも言っておくけど私は売れることがすべてって思ってるワケじゃないからね?」

「そうなんですか?」

「若宮くんは違う考えな感じ?」

「……こんな言い方していいのかわかんないですけど……やっぱやるからには売れる、というかある程度の人に認められないと意味ないって思っちゃうというか」

「そりゃあ10年売れ続けてる声優さんはスゴいけどさ。そこは私も否定しない」


 朋絵さんさんは小さく息を吐くと、そう言って俺の言葉を一旦肯定。


「……でも、10年売れてなくて続けてる声優さんもスゴいと思うんだよね」


 柔らかな笑みで、そう続けた。


「実力とか才能とか運があるかはわかんないけど、熱量は間違いなくあるでしょ? この年になると結果どうのこうの関係なく努力してる人はみんな尊敬しちゃうんだよね」


 そんなふうに言われると、たしかに努力そのものが尊いと思えてくるから不思議だ。


 いや、尊いと思えてくるんじゃない。努力そのものが尊いんだ。


「もしも今後、ひよりちゃんのお仕事の調子が悪くなってお仕事が減ったとしても、あの子の努力とか歩んできた道を否定するつもりもないの」


 そう言って、朋絵さんはニコリと微笑んだ。


 そこまで理路整然と説明されてしまっては、俺には縦に首を振る選択肢しか残っていなかった。きっと彼女のなかで何度も何度も咀嚼し、反芻し、出された持論だったのだろう。ある意味、売れっ子声優の姉という立場が生み出した考えかもしれない。


 ……とそんなことを思っていると、朋絵さんがどこか悲しげな表情に変わっていることに気付く。


「私、就活これからだけど夢とかもないし、しょーじきそこまで仕事に打ち込むタイプじゃないのかなって。ひよりちゃん見てると思っちゃうんだよね」

「わかんないじゃないですか、実際に働いてみないと」

「それはそうだけど。でも私、夢とかないからさ。ひよりちゃんと違ってすぐ楽な方向に逃げるし。うまくなるのは男の人への甘え方とレポートのコピペ感を減らすテクニックだけだよ……なんてね?」


 冗談っぽくそう述べると、朋絵さんは首を小さくかしげる。どこか声も舌足らずな感じになっており、たしかに甘えられた感がある。これはかわいい。


「ほとんどの人はそうだと思いますよ。それに俺は手を抜くのが悪いとも思いませんし。好きなことに向き合うからこそ身も心もボロボロになる……みたいな人もいそうですし。わかんないですけど」

「そうかなあ。でもまあ、そうだよなあ……」


 それなりに納得した感じの口調だったが、不安げな表情は変わらぬまま。それは俺にとっても親近感を感じさせる姿であり、大学生でも同じような悩みを持つんだな、などと思ったりもする。


「まあ、私にはひよりちゃんみたいな向上心はないのですよ。だから、できれば仕事はほどほどにしてさ、好きな人を支えて笑顔で送り出したり、笑顔で迎えたりする生活がしたいなあって」


 そこまで言うと、朋絵さんは明るい表情を取り戻し、おどけた口調で言う。


「つまり、将来の夢はお嫁さんかな?」

「急にゆるふわ女子大生みたいな話になりましたね」

「みたいなって言うか、私ってもともとそうでしょ? ちょいちょいデートしてるし」

「前から思ってたんですけど、朋絵さんってちょくちょくモテるアピールしてきますよね?」

「まあね。モテちゃうからね。若宮くんは女の子と遊んだりしないの?」

「しないですよ……」

「あら、そうなんだ。でもまあ、若宮くんはまだ高校生だもんね。私だって、男の人と遊ぶのは……中学生からあったか」

「……」

「あ、意図せず傷つけちゃった? でも中学生って言っても2年だからね?」

「……」

「あ、余計に傷ついた。ごめんねっ?」


 そんなふうに言いつつも、朋絵さんに悪気はなさそうで無邪気と小悪魔のちょうど中間のような笑顔を見せる。こういうイタズラっぽいところも、男性ウケしそうだな……などと思いながら、俺はすでに冷め切ったスープの残りをれんげで掬い、喉の奥に流し込んだのだった。

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