179 可容の過去1
「桃井さんっ!!」
崖の下を見ながら、中野が大きな声で叫ぶ。パジャマのズボンが汚れるのも厭わず、膝をついて身を乗り出していた。
「おいっ、大丈夫か! どこに落ちたっ??」
「若宮くん、どうしてここに……もしかして今の話」
「それはあとだ。可容ちゃん、どの辺に落ちた?」
「可容ちゃん……あ、あの辺り!」
中野が指さす先を見ると、ちょうど可容ちゃんが海から浮き上がってきたところだった。ちょうど俺たちの位置から、月の光が反射して見える場所に浮かんでいる。俺と中野が今いる崖の上から、15メートルくらいはありそうだ。
「ぷはぁ! やばい、落ちゃった!!」
大きな声で、下から可容ちゃんが叫ぶ。着ていたワンピース型のパジャマが海の中で広がり、くらげのようにたゆたう。銀色の髪もあいまって、人魚のような神聖さが自然と醸し出されていた。
「大丈夫か!?」
「え、なんでそうちゃんいるの!?」
「だからそれはあと……ケガはない?」
「大丈夫! 落ちても平気なとこにいたから」
可容ちゃんはどこか自慢げに言う。あ、たしかにそんなこと言ってたな……。
「そっか。なら一安心」
「あっ! でもっ!」
「今から下に降りるから流されないようにして待ってて!」
「じつは私っ! カナ、ヅ、チ……」
そう言うと、可容ちゃんは急に海水を飲み込み、手足をバタつかせ始めた。アニメのようなキレイな溺れ方だった。
「えっ、ウソ」
「おいマジか!」
中野と俺がそれぞれ反応するが、そうしている間にも可容ちゃんのばたつきは弱くなっていき、体が少しずつ沈み始める。
「誰か、助け呼ばないと」
「ダメだ、それじゃ間に合わない!」
「じゃあどうするって」
「俺が行く」
そう言うと、俺は崖から海に向かって飛び込んだ。もはや冷静な思考はまったく残っていない。
一瞬の宙に浮いたような感覚のあと、重力に従って海面へと近づいていく。夜の海は近づけば近づくほど暗く、一枚の黒い鉄の板のように思え、途端に恐怖心がわき上がってきて……
ドボン!!!
鼓膜に音の圧を感じながら、恐怖心をぬぐい去ることもできないまま俺は着水した。
夜の海は思いの外ヒンヤリしており、一日分の日焼けと気分の高まりで熱くなった皮膚を冷やすように俺を包み込む。幸いにも波はほとんどなく、泳ぎに支障はない。
俺は可容ちゃんがおぼれた場所に近づくと、息を深く吸い込んで頭から潜る。慣れない海水の刺激に目が一瞬痛くなるが、それでも手を動かしているとなにか触れた感触があった。目をこらすと間違いない、可容ちゃんだった。海面から1メートルほどのところで、目をつむって、口を開けたままでいた。
俺は彼女の体を掴むと、一気に海面へとあがっていく。
「ぷはぁ!!! はぁはぁ……」
たった十数秒ほど潜っただけだが、心の準備をしていなかったせいかすでに息は切れている。だが、今はそんなことはどうでもいい。
「可容ちゃん! 大丈夫か!!」
声をかけるが、彼女は反応しない。顔にかかっていた濡れた髪をどけると、目はつむったままだった。
「若宮くん、こっち!」
声がした方向に視線を移動させると、近くの砂浜のうえに中野の姿があった。俺が海に飛び込んで可容ちゃんを探している間に下に降りたらしい。
潮の流れに逆らいつつ、砂浜の一番近いところまで必死に泳いで、なんとか可容ちゃんの体を横たえる。普段あまり運動をしていないせいか、もうすでに全身が痛かった。いくら薄手のパジャマ姿でいたとは言え、着衣で泳ぐのは想像以上に大変で、なおかつ可容ちゃんの体を抱えるために片手がふさがれていたというのもあった。
と、そこで中野が駆け寄って来る。普段は冷静沈着な彼女も、さすがに動揺しているのか、いつもより声に熱がこもっている。
「桃井さんの様子は?」
「わからん。意識ないかも」
「桃井さん、聞こえるかしら!」
中野はそう呼びかけると、可容ちゃんの口元に耳を近づけたのち胸部と腹部を確認。
「息してないわ」
「え、マジか」
「若宮くん、学校で心肺蘇生法習ったよね? 覚えてる?」
「え、えっと」
「今から私がやるから見てて。途中で交代してもらうかもだから」
「わ、わかった」
俺が同意を示すと、中野はすかさず可容ちゃんの胸に手を当てて「1、2、3……」と声を出しながら押していく。
そして、可容ちゃんの鼻をきゅっと摘まむと、そのままなんの躊躇もなく口づけた……のだが、中野の長い髪の毛がはらりと落ち、意図せず俺の視界を遮る壁になる。
「んっ……」
すると、中野は小さく甘い声を出したのち、器用に片手を使って髪をかきあげる。髪の毛が邪魔しているのに気付いたようだ。髪がその細くて長い首の反対側にまとめられると、ふたりの口づけが俺の視界のなかに入ってくる。口づけの際に触れたせいか、中野は唇をしっとりと濡らしており、くぼんだ頬が吐息の多さを感じさせた。
と同時に、中野は俺のほうを真剣な目で見ており、それは先程の宣言通り、疲れた際の交代要員として見ておくようにと言われているのもわかった。
中野は小さく息を切らしつつ、口を離すと、ふたたび心臓マッサージを始める。汗なのか可容ちゃんの皮膚を経由してついたのかわからない水滴が、その色白な首筋を伝い、Tシャツの首元を通って胸元へのしたたり落ちていく。
「要領思い出した?」
「ああ。いつでも交代の準備はできてる」
「……」
「いや今のは深い意味ないぞ」
「わかってる。こんなときにそんなこと言う人じゃないのは知ってるから」
そんなことを中野が言う。緊迫感にあふれた場面のはずなのに、緊張感のないことを言ってしまうことに、俺たちの普段の関係性がうかがえる。
だが、俺がいつでも人工呼吸交代の準備ができていたのは事実だった。可容ちゃんを死なせるワケにはいかない……。
「ごふっ」
などと思っていると、前触れなく可容ちゃんが海水をはき出した。中野はすかさず彼女の体を横向きに回転させ、そのまま背中を叩いて水を吐き出させていく。
「桃井さん、聞こえる?」
中野が話しかけると、可容ちゃんの口元がわずかに動き、目がゆっくりと開いた。
「あれ……鷺ノ宮ちゃん……」
「良かった。意識が戻ったようね」
「あれ、私……そっか、海に落ちて溺れて……ごめんなさい、鷺ノ宮ちゃん」
「いいの。助けてくれたのは若宮くんだし」
「若宮くん……あれ?」
そして、可容ちゃんの瞳が俺をとらえる。
「ね、そうちゃんなんでここに? あ、そういや溺れる前も……」
「あー、それはですね……」
救助に夢中になるあまりすっかり忘れていたが、ふたりの話を盗み聞きしていたというのは、まだ話していないことなのだ。
「鷺ノ宮ちゃんと話してたはずなのに……服濡れてる。そうちゃんが泳いでここまで?」
「んと、それはだな……」
今となっては、正直に打ち明けられないことではないとは思う。可容ちゃんの命を救えたのだから、どんな謝罪だって甘んじて受け入れるところだ。
しかし、さすがに状況がいろいろ急すぎて、説明するにも言葉の準備も気持ちの準備もできていなかった。
「おい大丈夫か! どうしたんだ!」
そんなふうに、なんと答えていいものかわからず戸惑っていると、道路側から人の声が聞こえてきた。同じユニフォームを着た筋肉質な、俺たちと比べて少し年上の男性たちと、腹の出たおじさんの姿が見える。道路沿いには、無数のロードバイクと白い軽自動車が停車していた。
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