177 岸壁での密会1
深夜の海沿いは、昼間に比べて波の音が大きく感じられた。きっと車通りが少なくなっているせいだろう。ざーっ、ざーっという規則的な音が、耳の鼓膜に打ちつけるように寄せては返していく。
あるいは、ここが暗いことも影響しているかもしれない。都心に比べるとこの辺は電灯の数もそこまで多くなく、またそれ以上に民家が密集していない。そうやって視覚で得られる情報が少ないからこそ、聴覚が普段以上に活用されている感覚があった。
とはいえ、しばらく歩いていると暗さに目が慣れていき、月の光が海を照らしているのがわかってくる。一日かけて温められたアスファルトの熱がサンダル越しに足裏へと伝わってきており、生ぬるい海風に吹かれて飛んできた砂が脚に当たった。
(深夜のコンビニ……か)
もし高寺の言うとおり、ふたりが買い物かなにかに出たとして、俺としてはなぜあのふたりが深夜に一緒に行くのかわからなかった。いくら中野が以前に比べて心を開き、可容ちゃんと仲良くしたいと思っていたとしても、いきなりそんな近い距離感を好むようには思えなかったからだ。
(となると、やっぱり可容ちゃんが誘ったんだろうな……)
まあ、普通に考えてそうだろう。業界歴は可容ちゃんのほうが短いけど、年齢的には1歳上なワケだし、ご存じのとおり彼女はコミュニケーション能力も高い。人の心を掴む、魔力のようなモノも持っているとすら感じる。
しかし、そうだとしても、そんな提案を中野が受け入れたというのは驚きだ。まあ、もしふたりが本当にコンビニに向かっていたらという話なんだけどさ。
10分ほど歩くと、高寺が言っていたと思わしきコンビニに到着……だが、中をぐるっと一周してもふたりの姿はなかった。
(あれ、もしかして行き違いになったか……?)
仕方ないので、俺はスポーツ飲料を買って、別荘へと帰ることに……しようとしたのだが、海の方向を見ていると、どこかで見たことのある景色が広がっていることに気付いた。 そしてその数秒後には、それが危ない場所として知られた崖だとわかる。別荘までのバスのなかで高寺が「危ないから行っちゃいけない」と言ってて、インスタ映えを目的に写真を撮りに行って転落する若者が相次いでいるという、あの崖だ。
(へえ。意外と近かったんだな……あれ?)
そんなことを胸のなかでつぶやいた俺だったが、暗闇のなかでなにかが動いたことに気付く。目を凝らすと、崖のうえに人影が見えた。ゆっくりと歩いており、先端付近へと進んで行っているのがわかる。
「おい、危ないぞあんなとこまで進んだら……」
明るい時間でも危ないのに、この時間だともっと危険なはず。夜景目当ての観光客だろうか。いずれにせよ注意しないといけない。
足下をスマホで照らしながら、俺は岩場をゆっくりと歩いて行く。ガタガタしているだけでなく苔に覆われている場所も多く、またサンダルを履いていることもあって、油断すると足が取られそうになる。
「あっ……」
足下に注意を奪われすぎたせいで、スマホが岩場に当たって近くに落下した。拾おうとして腰をかがめたそのとき。
「うわぁ、高い……海が黒くてよく見えないね」
少し高めで、空気の通りの良い、それでいてかすれた雰囲気もある甘い声……一言では形容できないその声はそう、可容ちゃんのモノだった。
(え、なんでここに可容ちゃんが……)
事態が飲み込めず、俺は停止する。スマホを取ろうとしゃがんでいたこともあり、意図せず岩場に隠れる形になった。パジャマにパーカーだけ羽織った彼女は、月の光を受けて幻想的に輝いていた。
「そんなに身を乗り出したら、落ちちゃうわよ」
程なくしてもうひとつの声が聞こえてくる。
湧き水のように澄んだ、透明感にあふれた声。と同時に夜の海のように、底知れぬ深さを感じさせる声。もちろん、中野の声だ。
「大丈夫。落ちてもケガしないように下が岩場になってないところにしてるから」
「落ちることまでは想定済みなのね」
「人生、なにが起こるかわからないからね。たとえばこんなふうに、鷺ノ宮ちゃんのほうからお散歩に誘ってくれることもあるワケだし」
誘ったのは可容ちゃんではなく、中野だったようだ。
と、そんな新事実を知りつつ、俺は自分に問いかける。どうしようこの状況。
急に入って行くと驚くだろうし、そんな雰囲気でもないし、でもここにいても立ち聞きみたいで悪いし……。
数秒間の思考の末、俺はその場からひとまず離れることにした。危ない岩場と言えど、ふたりでいるし大丈夫だろうと考えたのだ。
しかし、そーっと後ろを向いて立ち去ろうとしたそのとき。
「桃井さん、聞きたいことがあるのだけど」
「なにかな、鷺ノ宮ちゃん」
「今朝、話したでしょ? 私たち、会ったことがあるんじゃないかって話。思い出したの。私たちが会ったのは、スタジオでもラジオ局でもなく……お葬式だったって」
お葬式。
耳に入ってきたその単語が、理解できなくて一瞬思考が止まる。
「え、なんの話? お葬式って?」
「私が14歳、あなたが15歳のとき。ちょうど3年前ね。誰のお葬式かと言うと、私がお世話になっていた清水監督のお葬式よ。私が声優として売れて、食べていけるきっかけになった『反省文の天才』の監督のね……あなた、清水監督の娘さんよね?」
その問いかけに可容ちゃんは答えない。
いつの間にか荒くなった波が岸壁に当たり、大きな音を立ててはじけた。
○○○
『反省文の天才』は、中野がヒロイン役を演じて大きな話題になった作品だ。
放送当時、中学2年生だった俺は可容ちゃんとの一件があったり、絵里子が観るのを嫌がったりで視聴できておらず、また中野と知り合って仲良くなってしまい、変に意識して彼女の出演作品が観られなくなってしまったこともあって未視聴だが、大ヒット作かつ名作として知られており、ファンも多い。
中野に拉致される形で初めて訪れたアイアムプロモーションでもそのポスターが貼ってあったし、観ていないことを本天沼さんと高寺になかば責められたこともあった。ここ最近、中野の勉強のサポートだけでなく、幸四郎氏の一件や琴葉の宿泊、高寺と琴葉の仲直りなどいろんなことに関わっていて存在すら正直忘れていた。
なお、記憶では『反省文の天才』の監督は、本作を完成させたところで急逝。最終回まで放送されたものの、事情が事情なだけにイベントも行なわれず、作品は伝説的な存在になった……というふうにも聞いていた。
(その監督が、可容ちゃんの父親だっただと……?)
にわかには信じがたい話だが、可容ちゃんは。
「ふふっ」
いつも通りの、吐息にも似た清楚な笑い声を出したのち、明るい口調でこう語った。
「いやー、バレちゃしょうがない。そうだよ。私のお父さんは、アニメ監督の清水弘文。43歳で惜しまれつつ亡くなった、あの清水監督なの」
「やっぱり、そうだったのね……あの日、たくさんの人が来ていたから私は居場所がなくて、会場の隅っこのほうにいたのだけど、なぜかあなたに見覚えがあって、家族の席にいたなって」
「よく覚えてるね。すっかり忘れてると思った」
「清水監督にかわいくてオタクな娘さんがいるってのは有名な話だったから。見かけたときに記憶に残ったんだと思う」
「そういうことか。お父さん、私のことよく言ってたらしいもんね」
「そっか。あなたが、清水監督の……」
懐かしさと、戸惑いを含んだ声色が、海風に乗って俺の耳にも届く。
今やふたりの姿は暗がりに慣れた俺の目にもはっきり見え、中野の表情は先程よりも困惑を深めているように見えた。少なくとも、この半日抱えていた疑問が解消された表情には見えない。
しかし、である。
(そっか……だから可容ちゃんは、可容ちゃんだったんだ……)
困惑を深める中野の様子とは裏腹に、俺は心のどこかでその真実に納得していた。
俺たちが出会ったとき、彼女はまだ中学3年生だった。にも関わらず中学生とは思えないほどの知識量を持っていた。
それだけじゃない。十分すぎるほど詳しいのに、新しいものに多く触れようとする気持ちは「執念」と呼べるほどのモノだったし、作品を分析的に見ていた。そんなの、普通の中学生にできることじゃない。
(なるほど、サラブレッドだったんだな……そうか、そういうことか)
自然とそんなことを思う。さっきまで緊張でギュッと握っていたはずの手が、力なくほどけていることに気付くと、俺は自分の心を、なんとも形容しがたい黒い感情が染めていくのを感じた。
嫉妬ではなかった。どちらかと言うと、自分への落胆だった。落胆している自分への落胆も含んだ落胆だった。
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