170 ももたその正体2

「……」


 目が覚めると、そこは程よい涼しさを感じさせる薄暗い部屋だった。


 堅いマットレスのうえに横たわっていて、おでこのところには氷嚢が当てられている。それをどかしつつ上半身をわずかに起こすと、薄いカーテンの隙間から隣の部屋が見えた。角度を変えると可容ちゃんが駅員さんらしき人と話しているのが視界に入ってくる。


「そうですか、軽い熱中症……いえ、恋人ではないです。3年ぶりに会った友人で……え、あれくらいで気を失うのはおかしい? あー、でも彼、ちょっと繊細な子なので」


 そんなことを話していた。我ながら情けないので、まだ気を失っているフリをしよう。ここは大人しくしておくに限る。


 ……と思いつつも、俺はチラチラと周囲に視線を送る。ここはどうやら救護室のようで、簡易な医療器具などがその辺に置いてある。のが、電気のついていないこの部屋でも、隣室から漏れる灯りで見えた。


「楽になったら戻っていい……わかりました。いろいろありがとうございます」


 ふんわりとした声が背中越しに聞こえてきたと思うと、ドアが閉まる音がする。きっと駅員さんが出て行ったのだろう。


 そして、俺のところに近づいてくる足音が聞こえてきた。


 続いて、イスを引く音。そこに腰掛ける音。


「そうちゃん、起きてる?」


 尋ねてくる音。3年ぶりに聞いても、やっぱりつかみ所がないなと感じてしまう、幻想的な声の音。背中越しだからこそ、視覚情報がないなかで聞くからこその音。少し高くて、空気の通りが良くて、ふわっとした音。


「起きてる、よね?」


 どうやら、嘘をつく状況ではないらしい。


「うん……ごめんね、俺」

「ううん、謝らないで。今日暑かったもんね」

「暑くて、でスーパーが寒くて気持ち悪くなっちゃって……でももう大丈夫だから」


 そう言って起き上がろうとするが、腕に手が触れて、俺は体を起こすのを止める。


「無理しなくていいから。もうちょっと休ませてもらお?」

「いや、でも可容ちゃんに悪いし」

「ううん。変な話だけど正直、今助かってて。ほら、こうやって背中越しに話せるから……そうちゃんの顔見ちゃうと、私、ちゃんと喋れるかわかんないし……」


 どんな意味を含んでいるのかわからないその言葉を、嬉しさ、動揺、困惑、期待……そんないろんな感情を含んでいるとわかる声で、彼女は語る。


「そうちゃん……だよね?」


 懐かしい声が、ふたたび俺の鼓膜を甘美に揺らす。3年分の甘い感傷が、俺の胸を久しぶりに訪れるのがわかる。


「うん。惣菜の惣に太郎って書いて惣太郎の、若宮惣太郎」

「あ、そのネタなつかしい」

「ネタのつもりはないんだけど」

「そういう返しも懐かしい」

「……可容ちゃん、だよね?」

「うん。マリスプロモーション所属の桃井かよ。2年目の新人声優。可容はひらがな表記で、愛称はももたそって言うんだ」

「うん、知ってる」

「知ってたのに気付かなかったんだね」

「名前までは知らなかったんだ。しかも、桃井……だし」

「そっか。桃井ってのはお母さんの旧姓なの」


 なるほど、そういうことだったのか。


 俺はその愛称の由来に納得すると同時に、中野から聞いていたいろんな噂話を思い出していた。


 たとえば養成所のオーディションを受ける前に、あらゆる声優事務所のあらゆるボイスサンプルを聞いて、自分の声質と似た人がいないところを選んだエピソード。初めて聞いたときは「ずいぶん計算高い人がいるもんだな」と思ったけど、なるほど、昔から聡明だった可容ちゃんなら納得だ。


 でも。


 でも、それでも。


 そんなことがわかったところで、一体なにになると言うのだ。


 俺と彼女が会うのは3年ぶりで、最近こそ日々のコミュニケーションによってだいぶ改善されたと言いつつ、根は話しかけ見知りな俺のことだ。可容ちゃんとこうやってふたりきりで薄暗い救護室にいて、なにをどうしたらいいって言うんだ。


 しかも。


 しかも、俺と彼女はかなり気まずい感じで別れた関係性なのだ。


 いや、別れたとか言うと付き合ってたみたいに聞こえるかもだけど、もちろんそういう意味じゃなく、友人として好ましくない別れ方をしたという意味で。いくら偶発的な理由だったとは言え、当時の俺の幼さ、痛さが原因で別れた関係性なのだ。


「でもホントにさ。久しぶり……だね」


 そんなことを思っている間も、可容ちゃんの言葉は続く。


「うん……3年前の冬ぶりかな」

「そっか……もう3年も経つんだ」


 もはや、どう反応していいのかわからない。その声をどう聞いていいのか、どう受け止めていいのかわからない。


「でもそうだよね。中3だった私が高3、中2だったそうちゃんが高2だもんね」

「うん」

「時が経つのははやいね……」

「うん」

「……」

「……」


 そして、気まずい沈黙がふたりのもとを訪れた。もはや異質な空気感を受け流そうとする言葉はそこに存在せず、ふたりとも、ただただこのなんとも言えない空気感に、胸を毎秒ごとに射貫かれるだけだった。


 そして、気まずい沈黙はしばらく続いて、俺と可容ちゃんは3年の溝を埋められず……


 そうなるのかと思ったそのとき。


「そうちゃん……」


 可容ちゃんが俺の名を呼んだかと思うと、ベッドのうえに乗ってくる。


「えっ」


 予想外の行動だったため、俺は情けない声を出し、彼女のスペースを空けるように……いや彼女から少し距離を取るようにして、後ろにはいつくばる。


 しかし、可容ちゃんの予想外の行動はまだ続いた。その美しい、青色の瞳を涙でいっぱいにしながら、想いを必死にせき止めるかのように結んでいた口をほどくと、


「あのっ! あのときは、ホントごめんっ!!」


 正座の状態で、俺に向かっていきなり頭を下げた。


 つまり、俺に対して土下座をした。


「え……」


 3年ぶりに再会して、少し話をしたかと思うと、いきなり謝罪。


 しかも土下座。


 しかも、場所が駅の救護室。


 当然ながら、俺の人生で初めて経験するシチュエーションであり、


「……なんのこと?」


 戸惑うしかなかった。


 すると、可容ちゃんは顔を少しあげながら、3年前より少し大人びた印象もある、そのアーモンド型の瞳で見上げてくる。


「桜木町であったオフ会のあと、ふたりで会ったでしょ?」

「あ、うん……マックの」

「そう、マックの」


 桜木町。オフ会。マック。


 それらの言葉は、俺の心の鍵穴に的確に差し込まれ、ガチャリと音を立てる。わずかに開いた隙間から空気が漏れるように、一気に想い出があふれ出てくるのを感じる。


「あのとき私、そうちゃんに酷いこと言っちゃったよなって……覚えてる、よね?」


 その問いかけに、俺は深く、ゆっくりとうなずく。


 もちろん覚えてる。


 というか忘れられるはずなどない。


 あの日……俺と可容ちゃんは初めてふたりで会った。アニメやマンガ、ラノベ、映画、小説……色んな話をして大いに盛り上がった。 


 当時の俺は友達らしい友達がおらず、また絵里子の看病が苦しいこともあり、精神的に結構キツい時期だった。だからこそ話が合って知識が豊富な可容ちゃんとの話は大いに盛り上がり、普段なら誰とできないようなマニアックな話をしたのだ。


 しかし、盛り上がりすぎたのが良くなかった。


 普段の俺なら言わないようなこと――「某ラノベは某人気作のパクりではないか」という、ネットで見かけた誰かの意見――を言ってしまったのだ。まるでそれが自分の意見であるかのように。


 そして、可容ちゃんに面白いほど徹底的に論破された。


 理路整然とした語り口で、豊富な具体例を出しながら、オタクらしい早口で、論破されてしまったのだ。


 その結果、それまで自分のことを「それなりにオタク」と信じて疑わなかった俺は「自分の好き度なんかたいしたことない」「俺なんかより作品を深く愛してる人なんかたくさんいる」……などと思うようになったのだ。「好き」という気持ちがどんなものだったのか、すっかりわからなくなってしまったのだ。


 なのに。


 なのに、なのである。


 彼女は3年の時を経て、俺に謝ろうとしているのだ。


 そう書くと、俺がまるで「もっとはやく謝ってほしかった」と思っているかのようだ。だけど、それは違う。全然違う。


 俺は可容ちゃんのことを恨んだりしていない。彼女があの日語ったことはどれも正論だったし、自意識が芽生えたばかりのオタクにありがちな調子乗りな行動をしてしまった俺が悪かったのも間違いない。可容ちゃんの語った内容が、正論だからこそキツかったというのを考慮しても。


 だからこそ。


 俺はたしかに心に傷を負いはしたが、それでも可容ちゃんを恨んだり、謝ってほしいと思ったことは一度もなかったのだ。むしろ、早い段階で調子に乗れなくしてくれたことに、感謝してもいいと思っているくらいなのだ。


 しかし、である。


 可容ちゃんは今、真剣な表情で俺のことを見上げている。


「あのとき、そうちゃんを追い込んだじゃない? 何個も何個も具体例出して理詰めで……あの日のこと、ずっと後悔してたの」

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