163 円との早朝練習1
子供の頃、と言っても世間的にはまだ子供と分類される俺だが、少なくとも精神的にもっと子供だった頃。
俺は夏休みをはじめとする、長期休暇が楽しみで仕方がなかった。
べつに夏のレジャーができるとか友達と遊べるとか、そういった理由ではない。そうじゃなく、単純にいつもより多く本を読んだり、マンガを読んだり、映画を観たりすることができる……というものだ。
もちろん、たまに映画館に行ったり本屋に足を運んだりとかはあるんだけど、結局、普段と同じ過ごし方をしているのが好きなんだよな。
いつだったか、いつしか新潮文庫の「夏の100冊」を夏休み期間に全部読めるか挑戦したこともあった。この企画は新潮文庫が毎年夏にやってる企画で、べつに夏休み期間中に読むことが推奨されているワケでもなんでもないのだが、ただ個人的な「読み切れるかな?」という好奇心から挑戦することになったのだ。
結果、読み終えたのは100冊。そう聞くと、多くの人は「あ、じゃあ全部読めたんだ」と思うかもしれないが、じつは残念ながらそうではない。新潮文庫「夏の100冊」はなぜか毎年100冊以上のエントリーがあり、それを知らなかった俺は100冊を読み終えた時点で心が折れてしまったのだ。
ここで本当の読書家なら、101冊以降も読み続けただろうが、ほどほどで満足してしまうのが俺という生き物である。1万回やってくじけそうでも1万1回目でなにかが変わることがあるとしても、区切りの良さを重視して1万回でくじける……とかまあそういう几帳面さもあるのかもしれない。
と、そんなことはさておき。
とにもかくにも、俺にとっ長らくて夏休みというのは、ずっと家の中にこもってコンテンツ観賞に勤しむ期間だったのだ。
だが、去年は石神井に誘われときどき外出して、今年はと言うと。
「あー、もう無理! 限界!」
そう言いながら、俺は青々と生い茂った草のうえに倒れた。
息があがって呼吸が荒くなっているせいで、しめりを含んだ土と、苦みすら感じさせる青々しい草のニオイが、鼻腔に流れ込んでくる。
「若ちゃん、もう限界なの?」
そう言って上から覗き込んでくるの赤茶色の髪の女の子。俺の狭い交友範囲のなかで、運動が好きで朝から俺を誘ってきて、この髪色の子は……そう、高寺円の他にいない。
彼女が太陽を遮る形になり、目を開きやすくなって見上げる。NIKEのTシャツに薄手のパーカー、ショートパンツにスポーツタイツ、頭はキャップという出で立ちだった。日焼け対策はばっちりだが着込んでいる分だけ暑いのか、こうやって話している合間も頬には汗が流れ、頬は赤く蒸気している。
「いや、だってもう2時間だぞ」
「あ、そんな経つんだ」
「準備体操してランニングしてキャッチボールして遠投。むしろ粘ったほうだろ。野球未経験だし俺」
「うむ」
「それになんて言ったって朝6時集合だからな。6時だぞ、6時」
「若ちゃんってさほんとどんなお誘いとかお願いでもOKするよね。そーゆーのちょっと心配になるなあ」
「いや誘ったほうが言うなよ」
「あはは、まあ楽しい時間ははやく過ぎるってことで」
そう言いながら、俺の隣に腰をおろす。あぐらをかきながら、左手のキャッチャーミットにボールをパシパシ当てており、そのリズムがふたりの間の心地よい空気感を形作っていく。
河川敷に朝から来ていたのは高寺のお願いだった。具体的に言うと昨日の夜のLINE。最近、声優ユニットにいろいろ入ることになり、体力をつけたい……という理由だった。
「昨日もダンスレッスンだったんだ」
そう言いつつ、高寺は手先だけをクルクルと動かしている。どうやらフリを確認しているらしい。脳天気な口調とは裏腹に、手先は器用にフリを再現しているのがわかる。
「大変だな。そんだけ踊っててさらに運動して平気なのか?」
「うん。あたし、体使ってないとすぐなまっちゃうんだよね。頭使って生きてないからかな?」
「その論理がまずよくわからん」
「あはは。あたしバカだからさー」
「そんな前向きに言うことじゃないぞれそれ」
「でもまあ、今日はレコーディングだし大丈夫!」
「そっか、ならいいけど。今ってユニット何個だっけ?」
「あー3つ? でもまた増えるかも……」
「え、また増えるんだ?」
「ま、若手女性声優の宿命だよね」
高寺はコクンとうなずく。嫌そうな感じはなく、なぜかちょっと照れている感じだ。
「こうなったら10個くらい組んでユニット芸人目指そうかな? ライブとライブがかぶって行ったり来たりするの。バレないように」
「いやバレないのは無理だろ」
「でもあたしさ。ドル売りはイヤじゃないんだよね」
高寺が、ほんの少しだけ真剣味を帯びた声でそう言う。なので、俺も自然と背筋が伸びた。
中野とふたりで話すとき、彼女はよく高寺の「人に愛される才能」について話していた。人懐っこく、男女の分け隔てなくフランクに接することができ、スペック自体は高いのだがイジられキャラなので嫌みな感じはまったくない。美祐子氏はそんな高寺の長所を見抜き、アイドル声優寄りの売り方をしようとしている……という話だった。
俺としてはてっきり、高寺自身はそこは意識していないと思ったのだが、どうやらそうではなかったらしい。
「アイドルっぽい声優像を快く思わない人ってそりゃいるし、そういう先輩の中には自分の活動に『これでいいのかな?』って思いを持ってる人もいるし、自分にそういう適性があるともしょーじき思えないんだけど、でもこれはこれでやりがいがあるって言うかさ」
「俺も思うよ。自分の仕事に誇り持ってやるのって格好良いなって」
「だよね」
俺の同意が嬉しかったのか、高寺は頬を緩める。
「それにさ、誇りって誰かに言われて持つのじゃないとも思うし、それに、あたしはりんりんとは全然違うタイプだから。あんなふうに職人声優というか、『CDデビュー? いたしません』『写真集? いたしません』って感じにはなれないし」
「金にがめついとこも似てるなその女医のキャラと……ってのはさておき、なんか吹っ切れたんだな」
そう言うと、高寺は少し首をかしげつつ、苦笑する。
「いや、どうかな。あたし、あんま自分の自信あるほうじゃないから」
「まあそんなすぐには変わんないか」
「でも、自信がないままでもチャレンジできる自信はついたかな、みたいな。声優講座に助っ人で出て思ったけど、結局どんだけ準備しても本番になんないとどうなるかはわかんないし、どっかで覚悟決めて飛び込まないといけないんだなって」
「覚悟か」
「不安だからっていつまでも助走してたら幅跳び飛べないよね、って言うかさ。若ちゃんに合わせて言うと、プロローグが長い小説は面白くないでしょ、みたいな?」
「めちゃくちゃわかりやすい例えだな」
そう言うと、高寺は満足げに微笑む。
「もちろん準備は大事だけど、踏ん切りがつかなくなると元も子もない。きっとここぞってときに飛び込むのが大事……それってさ、今のあたしに当てはめると、アイドル声優的なお仕事なのかなって。正直、りんりんみたいに役者で評価されるのも憧れるけど今の力では絶対無理だし……なんか言いたいことだんだんわかんなくなってきたけど、ようは今はできることを真面目にやりたいって感じ?」
「それで、少しでも体力をつけようと俺を呼んだと」
「そういうことなり」
高寺はにぱっと笑う。ミットにボールをパシパシ当てるのはいつの間にかやめており、ふたりの間の空気感は、規則的なリズムがなくても心地よいものになっていた。
そして、高寺はごろんと芝生のうえに寝転ぶ。無防備なその姿は健康的でありながら、太陽の影響でまぶたのブラインドがおり、どこか胸にセンチメントな感情を運んでくる。
俺はそんな彼女の姿から、そしてなにより胸の豊かな膨らみから目を逸らそうと、横に寝転んで同じように青空を見上げた。ミット越しでも太陽は容赦なく降り注ぎ、薄目にならざるを得ない。
だが、寝転ぶ場所の目測を誤ったのか、高寺との距離が近くなってしまった。手を伸ばせば高寺の手に触れてしまいそうなのが、さっきまでとは変わった草の雰囲気でわかる。
しかし、手を引くのも失礼な気がして動けず……小さく顔を動かし、目だけで高寺を見ると、彼女はこっちを見ていた。しかも、とてもおだやかな笑みを浮かべている。人なつっこさと心根の優しさが混ざり合った、悪意のない笑みだった。
「え、なに」
「いや……若ちゃんってホントいいやつだなって」
「え、どこが?」
「全体的に」
「……それ褒められてる?」
「そりゃあ、もう」
高寺はうなずく。うなずくのだが、芝生の上に横になっているので、地面に頬をこすっているかのようになってしまっている。もちろん、俺も同じ体勢なので、うなずけば彼女と同じことになるのは想像に難くない。間近に接していることで、青々しい草のニオイが息するたびに体のなかに流れ込んでくるのを感じる。
そんなことを思っている合間も、高寺の話は続く。
「話ちゃんと聞いてくれるし、茶化したりしないし……なんていうのかな。若ちゃんと話してると、ついつい本音言っちゃう……いや、言えちゃうんだよね」
「言えちゃう?」
「うん。他の人だとどうしても喉に突っかかっちゃうこと、スポって抜けるって言うか。例えるなら、飲むとこの内側にコーンが引っかかってコーンスープ缶をトントン叩くみたいな、そういう優しさを持ってる」
「例えのクセが強いな……」
もちろんそんなふうに自分を形容されたことがないので、当然ながらちょっと困惑。
だが、どういう形でも自分の内面を肯定されたのは嬉しく、ゆえに俺もなるだけシンプルに今の気持ちを伝えることにする。
「でもまあ、人として信頼してくれてるのは嬉しいよ」
「そりゃもう、信頼ばっちしですよ」
高寺はにひひと笑うが、数秒してなにか思い出したように真顔になる。
「さっき若ちゃん、なんでちょっと嫌がったの?」
「ん、べつにそんな深い意味はなかったんだけどほら。なんか女子が言う『いい人』って『男としては見られない』みたいなのかなって」
「え、若ちゃん、あたしに男として見られたいのっ!?」
高寺が急に起き上がり、見下ろすようにしてこっちを見てくる。まったく、いつも通りの反応だ。
なので、俺も上半身を起こしつつ、なるだけ冷静に対応する。
「いやさっきのは反射というか。一般論だよあくまで」
「あー、見られたいんだねっ? そっかそっかそっか!!」
しかし、高寺は勢いで俺の言葉を受け流し、突き出した左右の人差し指を交互に押し出し、ツンツンしてきた。どうやら俺をからかうのが相当楽しいらしい。悪い笑みを浮かべているのでわかる。
「男の子として見てるよ、って言ったらどう思う?」
「こらこら近いぞ!!」
「あたしと若ちゃんの仲じゃん! 今さらすぎっ!!」
「てか冗談でもそんなこと言っちゃダメだぞ。俺は平気だけど、男子のなかには信じるやつもいるから」
「えー、あたしこれが素なのにー」
「それは知ってるけど」
「てか若ちゃんも信じてもいいじゃん」
「いいワケないだろ!!」
「だって見てるんだもん」
と、そこで高寺の両手が引っ込められた。攻撃が終わったことに安堵しつつ、視線をあげると……高寺は真っ直ぐ、俺を見つめていたのだった。
「え……今、なんて……」
「若ちゃんのこと、男の子として見てるよ。正確に言えば見始めてる……って感じ?」
からかうような色はなくなっており、その瞳からは優しさしか感じられなかった。長い睫毛は頬に影を作り、それがさらに彼女に奥行きを与えている。心根の優しさを感じさせる温かい笑みに、油断すると包み込まれそうになる感じだった。
「か、からかうなって。いくら俺と高寺の仲でも、そこまで言われると……」
もはや心臓は心臓としての役目を失っていた。脳の指令とか関係なく、勝手に暴走しており、呼吸、体温、その他の感覚がすべてバラバラに働いている。
すると……高寺はそこでくすっと笑う。さっきの表情はどこへやら。いつも通りの、冗談めいた笑顔に戻っていた。
「そこまで言われるとなに? 本気になっちゃう的な? 続きは?」
「冗談かよ……」
「冗談とは言ってないけどね?」
「言葉で言ってなくても態度がそう言ってるだろ。ちなみに続きはない」
「なーんだ続きないんだ。ちょっとがっかりしちゃった」
口先をとがらせながら、高寺はふふっと微笑む。
「でも、あたしが若ちゃんのこと信頼してるのはホントだよ。仲良くなれて良かったって、あたしは心の底から思ってるよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ……ま、俺は俺みたいなやつと友達にはなりたくないけどな」
そう言ってやると、高寺は嬉しそうににひっと笑ったのだった。
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