162 ひよ姉の帰還2
「んー、うるさいよぉ……」
その後、中野と談笑という名の罵り合いしていうたところ、物音に琴葉が起床してきた。が、当然ながらねむねむモードで、目を手の甲でこすっている。
すると、中野がすぐに立ち上がり、彼女のもとへ駆け寄ってひざまづいた。
「琴葉、ただいま」
「あ、ひよ姉だぁ!!」
琴葉が中野を抱き締める。中野はそんな彼女を受け止める。琴葉に抱き締められるという幸福を全身で受け止める。
「ひよ姉、さみしかったよーぅ」
「私もさみしかった。いい子にしてた?」
「ううん、悪い子だった。2日間遊びまくったし、勉強は1秒もしなかった」
「あらそうなの……でも、かわいいから許す! 無罪!!」
中野が琴葉の頭をヨシヨシする。かわいいは正義と言うが、こうやって怠惰を許容させてしまうあたり、正義というより麻薬とかそんなものなのかもしれない。
そして、中野はスーハースーハーと琴葉の首元で深い呼吸をしたのち、至極大まじめな顔を俺に向けてくる。
「若宮くん、ふと気付いたのだけど」
「なんだ?」
「今までは琴葉を学校に行かせるためにお風呂に入れていて、休みの日とかも習慣でそうしていたのだけど、でもそもそも今日は夏休みよね。もしお風呂に入れなければ、このままずっとこのまま甘々モードかしら……?」
「いや、それは姉としてダメだろ。気持ちはわかるけど……」
俺がそう言うと、中野はガックリと肩を落とす。
「でもそうよね……それが琴葉のためだもんね。私は愛する妹の健やかな成長と発展、健全で健康な未来のため、朝起こすという苦しいミッションを遂行するわ」
「大げさだなほんと」
その後、俺は風呂を追い炊き。頃合いを見計らって、琴葉を風呂場に運ぶことになった。中野が運ぼうとしていたが、普段は朋絵さんとふたりで行なっていることだし、どうせ男手があるならということで、俺がすることになった。
「琴葉、ほら風呂入るぞ」
「え、若宮と一緒に入るの……?」
「バカ、そんなワケあるか」
「えー、私はいいけどぉ……?」
そんなことを言いつつ、琴葉は前夜ならぬ前朝と同じように俺の首元に顔をうずめる。その表情はとてもうっとりしており、一時的なものとは言え、こうやって心を許してくれているのは俺にとって嬉しいことだった。
と、そう思っているうちに、琴葉の体はだらっと脱力し、スヤスヤと寝息を立て始める。軽く頬をペチッと叩くと、「うっ……」という小さな呻き声をもらした。
「風呂場行くまでに寝るなんて。それでよくサンドイッチ作ってるな?」
「お前じゃない! 琴葉って呼んでっ!!」
「抱きつくなって。琴葉、マジで二重人格なんじゃないか?」
「てかお風呂場いつ着くの?」
「ん、いつ?」
「なんか遠くない……?」
そう言われ、俺は足下を見た。なぜか右足と左足が交互に足踏みしている。
たしか、人間が前に進むためには人体の構造的に「右足を前に出す→左足を前に出す→右足を前に出す……」という動作が必要なはずだが、なぜかその場で足踏みしていた。
「なんだこれは……俺はいつ、歩くという行為を忘れたのだ……待てよ。もしかするとこれは誰かの仕業。俺が足踏みするしかできないよう、歩くという概念を俺の脳からアンインストールして……」
「若宮くん、あなたは何をしているのかしら?」
振り向くと、腕を組んで壁に背中を預けてもたれている中野の姿があった。虫でも見るかのような冷ややかな目をしており、自分が奪われた幸せを俺が堪能していることに、明らかな怒りを覚えているようだった。
「時間かかりすぎじゃないかしらと思って見に来たら、その場で足踏みしているんだもん。頭おかしくなったのかと思ったわ」
「いえ、おかしくなってません」
「そうよね。もともとおかしいもんね」
「……」
中野の視線を背中に感じつつ、俺は琴葉を脱衣所でおろした。
すると、琴葉はすぐさま服を脱ぎ始めようとするので、俺は腕を掴んで制止する。
「おいなんでそこだけスピーディーなんだ」
「生まれたままの姿、好き……」
「正直すぎるだろ。本音を言えばいいってもんじゃないぞ?」
「わかった」
そんなやり取りを終え、俺は脱衣所を出た。リビングに戻ると、なぜかもう10分も経過していることに気付く。これは驚きだ。リビングと脱衣所の距離は数メートルなので、往復で合計10メートルとしても俺は分速1メートル。時速で60メートル、秒速だと……5センチメートル?? いつでも琴葉のことを探している速度……??
もはや計算など正直どうでもいいので、最後だけ雑になってしまったが、それはさておき、俺は朝食の準備に取りかかることにする。
すると、中野が側に寄ってきた。
「まだ責められないといけないんですか」
「なんのことかしら?」
「琴葉のことだよ」
「まったく、あなたって人は……」
中野はかなり呆れた様子だった。が、すぐにニヤッと笑う。
「でも、琴葉ラブという観点においては、私は若宮くんより16年ほど先輩だから」
「その計算はおかしいぞ。琴葉はまだ小6。琴葉ラブの期間も最大で12年弱だ」
「それは違うわ。なぜなら、私は琴葉が生まれてくる前から琴葉のことを愛していたから。あの子がこの世に生を受けてくれることを、私は生まれながらに知っていたのよ」
「うわ、ヤバい人がいる」
「ちょっと急に冷静にならないでよ」
思わず自然に距離を取ってしまった俺に、中野が詰め寄る。キッチンにいたせいで、流れ的に俺が奥に追い込まれることになった。中野はちょうど目の前にぶら下がっていたお玉を手にした。これで俺が折りたたみ傘を出したらバトルに発展……?
「いや、冷静になるだろ。ちょっとスピリチュアル味感じたぞ?」
「スピリチュアルなんて失礼ね。ただ私は琴葉から得られるエネルギーで、琴葉に感謝の祈りを捧げて毎日を過ごしてるだけで」
「冗談にしてもちょっとヤバいぞ」
「それはさておきなのだけど」
「話逸らすの強引だな」
「今日、琴葉に朝食作ってもらわない?」
「琴葉に……?」
おたまを竹刀のように肩に置きながら、中野が出した提案に、俺は思わず首をかしげた。
○○○
「ふー……朝ってマジなんなんだろう。なんの恨みがあってこんなに毎日苦しいのかな」
湯気を蒸気させながら文句を述べているのは、中野家の三女・琴葉嬢である。たぶん朝は琴葉に恨みは持っていないと思う。
「で、私が朝ごはん作ればいいの?」
「そう。『世界!ニッポン行きたい人応援団』とかでも泊めてくれた人にお礼で自分の国の料理作ったりしてるでしょ」
急にテレビ番組の名前が出て、俺は内心困惑するが、琴葉は納得したようにコクンとうなずく。
『世界!ニッポン行きたい人応援団』はテレビ東京で放送されている番組で、簡単に言うと「日本文化に興味を持ちつつ、日本を訪れたことのない外国人の来日をサポートする』という内容。そこまで聞くと「少し前に流行ってた日本礼賛番組か』と思う人もいるかもしれないが、むしろ俺的には『職人礼賛番組』だと思っている。
来日する外国人はみな、特定の日本文化に強い興味を持っている。畳、日本庭園、和紙、浮世絵など伝統的なものである場合もあれば、味噌汁、豆腐、大衆食堂……など、日常的なものであることも多い。
そして、彼らはその道のプロフェッショナルと言える、職人や料理人たちのもとを訪れ、指導を受けながらノウハウを学び、その道の神髄に触れる。憧れの職人と出会った外国の人々の感動は、観ているこっちも心動かされるほどで、プロの仕事ぶりに毎週感動させられてしまう。
と、まあそんな感じでなにげに俺も毎週観ているこの番組は、プロフェッショナルであることに誇りと最大級の敬意を持って生きている中野のような人が観ているのも非常に納得なワケだが、番組内では時折、指導や宿泊のお礼として外国の方々が母国の手料理をつくり、ふるまう場面があるのだ。
説明が長くなってしまったが、琴葉にも中野の言葉は通じたようだった。
「じゃ、つくる。キッチン入っていい?」
「お、おぅ……」
「簡単な料理しか作れないし、てか朝はサンドイッチだけど平気?」
「へ、平気だ。あ、ありがとな」
琴葉の言葉に、俺はしどろもどろになってうなずくしかなかった。
そんな俺にすっと近づくと、中野はこうつぶやく。
「ま、単純に私が食べたいってのが大きいのだけどね……?」
言わなくてもいい一言を不敵に笑いながら言うあたり、この女の子は本当にあなどれないなと思う俺である。
琴葉は、冷蔵庫の中に入っていたベーコン、アスパラガス、卵、チーズなどを取り出すと、キッチン台のうえに並べた。
まずお湯を沸かすと、頃合いを見計らってアスパラガスを投入。皮は一応剥こうとしているが、部分的に残っていた。
その間にフライパンを温め、ベーコンを軽くあぶる。焦げ目がつかない程度でそれを取り皿に移すと、一旦、火を止めて、卵を溶いて、それをフライパンに流し込んで火をふたたびつけた。ベーコン油を利用して、スクランブルエッグにしているようだ。
と、ここまでは拙さこそあれど、まあ仕上がりにはそこまで支障のなさそうな動きだったが、チーズを小さくスライスするところで事件は起こった。包丁の位置がなかなか決まらないのだ。
そして、やっとのことでおろしたものの、サイズがバラバラなチーズが仕上がっていく。茹で終わったアスパラガスも、そのままでもいいはずなのに包丁で切り、不揃いに。
トースターで焼いた食パンのうえに、完成した具材を盛り付けていくが、なぜか2枚のうえに均等に配分できず、残りのパン2枚でそれぞれ蓋をして切ると、もともと具のボリュームが多すぎたせいでこぼれ落ちた。琴葉はそれを箸で拾うと、別の小皿に載せる。最初からしておけば問題なかったんじゃないでしょうか……。
それを俺と中野は少し離れた場所から見ていたのだが、中野はどこにその要素があったのか、うっとりしていた。
「今日はいい仕上がりね」
「そうか? と言いたいところだけど、毎日食ってる中野がそう言うんだからそうなんだろうな」
「しかも、今日はウトウトしてなかった」
「え、料理しながらウトウトする日あんのか」
「当たり前でしょう。あれだけ朝弱いんだから」
そう言うと、中野は俺にスマホを見せた。それは琴葉を撮影した動画であり、眠さに負けそうになって前後に揺れながら、サンドイッチを作る姿がおさめられていた。前後に揺れながら猛烈な眠気のなか、サンドイッチを作る女児……意味不明な世界観である。
「いや、危ないだろマジで」
「微笑ましい光景よね」
「微笑んでる場合か。笑い事じゃないと思うぞ?」
しかし、琴葉を見る、琴葉の動画を観る中野の目はとても優しかった。
シスコンって、度を超えるとこうなるんだな……そんなふうに内心呆れながら、でもイヤじゃないという不思議な気分を味わいながら、俺は食卓に向かい、琴葉が作ってくれたサンドイッチを頬張ったのだった。
それは、気のせいかとても優しい味がした。
==◯◯==◯◯==◯◯==
これで本作の約半分に到達しました!
まだまだたくさんの方に読んでいきたいので、☆レビューがまだの方はぜひお願いします!
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