161 ひよ姉の帰還1
中野が我が家に琴葉を迎えにやって来たのは、その翌日の午前10時前。より正確に言うなら、朝9時25分のことだった。
この朝9時25分という時刻は、なにげにおかしい。まず、中野は前日夜まで仕事をしている。そしてその後、結構な規模の打ち上げに参加し、ホテルに戻ったのは21時頃だったという。高校生であることを考慮してもらったとしても、結構遅めな時間だ。
しかし、中野は翌朝、始発である午前6時の新幹線に飛び乗った。もともと用意されていたチケットは11時台のものだったが、自由席になるのをいとわず、5時間以上の前倒しを敢行したのだ。
こうして新大阪駅を出てからおよそ3時間後、新横浜駅を経由して中野は我が家に到着した。
「というワケで、琴葉を迎えに来させてもらったわ」
「あのな……夏休みの朝9時台に家に来るって、まあまあ非常識じゃないか?」
パジャマ姿のまま、俺はテーブルの向かい側に座っている中野にため息をつく。
「はやく来たほうが、若宮くんも助かるかなと」
「いや、普通にあと1時間寝かせてもらえたほうが助かったわ……ったく、シスコンって周りを巻き込むんだな」
「シスコン? はて誰のこと?」
とぼけた口調で中野は言うが、表情はいつも通りクールで、ひんやりしている。
今日の彼女は袖口が斜めにカットされた白Tに、膝上丈の黒のスカートという、シンプルながらも、だからこそ素材の良さを感じさせるコーディネートだった。
来訪時には黒のキャップをかぶっており、「なるほど本物の芸能人は女優帽みたいに目立つやつじゃなく、こういう何気ないものをチョイスするんだな……」などと感じさせられた。
いずれにせよ朝から決まっており、パジャマ姿で寝癖の俺とは対照的だった。
「それに、午前10時って普段ちょうど収録が始まる時間だから、逆に一番体調がいいのよね」
「いや俺は普通に眠いって。琴葉もまだ寝てるし」
「でしょうね」
「絵里子と香澄もまだ寝てる」
「香澄ってあの香澄? どうして香澄がいるの?」
「まあ色々あってな」
その色々を言うワケにはいかないのだが。
すると、中野はその大きな目を普段の3分の1程度にまで細めて。
「……警察って119じゃなく110よね?」
「いやいや早まるな誤解だ」
「誤解? 私はただ警察の番号聞いただけなのだけど? なんの意図もなく、ふと急に気になって」
「なんの意図もなく警察の番号気になることないだろ」
「誤解って言うってことはなにかやましい……いえ、言い間違えたわ。なにかやらしいことが……」
「いや、それ言い間違ってないから余計おかしくなってってから……言い間違ってないこともないか。だってやましいこともないもんな」
「へー」
棒読みでそんなふうに返す中野を黙らせるべく、俺はコーヒーをいれて差し出した。ありがとうと小さくつぶやくと、彼女はコーヒーカップにそっと口を当てた。
しかし、あれだなほんと。
せっかく2泊も預かってやったのに、油断も隙もない。素泊まりプランでもとか言ってたくせに、結局朝昼晩3食つき水族館同行オプションになったのに。
「で、どうする? 琴葉起こすか?」
「いや、いいわ。起きるまで待ってる」
と言いつつ、中野はその場を立ち上がって、視線をキョロキョロ。どの部屋に琴葉が寝ているのか探っているようだ。
「発言と行動が一致してないぞ」
「ちょっとだけ。ちょっとだけだから……減るもんじゃないでしょ?」
「変態オヤジみたいなこと言うんだな」
「いかがわしいこともしないし」
「……静かにな。昨日、水族館に行って、すごく疲れたみたいだから」
「あら、連れていってくれたのね」
「いや、感謝されるほどでもねーよ」
「まだ感謝してないし、感謝するつもりも……いえ、今回は感謝させていただくわ。ありがとうね、若宮くん」
「……おう」
いつもの調子で高飛車な対応をされるかと思いきや、中野はニッコリ微笑み、心のこもった声で感謝の気持ちを伝えた。面と向かって言われるので、正直ちょっと照れてしまう。キレイな顔の女の子に見つめられるのはやっぱりなかなか慣れないのだ。
「でも、水族館か」
そして、中野の黒く澄んだ瞳には、期待を思わせる波が揺らいでいた。水族館に連れていってあげてほしいと言ったのは彼女のはずなのに、なぜだろう……。
○○○
疑問を胸に残したまま、俺は自室のドアをそっと開く。琴葉と香澄がぐっすりと、身を寄せ合って眠っていた。よく見ると、手を繋いで眠っている。
「すっかり仲良くなってな」
「そうなんだ。姉としては、とっても嬉しいことね」
「おい、また発言と行動と一致してないぞ」
ふたりの手の平に向けて、空手チョップを振り下ろそうとしている中野にツッコミを入れる。さすがに冗談だったようですぐ止めるが、琴葉を見る中野の目はガチだった。
「え、2日前よりかわいくなってない……??」
「変わりないと思うけど」
「シルクみたいなお肌、長い睫毛、なにもしてないのにパーマ当てたみたいな癖っ毛、そしてこの……小さなお口。うん、全部かわいい」
中野は琴葉の唇にそっと触れ、人差し指と親指で横幅を計り、それを自分の口に持ってきて小ささを確認する……という例の仕草を見せた。美少女が美少女の唇に手を添え、それを自分の唇に持ってくるのだから、しかもそれを俺の部屋でやるのだから、見守っていてすごく恥ずかしい気持ちに襲われてくる。
「かわいいのはわかったから。起こさないうちに出るぞ」
そう言うと、中野は名残惜しそうにしつつも、一緒に部屋から出てきた。
リビングに腰をおろしつつ、上機嫌な中野が口を開く。
「ぐっすり眠ってたわね。水族館楽しかったのかしら」
「だと思うけど」
「それで……どの辺りを見て回ったの?」
「どの辺り? えーと、イルカ・アシカショーとか?」
「イルカ・アシカショー?」
「ああ。たまたま昨日、ショーデビューだったオットセイが、ココハって名前でさ。琴葉のやつ、親近感わいちゃったみたいで、帰り道にグッズ買ってたわ」
そうなのだ。あの真剣なトークのあと、戻ってきた絵里子を含めた4人で、俺たちはお土産のコーナーに行った。すると、そこにはすでにココハの写真、クリアファイルなどのグッズがあったのだ。ショーデビュー初日にグッズがあるのだから、商魂たくましいぜほんと。
そして、琴葉はそこで写真を1枚、イルカモチーフのかわいらしい写真立てと一緒に購入していた。きっとそのうち、中野家のリビングにでも追加されることだろう。
「イルカ・アシカショーになぜオットセイが参加していたのかよく理解できないけれど」
「そこは俺たちもわかんないから」
「他にはなにか見た?」
中野が俺に尋ねる。
「他? そうだなあ、深海魚とかペンギンとか?」
「そうなんだ」
「でも、ずっと見てるって感じじゃなくて、話しながら歩いたりしてたからな」
「話しながら歩いたり?」
「うん。てか黙って水族館見て回る人いる?」
「いや、そういうことを聞きたいワケじゃなくて……」
いつもの簡素明快な喋り口ではなく、聞きたいことをストレートに聞いてこない中野の様子に、俺は違和感を覚える。実際、彼女は喉の奥になにかがつっかえているかのような表情で、少しモゾモゾとしていた。
「見て回ってるとき、琴葉にいつもと違うところはなかった?」
「いつもと違う? いや、とくになかったと思うけど」
「そう……まあでも、琴葉が楽しんでいたなら、私も嬉しいわ」
「嬉しいとか言いつつ、なんか表情暗くないか?」
「いえ、そんなことないわ」
「いや、そんなことあるぞ」
「……いえ、琴葉が水族館を楽しんでくれたのは、私にとってもとても嬉しいことなの」
中野が真剣な口調で語り始める。
「私は仕事が忙しくて、朋絵は大学とバイトが忙しくて、ここ最近、琴葉の相手をしてあげられていなかったから。若宮くんには、その代わりをしてもらえて、心から感謝しているし」
「代わりになってたかはわかんねえけどな。琴葉の本心は俺にはわかんねえし」
「でもね、ひとつ期待外れのことがあって。じつは私、あの水族館でナレーションの仕事してるのよ」
「ふーん、そうなんだな……えっ、それホント?」
「ウソついても仕方ないでしょう?」
驚いた俺に、中野は至極真面目な表情だった。
もちろん、俺が中野の発言を疑っていたワケではない。あくまで、定型文、定型反応としてそう返しただけなのだ。
「スマホのアプリなんだけど、水槽のなかのお魚とか、展示物の解説をしてくれるってやつなの」
そう言うと、中野は俺にスマホの画面を見せ、アプリを開く。
すると、そこには水族館のマップが表示された。試しに中野がペンギンのボタンを押すと、聞き慣れたクリアな声が流れてくる。
「ペンギンは鳥綱ペンギン目に属する、種の総称。南半球に生息する海鳥で、飛ぶことができません。ちなみに、北極にはいないんですよ。ご存じでしたか?」
俺は琴葉が執拗に音楽を聴こうとしていたことを思い出す。てっきり俺に反抗していたのかと思っていたが、どうやらひよ姉のナレーションを聞いていたらしい。
しかし、そうではないと思っている中野は、少しさみしそうにこう続ける。
「だからね、本音を言えば、琴葉って私のナレーションを聞きたかったんじゃないかなあって思っていたの。もともと水族館に行きたいって雰囲気出してたのも、若宮くんが預かってくれるって決まってからだし」
「そうだったのか」
「共用のパソコンで、『水族館 楽しみ方』って検索してたりね」
「察してくれアピールが激しいな」
「それが琴葉だからね」
ごく自然のことという感じで、中野が返答する。どこか、俺に対して呆れたかのようなその瞳は、琴葉がいつも俺に向ける瞳に、そっくりだった。
まったく、なんて不器用な姉妹なのだろう。もともと気むずかしい性格で、現在進行形で不登校の妹に、そんな彼女に対してどう接していいのかわからず、困っている姉。そして、そんな姉のことを大切に思いつつも、素直に表現できない妹。
しかし、俺にはそんな関係性が、なんとも微笑ましかった。
たしかに、ふたりの気持ちはすれ違っているけど、でも、お互いにお互いのことをちゃんと想っていて、心の深い部分で繋がっている……そんな関係性なのだと思う。
「ふふ……」
「ちょ、ちょっと若宮くん? どうしたの頭おかしくなった?」
「いや、なんでもない。ただ、いい姉妹だなって」
「いい姉妹? どうしたの急に」
中野がキョトンとした表情になる。
「どうしたんだろうな、マジで。自分でも思うもん……でも、いい子だよな、琴葉って」
「えっと……」
中野がさらにキョトンとした顔になる。俺の意図を探っているようだ。
しかし、俺は中野に、そして自分自身に言い聞かせるように、繰り返す。
「ちょっと面倒で扱いにくいけど、優しくて、かわいくて……まとめると、すっごくいい子だよな」
すると、中野は姉のような、親のような表情に変わり、
「ええ。本当にいい子なの、あの子は」
今までに見たことのない、出し惜しみのない笑顔で、コクンとうなずいたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます