160 女児たちと水族館7

「……あの、いいですか?」


 香澄は手をあげて、俺と琴葉を見ていた。


 ずっと黙っていた彼女が急に声を上げたことに、俺は驚きを隠せなかったが、その顔は真剣そのものであり、同時に緊張が入り交じっているのが見て取れる。


「琴葉ちゃんって、中学はどこですか?」

「えっと、3中」

「3中! 私もです。私も3中です!」


 香澄が目を大きく開きながら、指を3本立ててみせる。


 その顔はどこか上気しているが、声色はいつも通りの落ち着いたトーンで、興奮を抑えようとしているのが伝わってくる。


「えっと、香澄って家近所だったっけ?」

「はい。うちは惣太郎さんやお兄ちゃんが通ってる高校から、歩いて3分です」

「近いなっ! 初耳だぞっ!」


 石神井と帰るとき駅までいつもついて来てくれてたから、その近くに住んでいるのかと思っていたけど、実際は高校のすぐ側だったようだ。


 ……というか駅まで送ってくれるってあいつ紳士だな。いつの間に女の子扱いされてたの俺。しかも、わざわざ言わないところが素敵とゆーかさ。普通の男だったら、家が近所だったらそのまま女の子をお持ち帰りしちゃ……。


 じゃなくて。


 そういう話じゃなくて。


 石神井の残像を振り切るように、俺は香澄に視線を戻す。


「前に惣太郎さん、ひよりさんの家は、南口から坂を10分くらいのぼったところって言ってましたし、実は中学同じなんじゃないかって、さっきからお話聞いてて思ってて」


 中野と石神井は、実はわりと家が近かった。


 しかし、小学校は学区が違い、中学校は中野が私学に行っていたせいで、高校になるまで接点を持っていなかった。


 そして、高校はお互い「家から一番近いから」という理由だけで選んで、ついにご近所さんが同じ学校になった……ということらしい。


 そんなご近所関係は、琴葉と香澄の今後にもつながる。今は別の小学校のふたりだが、中学校は同じところになるのだ。


 香澄は琴葉の手を取ると、目をまっすぐに見てこう述べた。


「だから私たち、お友達になりましょう」

「えっ」


 香澄の提案に、琴葉は思わず聞き返す。


 しかし、香澄は至極真面目な顔だった。


「私は琴葉ちゃんのこと無視したりなんかしません。今みたいに、ちゃんと目を見て話します。耳を澄ませて話します」

「で、でも……」

「もちろんお姉さんのこととか、パパママのことを悪く言ったりしません」

「……ほんとに?」

「ええ。一緒に勉強しましょう。一緒に勉強して一番難しい高校に行きましょう」


 しかし、琴葉は嬉しそうな顔をしなかった。


 むしろ、困惑8、恐怖2、という感じだ。


「なんで、そんなこと言ってくれるの?」

「なんで……それって、『付き合いましょうって言わないで恋人関係をスタートさせるのは嫌がるのに、なにも言わず友人関係が始まると思ってる人間って変な生き物だな』って私が思ってるから『お友達になりましょう』って言うようにしてる、ってことですか? 違いますよね?」

「違うよ」

「ですよね。私も自分で言ってて違うなって思いました」

「私、冷たく接したのに、なんで友達になろうって言ってくれるのってこと」


 琴葉がそう言うと、香澄はああとうなずく。


 琴葉にとって、香澄の反応はこれまでに経験したことのないものだったのだろう。


 しかし、当の香澄はそれが当たり前とでも言うかのような態度だった。


「そんなの簡単です。それは私が大人だからです」

「大人?」

「はい、私は大人なんです。見たらわかるでしょう?」

「いや、わかんないけど……」

「じゃあ、細かく説明します」


 そう述べると、香澄はんんっと喉を鳴らす。


 そして俺たちの顔をぐるっと見渡したあとで、こんなふうに琴葉に話し始めた。


「まず前提として、私には琴葉ちゃんの気持ちがわかりませんし、わかるようになれるとも思っていません。わかりたいかと聞かれても、正直微妙なところです」

「えっ……それってどういう?」

「簡単なことです。だって私は琴葉ちゃんじゃないし、同じようにクラスで無視されたり、イジメに近いことをされた経験がないからです」

「今さっき、私と友達になりたいって言ったよね? それなのにそれって、開き直り?」


 琴葉が愕然とした表情でそう問うが、


「でも、わかんないってことをわかってるから、知りたいなあ、話を聞きたいなあって思うんです」

「……」


 突き放すような言葉のあとに飛び出した優しいセリフに、琴葉が思わず黙る。


 そして、香澄が俺のほうを見て尋ねる。


「惣太郎さん」

「なんだ?」

「誰かに悩みを相談したとして、その人が『わかるよ君の気持ち』って言ってきたらどう思いますか?」

「相手次第だが……」


 急に向けられた質問の矛先に、俺はなるべく真剣に、誠実に答える。


「仲良しなら嬉しいけどちょっとムカつく。仲良しじゃなければただただムカつく。仲悪しなら……そうだな、殺意とか芽生えちゃうかもな」

「仲悪しな人には悩み相談しないでしょってのはさておき、なぜムカつくんですか?」

「いや、だって俺の悩みだろ? そんな簡単にわかるワケないでしょ」


 その答えに、香澄は満足げにうなずいた。


「そうなんです。『わかるよ』って軽く、軽やかに、軽はずみに言う人ほど、じつはなんにもわかってないと私は思うんです」


 人の苦しみはそれぞれだ。中野が亡くなった両親の代わりに一家の大黒柱を担っていることにも、俺が社会不適合な引きこもりの母親の育児をしていることも、過去のトラウマから自分の知識量に自信が持てずオタクだと思えないところも……そういうのは当人じゃないとなかなかわからないことだと思うのだ。


 少なくとも、話して数秒数分で「わかるよ」と言われても、反感しかわかないと思う。それは間違いない。


「そして、そういう意味では、『気持ちがわからない』と宣言することは、逆に誠実な態度だと思うんです。もちろん、そこには『だからあなたのことを教えて』って気持ちがセットじゃないといけないんですけど」


 相手の気持ちがわからないというのは、決して悪いことではない。むしろ、わからないと自覚しているから、自分の想像力を過信していないから、きちんと相手から話を聞いて、ありのままの姿を知ろうとすることができる。


 香澄が言いたいのは、そういうことだったらしい。


 そして、香澄はふたたび、琴葉に視線を向ける。


「たしかに琴葉ちゃんには、色んな要素が詰まっていると思います。美少女、ちょっと変わってる、親がいない、お姉ちゃんが声優、ちょっと変わってる、声が小さい、ツンデレ、ちょっと変わってる……」

「さすがに言い過ぎだしなんかダブりまくってない?」


 琴葉が口先をとがらせ、不満をあらわにすると、香澄はふふっと笑う。


「簡単に言うと、琴葉ちゃんは人と違うんです。だからこそ目立ってしまう」

「そうだよ。私、普通にしてても目立つの。クラスで浮いちゃうの」

「でも、私は思うんです。違いを見つけ合うのが子供なら、違いを認め合うのが大人なんじゃないかなって」


 そこまで言うと、琴葉は人差し指を立て、重要事項を伝えようとする教師のように、明瞭な口調で補足を加える。


「あ、違いを認め合うってのは『時間をかけて話し合えば、いつかみんながお互いをわかり合える』みたいな、理想論めいた話じゃないですからね? むしろ理想論なんて、蕎麦屋さんの店先にあるたぬきの置物くらい、なんの役にも立ちませんから」

「じゃあ、どういうこと?」

「私は違いを認め合うってのは、『理解できない』ってことを受け入れたうえで、その理解できなさを面白がったり、尊重しあったりすることだと思うんです」

「違いを面白がったり、尊重しあう……」


 ぼそっと琴葉がつぶやく。


 いつものごとく、非常に小さな声だが、そこにはなにか芯のようなものが感じられた。香澄の言葉を受け、どうやら、琴葉のなかに何らかの変化が起き始めているらしい。


「私は琴葉ちゃんの悩みも学校での問題も家の事情も、そのどれもさっぱり理解できていません。今後も正直、琴葉ちゃんの気持ちを完璧に理解できる日は来ないでしょう。でも、お姉ちゃんのこととか家のこととか、理解できないものとして、違いを面白がったり、尊重することはできます。それは約束できます」

「どうして約束できるって言うの?」

「それは私が大人だから……」


 いつもの口癖を言いかけるが、なぜか香澄は途中でストップ。そして、さらになぜか俺を一瞥する。


 首をかしげてみせると、香澄はふふっと不敵な笑みを浮かべて、こう述べた。


「いえ、違いますね。石神井香澄だから。世界イチ変わり者で、世界イチ変わり者が大好きな、石神井大和の妹だからです」


 香澄の見せたイタズラっぽい笑みは、兄である石神井大和がいつも俺に見せているものと、そっくりだった。


 ……でも、そうだよな。


 あいつこそ、「人と違うことを楽しむ」人間だもんな。だからこそ、俺とか中野とか高寺とか本天沼さんとか、ちょっとズレてたり、かなりズレてたりする人と仲良くやれるんだもんな。


 そして、香澄はそれまでの真面目な表情を崩すと……。


 琴葉に対し、優しい微笑みを浮かべた。


「私たち、お友達になりましょう」


 その提案に対し、琴葉は一瞬大きく目を見開く。


 だが、すぐに泣きそうな表情になり、しかし涙を必死に堪えたまま。


「……うん」


 ギュッと香澄の体を抱き締めたのだった。

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